7・玻璃の音
目や耳などの感覚器官が大きいという事は、それによって受ける影響も大きいという事。
ウサギは近くで大きな音を立てると、文字通り脱兎のごとく逃げ出すか、逆に硬直し動けなくなるか。
黒妖精はサトルを迎え撃つつもりだったからだろう、逃げ出さずびくりと体を震わせ硬直した。
その硬直した黒妖精に向かい、サトルは飛び込み、体重をかけて鎧通しを突き立てた。
「ギャー!」
子供の悲鳴のような声を上げて、黒妖精がもんどりうつ。
サトルは突き立てた鎧通しを殴りつけるように、右の手を鎧通しにあてがいながら立ち上がると、先程自分が飛び降りた階段を這うように登った。
身を低くするサトルの頭上をニゲラが飛び越える。
肩口に鎧通しが付きたてられた黒妖精を踏みつけようとするも、黒妖精は頭上の陰に気が付いたか這うように逃げた。しかし間に合わず、ニゲラは黒妖精の尾を踏みつぶした。
擦り切れるように黒妖精の尾が千切れ、黒妖精は転がるように階段の段差にぶつかった。
痛みが混乱を引き起こしたか、尾を失いバランスが取れなくなったか、黒妖精は上手く立ち上がる事が出来ず、地面をゴロゴロと転げまわる。
「往生してください!」
ニゲラは黒妖精にとどめを刺そうと、踏み出した。
「ギャアアアアアアアアアアア!」
聞こえた遠吠えは別の黒妖精の声。ニゲラは一瞬そちらへと意識を向けてしまう。
しまったと思った時にはもう遅く、尾の千切れた黒妖精は力を振り絞りニゲラへと飛び掛かっていた。
「テカちゃん最大光量!」
サトルがそう命じたとたん、まるで太陽でも爆発したのかと思うほどの強い光が路地を埋め尽くした。
「グギャアアアア!」
「ギャギャギャギャギャギャ!」
テカちゃんの名前を聞いた瞬間から目を閉じていたニゲラは、聞こえる声を頼りに、足を振り下ろした。
「ギャ!」
黒妖精の断末魔は短く、それを聞いた瞬間、ニゲラはもう一匹いるだろう、声の聞こえた方へと咆哮した。
「グルウウウウオオオオオオオオオオ!」
「っ!」
建物の上にいたらしい黒妖精が、驚いたように落ちてくる。
その時にはすでにニゲラが頭を踏みつぶした黒妖精は、激しい火花のかたまに理になっていた。
その火花に向けて、落ちてきた黒妖精を蹴り飛ばすニゲラ。
「ギャアアアアアア!」
二匹目の黒妖精も、断末魔の後激しい火花の塊となった。
火花が落ち着くのを待ち、サトルは大きく肩で息を吐いた。
サトルのシャツの襟から各々首を出し、テカちゃんやキンちゃんたちもフォンフォンキュムンと安堵の様子。
妖精を黒妖精が体内に閉じ込めることができるかもしれない、そう気が付いて以降、サトルは妖精たちを守るためにジャケットの内側などに隠れているように言っていた。
視覚に特化している生物なら、パッと見た目の判断で油断することもある。妖精たちを隠していたことが運よく作用したようだった。
「……やっぱり待ち伏せだった」
肩で息をしながらサトルは呟く。
幸いなことに、黒妖精は遺体が残らない。生々しい血肉が苦手なサトルには、むしろ相手にしやすい存在だった。
それでも自分が付きたてた鎧通し越しの肉の感触を思い出しテカ、サトルの手は小刻みに震えていた。
まだ腰が抜けたように階段に縋りついているサトルの傍に来ると、ニゲラ不思議そうにサトルの顔を覗き込む。
「父さんはどこまで読んでいたんですか?」
ニゲラの言う読むというのは、先の展開を読むという事だろうかと、サトルは首をかしげる。
ニゲラに吼えるように言ったことだろうか、それとも妖精たちを服の内側に隠して相手に手札を見せないようにしたことだろうか、はたまた待ち伏せと踏んでもう一匹への警戒を怠っていなかったことだろうか。
「いや……何も相手の出方を読んだわけじゃない」
サトルは一通り考えて、どれもあり得るが、どれでもない場合もあるかと想定してただけ。
ほとんど妄想に近いような「もしも」を考えて、考えた結果、それに近い状況になった時にとっさに体が動いたのだ。
「癖なんだ、色々考えるのが……考えておかないと、俺は臆病だからすぐに動けなくなる。だから……」
