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確かに愛はあったはずなのに。
それが本当にあったのかすら、もう思い出せない──。
初めまして、と挨拶を交わしたのはもう12年も前。
当時立太子前の、フィリク=ディジルド第一王子殿下と、私ルシア=リュースウェルが出逢ったのは、私的なお茶会の場だった。
フィリク殿下の母君である正妃様と、私の母は親友だということで、連れてこられたときの話だ。
王家と公爵家、ただ家格と年齢が釣り合っていただけといえば、それまでのこと。婚約に至った経緯など、そんな希薄な理由でしかなかった。多分に母たちの影響もあったとは思うが。
幼い頃は、それなりに交流があった。自発的な、私たちの意思が反映されたものではなく、やはり母たちに付き合わされた形で。
殿下はいつも居心地の悪そうな顔をしていたように思う。女性ばかりで、話題もそれなりとくれば、それも致し方ないことだろう。
婚約者として、2人でのお茶会が始まったのは、5歳を過ぎた頃だっただろうか。
初めて意思確認をされたのだ。
母たちの言いなりのように、婚約者となったことに不満はないのかと。
国王陛下はこの婚約に異存はなく、私の父も何を言うでもなかったので、聞かれたことに対して逆に疑問に思ったものだ。
そのように伝えると、殿下の表情は曇った気がした。既にその頃から感情を表に出さないよう、教育を受けていた彼らしくもなく。
『それなら、母とは関係なく、僕は君と良好な関係を築いていこうと思う。政略結婚とはいえ、お互いを尊重し合うことは大切なことだと思うから』
大人びた、また私という個を認めた上での言葉だった。
頷き、同意を返すと安堵したようにフィリク殿下は表情を緩めた。それを見て、この方を支えていこうと決意したのだ。
それから、それぞれの教育の傍ら、定期的に交流を重ね、ゆっくりと情を深めていき。気付けば、私に恋という感情が芽生えていた。
彼の真摯で誠実な人となりに、その勤勉さに、民を思う心に、好ましいという思いから、殿下自身を慕うようになった。なってしまった。──私だけが。
だからなのだろうか。
同じ気持ちを返してほしいと思っても、言葉にしたことはないのに。
私だけを見てほしいと願っても、口に出したことはないのに。
殿下の姿を一目でも見たいと、声を聞きたいと思っていても、態度に出したことはないのに。
所詮、私たちの関係は政略結婚でしかなく。良好な関係を築こうと努力はしても、それが恋や愛にはならなかった。
フィリク殿下が私を疎ましく思うようになったのも、それだけのことなのだ。
決定的な亀裂が入ったのは、貴族学院に入学してからだった。この国では、15歳から3年間、貴族は入学を義務付けられている。
そこで、殿下は出逢ってしまったのだ。マリエル=アドリエ子爵令嬢と。
傍にいた私は、フィリク殿下が恋に落ちるのを、見てしまった。緩く波打つ金の髪、人を魅了するような大きなオレンジの瞳に、屈託のない笑顔に、心奪われるのを。
惚けていたのは一瞬で、気付いたのもおそらく私だけであっただろう。その場は上手く取り繕った殿下に、気のせいであってほしいと思っていた。願っていた。
けれど、それからも、彼女を見かけるたびに無意識に追っている視線が、何かを言いたげな目が。向ける切なそうな目が、何より殿下の恋情を物語っていた。
決して私に向けられることのない、熱の籠った焦がれる瞳。
間近で見せつけられるたび、全身を氷で浸されたようだった。同時に、針で刺すような痛みが私を襲う。殿下に対する想いの深さの分だけ、痛みは増していく。
婚約者としての義務は果たされている。月に2度のお茶会。夜会のエスコート、折に触れての贈り物、手紙。
かの令嬢に接触したり、私を避けたり、遠ざけたりなど、露骨な行動をしているわけでもない。
私への態度は、今までと変わらない。何も、変わらないのだ。
定例のお茶会は、王城の四阿で行われる。決まった日の決まった時間に。
教育の進捗や学院のこと、国の情勢など、殿下との会話はいつしか事務的なものとなってしまった。ため息を堪えて笑顔を浮かべる。感情の制御は真っ先に教わることなのに、憂鬱な顔が表に出そうになる。
美味しいはずのお茶も、あまり味を感じない。
「学院と言えば、今期からアドリエ嬢が生徒会に入ることになる」
「…っ」
動揺のあまりティーカップを持つ手が震えた。取り落とさなかっただけ、まだよかったというべきか。
私の反応が気に障ったのだろう、僅かに険を帯びた殿下の咎めるような声が鋭く貫く。
「成績優秀者が加入するのは自然なことだが、何か問題でもあるのかな?」
「いえ…」
言葉少なに否定するも、視線の鋭さは緩まない。
学院の生徒会は、生徒会長を代々王族が務め、メンバーには婚約者と、あとは成績によって選出される。確かに、かの令嬢は学年5位以内に入っていて、加入条件にも当てはまっている。
何も驚くことではなかったのに、急に出てきた殿下の想い人の名前に、咄嗟に揺らいでしまったのは私のミスだ。
「君が何を憂慮しているのかは分かっている」
気付かれていることに気付いてはいたが、言葉にされるとは思わず、真意を測るべく殿下を真っ直ぐに見据える。
「君とはいずれ、結婚しなければならない」
「…それは」
あくまでも政略結婚で、殿下の意思ではないと。義務でしかないと、おっしゃるのですね。
「責務を忘れたわけではない。だが」
心は自由だと。
想うことだけは好きにさせてくれ。
「……」
義務は忘れず果たす。在学中くらいは、せめて自由にさせてくれと言われ、私に何が言えただろう?
