5・変異する
サトルの手により意識が無いらしい病人の女から引き離されたバーベナは、それでもその女を助けなくてはと訴える。
「この方が今此処で一番重症なんです!」
黒妖精を知っているらしいバーベナ。ならばそれが自分には対処のできない危険なものである可能性も知っているだろう。しかし自分の身が危険にさらされるかもしれない事より、目の前の弱っている者へと心を向けるバーベナのその言葉に、サトルは流石にルーの姉貴分だなと感心する。
「分かった」
飛び出した線香花火のような光は女の傍にありはするが、すぐには襲ってくる様子はない。サトルは意を決してその光に左手を伸ばし、壁に向かって叩きつけるように払った。
紙パックに入っているジュースほどの軽いとも重いとも言えない手ごたえ。
弾き飛ばされた光は壁にぶつかると、まるで生き物が慌てるように震え、ジグザグの軌道を描きながら天井付近まで登っていく。
その線香花火の内側に、覚えのある猫耳の妖精や肉の腐るような悪臭、それとギャー! という子供の泣き喚くような声を聞き、やはりこれがダンジョンに捕らわれていた黒妖精で、水害とともに外に出てきたのだと確信した。
「今のうちに!」
女の身体はやせ細っており、上手く担架を作らずとも無理やり引きずって行けそうだったので、サトルは足元だけ縛ってバーベナに引っ張っていくように指示する。
まだ黒妖精はサトルに向かってギャーギャー! と喚きたてているので、いつ襲われても良いようにサトルはこの場に背を向けられなかった。
しかし黒妖精はサトルの覚悟など知らないとばかりに、不意に未だ激しい光を放っているギンちゃんたちに向かって飛び込んで行った。
「あ! くそ! そっちに加勢をする気か!」
サトルが舌を打つのと同時に、突然妖精たちの光が強くなり氷の壁が砕けた。ギャリンという耳障りな摩擦音を立て氷はねじれるように砕け、飛び散るのではなくその場に崩れた。幸い目をふさぐほどの光はもう発していなかった。
予想外の事態。妖精たちは物理的なぶつかり合いをしているとは思っていなかった。
こんなこと脳内でだってシミュレートしたことは無かったので、サトルは悲鳴のように叫んだ。
「逃げろ! よくわからないけどたぶん拙いことになった! 妖精というよりこれはモンスターだ!」
砕けた氷の中には、先程迄の愛嬌すら感じる雑な猫耳の妖精ではなく、別のモンスターが立っていた。
形は二足歩行をした毛の無い兎。それも野兎などのかなり筋肉質な部類で、サイズは平均的な大型犬よりもさらに大きい。何よりサトルがそれをモンスターと断じた理由は、明らかに草食動物にはあり得ない鉤爪の付いた巨大な前足と、まるでカマキリのそれを雑にコラージュしたようなその顔だった。
「どうなってるの? あのモンスター何?」
オキザリスもまた悲鳴じみた声でサトルにキャンキャンと吠え付く。
答えようとし、サトルはオキザリスの「あの」という言葉に違和感を覚えた。
「見えるのか?」
「さっき強く光った後から急に」
強く光ったというのは氷が砕ける直前、二匹目の黒妖精が飛び込んだ直後だろう。
という事は、二匹が合体してあの姿になったという事だろうか。
サトルはルーに聞いた黒妖精についてできる限り思い出そうと記憶を探る。
「あれが黒妖精……のはずだ」
黒妖精と思わ色モンスターはサトルたちの様子を窺うように、じいっと巨大な目を向けてくるばかり。カマキリの目の構造と同じならば、きっとこの目はかなりの視野を誇るのだろう。
サトルはオキザリスたちを自分の背に庇うようにじりじりとすり足で動き、黒妖精と対峙する。
「ちょっと無茶は止めてよ!」
「無理! サトルは無茶をする人だから、俺たちは俺たちのやる事やって負担を減らすよ!」
オキザリスが叫ぶ。一緒に病人を運び出そうとしていたヒースが、強い口調でオキザリスを窘める。
「でも」
「いいから動かなきゃ! 助けられる人は助けなきゃ駄目だろ!」
ヒースに強く肩を叩かれ、オキザリスは臍を噛みながら頷く。
「すぐ皆避難させるから! 無理しないで!」