その瞬間に動けなくて好機を逃したら、自分の性格上一生の後悔をすることも分かっていた。
何度も考えた。考えて考えて、自分だけで動く方がいいと思うようになったのも、結局他人の動きは考えても理解できなかったからだったように、今なら思う。
黒妖精がいた場所には、何かが激しく燃えたような黒ずみが残るばかり。何処にも黒妖精がいた証拠になりそうなものは残っていない。
自分とニゲラで黒妖精を倒したという実感も無いまま、サトルはすこしぼうっとしてしまう。気のせいでなければ左の手首が酷く痛んでいた。
ニゲラはそんな呆けてしまったサトルを、どうしたものかと困ったように見下ろす。
そんな二人の元に、ようやくルーとマレインが追い付いてきた。
「サトルさん!」
階段に伏せるように座り込むサトルを見て、ルーは驚いた様子で駆け寄ってきた。
マレインはすぐには駆けよらず、階段の上部からサトルたちが倒した黒妖精の跡、真っ黒な地面の焦げ付きを眺め、確認するように問う。
「さっきの声は、もしかして倒したのか?」
サトルはようやく立ち上がり、マレインに返す。
「ああ、二匹いた。たぶんアーケードの方にはもっといる」
黒妖精の数ははっきりとしていないはずだが、まだ複数いるはずだと断言するサトルに、マレインは怪訝に問い返す。
「どうしてそう思う?」
サトルは焦げ跡を指さすと、簡単に自分がやったことを説明する。
「二匹とも倒した、けどどちらもギンちゃんたちを食べていない。それと、先行させたモーさんたちが何も反応を返さない……あの声を聞いて四匹のモーさんたちが帰ってこないというのもおかしいんだ。彼女たちはとても人間を好いている。俺たちを放っておくとは思えない。モーさんたちが足止めされてるのかもしれない」
それに答えるように、肩の上の小さいモーさんが、モーモーと鳴いて頷いた。
やはりモーさんは黒妖精に足止めをされているらしい。ならばモーさんを助けなくてはと、サトルはすぐにアーケードに行くことを決めた。
「アーケードに行く、ルーは危険だと思うから、人の通りのある所に避難しててくれ」
「けど……」
サトルがまた危険に飛び込んでいくのは容認できないと渋るルー。
マレインはルーとは違いサトルがアーケードに向かう事は止めなかったが、苦い顔をしサトルの左手を指さした。
「それは構わないが、君、まさかとは思うが、それ手首折れてるんじゃ?」
指摘されサトルは隠すことも無いかと、ためらいなくけがの状態を答える。
サトルの左手首は誰の目から見ても分かるほどに腫れていたうえ、だらりと力なくたれ下げられていた。
「多分罅くらいだ。痛いけど動くし」
とたんルーが声を裏返しサトルを非難した。
「動かさないでくださいよ!」
詰め寄るルーから距離を取るサトル。
「想定の範囲だよ。あの黒妖精に刃物を通すんだったら、こっちの手もダメージを受けることが考えられたんだ」
黒妖精が固いという事は分かっていた。さすがに攻撃に使う爪と、動くための筋肉の硬さは違っているようだったが、それでも密度の高い筋肉ただ握りを良くし尖らせただけの金属を突き立てるには、かなりの力が必要になる。
実際にダンジョン内で黒妖精を倒した時よりも、今回の方がより深く突き刺せていたので、やはり勢いは大事だったなと、サトル自身は左手首の骨の日々は名誉の負傷程度にしか思っていなかった。
「それともう一つ分かった。黒妖精は通常が触れる状態か、もしくは左手で一度黒妖精に突き立てた鎧通しは、妖精に触れない奴でも触れることができるから、俺が一度黒妖精に鎧通しを突き立てたら、そこを攻撃するといい」
手首の骨に罅を入れながらも、サトルは右手でも鎧通しを使い黒妖精にダメージを与えられるかを確認していた。
「なるほど、朗報だ。だが君は馬鹿か」
寧ろ誇らしげとも言えるサトルの報告にマレインは頬を引きつらせ、その情報を得るためにどんな無茶をしたんだと呆れる。
ルーもまた、自分の身を顧みないサトルに、目に涙をためて怒りをぶつけた。
「何でこんな無茶をするんですか! まるで怪我なんてして当たり前って顔をしているし、最低ですよサトルさん!」