私、私は。
殿下をお慕いしています。婚約者だからではなく、殿下が王族でなくても、あなたが好きです。
あなたの志を、国と民を思う心を、支えたいと。
必死に勉学に励んできました。あなたの隣に立つのに、相応しくあるために、必死に努力してきました。
でも私のこの想いは、殿下の負担にしか、ならないのですね。
あなたはそれをお望みではないのですね。
私の金の髪に青の瞳。アドリエ嬢とそれほど違いがありますか?
何故、私では駄目なのですか?
私の何が、悪かったのでしょうか?
私の想いは、それほど疎んじられるものでしたか…?
聞けない問いが、降り積もっていく。
このままでいいのだろうかと、自問しながら答えが出ないまま。
フィリク殿下の予告通り、アドリエ嬢は生徒会に加入した。
特に何かがあるわけもなく、執務と雑務に追われる日々。彼女は殿下の見込み通り、器量だけでなく気立てもよく有能だった。それに下位貴族ながら、場の空気を読むのがうまい。愛嬌もありで、人を惹き付ける魅力もある。正直欠点という欠点が見当たらない。
「そろそろ休憩にしませんか? 皆さん、根詰めすぎですよ」
彼女の明るい声、笑顔に、室内の雰囲気が変わる。張りつめていたものが、緩くほどけるように。
アドリエ嬢が率先して、茶器を手にお茶を準備する。
出遅れてしまったが、手伝いに席を立とうとすると、彼女が1人で大丈夫ですよ、と手際よくカップを運んできた。
「どうぞ」
「…ありがとう」
まず殿下に運ばれ、次に私。それから殿下の側近たちと、他、役職に就いているものたちに。
彼女を見る殿下の柔らかい眼差しに、ちりりと胸が焦げる。
これは嫉妬だ。非の打ちどころのない彼女に。殿下に想いを寄せられる彼女に。
自分の醜さを思い知らされて、嫌になる。こんな感情を持っている自分への嫌悪感で、身の置き所がなくなるような不安定さも。
「アドリエ嬢って本当、気が利くよね」
「そうそう。いいタイミングで休憩入れてくれるし」
「俺なんか、どう? まだ婚約者いなかったよね?」
殿下の側近のレーヴライン侯爵令息とランドストム伯爵子息は、彼女を褒めつつ、軽口をたたく。
他意はないはずなのに、殿下の目が鋭くなる。
「レーヴライン様もランドストム様も、そんなこと言ってると、本命から逃げられちゃいますよ~」
「あらら。もしかしてバレてんの?」
「見てれば分かります」
「うわー…マジか」
「いやいや、アドリエ嬢の観察眼が鋭いだけじゃ?」
「……そうだったらいいですね」
「やめて! 怖いこと言わないで!!」
笑い声が響く。殿下も、そんな雰囲気に口元を緩める。和やかな会話なのに、私だけが取り残されている。
殿下の眩し気に細められる目が、焦がれるような目が、私を切り裂く。
「リュースウェル様? …顔色悪いですよ、大丈夫ですか?!」
ふと向けられたアドリエ嬢の視線と驚いた声で、ようやく向けられた殿下の目には何の温度もない。面倒そうな溜息と言葉は事務的だった。
「本当に、具合が悪そうだね。今日はもう急ぎの仕事はないし、帰宅するといい」
「──はい。申し訳ありませんが、これで失礼します」
席を立つと、他の役員の方からも気遣う言葉がかけられる。
殿下よりも、余程温かい言葉が。
変わらないものなどないのだと思い知らされる。
殿下は、ご自分の立場も責任も忘れているわけではない。それでも、それは少しずつ、形を変えていくようで。
これからどうなるのか、怖くて身震いが止まらなかった。