サトルはその声を背中に聞きながら、口の端を軽く持ち上げる。
ヒースとオキザリスは案外といいコンビになりそうだ。オキザリスもあの形だが冒険者に興味があるらしかった。もしここで上手く対処ができたなら、ガランガル屋敷の皆に頭を下げて、どうにか彼らも受け入れてもらえるようにしようと、サトルは決心する。
自分の左手は妖精に触れらるらしい。二度も黒妖精を払いサトルは確信をしていた。
黒妖精を凝視したままサトルは自分の状況を確認する。ステゴロは得意ではないが、訓練を受けた事が無いわけでもない。ただし動物相手に通じるかはわからない。
相手の体格を確認する。兎のようだと感じたが、よく見れば長い尾が伸びている。両足とその尾で体重を支えているのなら、多分カンガルーに近いのだろう。しかし骨格はどう見ても兎だ。カンガルーほど太腿が発達している様子はない。前足の先端が螻蛄の鉤爪の様に肥大化しているのは、どちらかと言うと前足が武器だからだろうか。顔立ちがカマキリに似ているのは肉食の昆虫の様な食性だからかもしれない。この大きさで何の肉を食べるのか、想像もしたくない。
「駄目だな……」
見た目だけではどんな攻撃をしてくるのかもわからない。腰を落として構えてみるも、もし相手が兎のように四足で飛び込んでくるなら、サトルが素手での対処で出来るのは、せいぜいがその場に抑えることくらいだろう。
何より、頼みの綱のはずのギンちゃんたち妖精の姿が見当たらない。
妖精が簡単に死んでしまうとは思い難い。弱ったとしてもその姿が消えるはずはない。だとしたら……。
「まさか食われたのか」
ギンちゃん、サンちゃん、だいふく、おはぎ、おもち、ねりきり、らくがん、しらたま、全部で八匹いたはずだ。
サトルの傍でキンちゃんがフォンと返事をするように鳴く。どうやら食べられたという予想は当たっているらしい。
「随分と大食漢だ」
サトルは今の状況を考える。小屋の中には残り七人。少なくともこの七人を無事この小屋から脱出させるくらいまでは時間を稼ぐべきだろう。
黒妖精が動いた。
サトルは考える。
使えるのは左手だけ。相手の攻撃に対処するには左手を使うしかない。たとえ穢しても構わない。キンちゃんたちがいるので怪我は治る。ニゲラのおかげでドラゴナイトアゲートの数は十分。即死亡しなければ持久戦で時間だけは稼げる。
助けるためにはやるしかない。
予測していた通り前傾姿勢になり、黒妖精はバネのように体をたわめ飛び出した。
これはある意味幸運だった。カンガルーのように組み付いてからの蹴りを受ければ、大きくて八十キロを超える巨体を支える筋肉により、良くて内臓破裂、悪くて心停止で即死だ。カンガルーは人間が考えてるよりも意外と危険な生き物だ。この黒妖精はそこまで大きくはないが、それでも体を支える筋肉が直接腹に叩きこまれるのは勘弁願いたい。
対して牙や前足を使って襲ってくる動物は、喉笛を守れば意外と逃げるチャンスはある。カンガルーより攻撃が当たる可能性が高いが、その痛みに耐えさえすればチャンスはある。
サトルは左手をあえて相手に噛ませるように横に構えて迎え撃った。
しかしサトルは黒妖精のその動きだけで四足の獣の特徴であると断じていたが、顔立ちからはまるで考えていなかった。
カマキリの口は飛び付いて獲物に噛みつくのには向いていない。
面と向かって戦いを挑む相手に対処する気は最初からなかったのだ。
黒妖精はサトルに突進していたかと思ったが、とたん飛び上がり体を捻ると、その後ろ、逃げるために病人を引きずっていたオキザリスたちに向かっていった。
「しまった!」
獣であれば自分に害が及ぶ可能性を考え、臨戦態勢の存在がいる場合こんなにあっさりと背中を見せることは無い。しかし相手は黒妖精た。
サトルはとっさに右手を伸ばすが、やはり右の手は黒妖精の身体をすり抜けた。
オキザリスが悲鳴を上げ、足をもつれさせる。倒れたオキザリスの上に飛び掛かろうとする黒妖精。
しかし、その黒妖精の腹に飛び込んでいく白い姿があった。
「モモモモモモー!」
力強く鳴きながら、モーさんは黒妖精を弾き飛ばした。