人に泣かれるのは好きではない。サトルはさらに逃げるようにルーから距離を取るが、ルーはサトルを逃がさないと、怪我をしていない右の手を掴んだ。
「怪我、治せましたよね? 治してください……サトルさんが何時までも痛いままなんて嫌ですよ」
心配をしても結局無茶をするサトルに、ルーは激しく怒りながらも、それでも無茶をされる以上に、サトルが苦しい想いをするのが嫌だと訴える。
その涙交じりの訴えに、サトルは胃が痛くなるのを感じながら、すまなかったと謝る。
「ああ……本当にごめん、ルー。キンちゃんお願い」
ようやく出番なのかと言わんばかりに、キンちゃんはフォフォンと鳴くと、サトルのジャケットの内側から飛び出し、左手首へと寄り縋った。
「ギャア!」
まるでその瞬間を狙っていたかのように、二匹目の黒妖精が現れたのと同じ建物の上から、三匹目の黒妖精が飛び出してきた。
黒妖精は飛び降りるとすぐにキンちゃんに向かって飛び出すが、サトルはルーの手を引き共に回避する。
しかしサトルたちが立っていたのは階段の上、すぐに逃げるにしても足場が良くないせいでルーはたたらを踏んでしまう。
それを見た黒妖精は、サトルやサトルがとっさに隠したキンちゃんではなくルーへと狙いを変えた。
サトルは臍を噛む。複数存在すると分かっていたなら、もう一匹伏兵がいるかもしれないと、予想することもできたはずだ。しかしサトルは油断をしていた。
襲撃に時間差をつけるほどの知能があると思っていなかったのだ。
自分の考えの甘さにサトルは酷く後悔した。
身構えるサトルの脇を抜けるようにし、ルーの脇腹へと鋭い鉤爪を振るう。
ギャギャギャっと、何か固いものがこすれる音がして、ルーは路地の壁に叩きつけられるようにして倒れた。
「ルー!」
とっさにサトルは黒妖精に蹴りを繰り出すが、黒妖精はサトルの足を透過してやり過ごし、再びルーへと飛び掛かろうとした。
「やめろおおおおおお!」
飛び上がった黒妖精を、ニゲラが両手で掴むように地面に押し付け、頭を掴むと、何度も階段の段差に叩きつけた。
頭蓋が割れたか、口から黒い液体をまき散らした。
瀕死の黒妖精が明るく輝くのを見てサトルは叫んだ。
「ニゲラ! 離れろ!」
「ギャアアアアアア!」
響く黒妖精の断末魔の声。
「ぐう!」
ニゲラは黒妖精の高温の火花にやられ、悲鳴を上げて階段下まで転げ落ちた。
「ニゲラ!」
とっさにニゲラを助け起こしに行こうとするサトルに、自分よりも先にルーを見ろとニゲラは言う。
「僕は平気です! それよりルーを!」
ニゲラは声こそ擦れていたが意識はあるようで、すぐに手当てをしなくても大丈夫の様に見えた。
サトルは壁に叩きつけられてぐったりしているルーの傍にしゃがみ込む。
その間マレインが代わりにニゲラの元まで階段を下る。
「ルー! ルー! 怪我は? 今治す!」
意識がハッキリしていないならと、サトルは必至にルーに声をかけるが、ルーは強かに打った背の痛みに呻いていただけで、意識はあるようだった。
呻きながらもルーは自分は平気だと答える。
「いえ……あの、これ、あったので」
そう言ってルーが取り出したのは、つい先ほどサトルが持たせたばかりの、黒い竜の鱗だった。まさかそれが本当に鎧の代わりをしてくれると鳩、サトルは瞠目する。
黒妖精が狙ってくるのは足やわき腹なので、挟み込んでおけと言ったのもサトルだった。
「……はは、備えあれば患いなしか」
安堵した途端襲ってきた疲労感に、サトルは地面に膝を突き、乾いた笑いをこぼした。
不意に、パリンと、薄いガラスが割れるような音がして、ルーが持っていた鱗が砕けた。
今までどんなに攻撃を加えても傷一つ付かなかったはずの鱗が、ばらばらに砕け砂のように細かな粒となって地面に落ちた。
驚くサトルたちの目の前で、地面に積もった鱗の破片がもぞりと蠢いた。
サトルはとっさにルーを庇うように抱きしめた。
しかし、その鱗の破片から現れたのは、どことなく見知った姿に似た一匹の妖精だった。
蛍光グリーンに光るダンジョンの妖精は、ガラスの器を弾く様な涼やかな声で、リリンと鳴いた。