8・七人の敵あり
オキザリスが堤防を降り、駆けていくのを見ながら、サトルは膝を折った。
「ああ、馬鹿だよ……こんな時まで、何格好付けてるんだろうな」
がくがくと震える膝では、これ以上体重を支えていられなかった。
水害がまさに今ころうとしている。それを目の前にして、サトルはひどく怯え、恐怖していた。しかしそれ以上に、今度こそ何とかしなくてはという強い脅迫観念に襲われていた。
周りに人がいる間は、とにかく動け動けと猪突猛進に働いていたが、人が周りから消えたとたん、サトルの中の恐怖がはじけ、膝に力が入らなくなっていた。
心臓はもうとっくに暴走しきりで、呼吸が苦しいのは横殴りのせいではなく、本当はちゃんと息を吸えていないからだという事も分かっていた。
視界がぼやけるように感じるのも、意識しない内に涙があふれていたからだった。
怖い、苦しい、助けてほしい。
そう思っても助けてくれる者はいない。むしろサトル自身が助けなければいけない立場だ。
分かっているのに体が震えて力が入らない。
「うごけ、うごけ、うごけ」
オキザリスも言っていた。サトルは勇者なのだと。だからサトルが勇気を出して民衆を助けるべきなのだ。
英雄でも、救世主でもなく、勇者と呼ばれる自分の仕事だ。
「俺ならできる、だから動け、動け、動け」
何度も何度も繰り返して、ようやく少しだけ足に体を支える力がもどったようだった。
キンちゃんたちは不安そうにフォーンと鳴いてサトルにすり寄る。
「大丈夫だ……俺は、ちゃんと働ける」
フラフラと立ち上がりながら、サトルは今にも決壊しそうなカ所へと近付いて行く。
とても危険な行為だが、より確実にするためには、距離を詰める必要が有った。
「ベルナルド、ここを、凍らせてくれ……隙間を埋めるように水が染み込んでる。それを……どんなに俺の魔力を使っても構わない。時間稼ぎだってのは分かってる……」
ローゼルに連れられて行った会食の会場で、雪を降らせてみた時に気が付いたのだが、魔力と言うのは水のように流動する物であり、魔法を使う際に自分の周辺から影響が及ぶようにしない場合、通常よりも多く魔力を消費した。
それはさながら、コップの水をこぼして広げるよりも、水を遠くに飛ばす方が力を必要とするときのようだと、サトルは感じていた。
自分と魔法を発動させたい場所の距離は、できるだけ詰めなければ、強力な魔法はそう何度も使えないだろう。
「もっと、もっと広く、硬く、溶けないように……」
少しずつ崩れる堤防のに手を付き、サトルは氷の精霊ベルナルドの力を借り、その場所を凍らせた。
とにかく魔力を注ぎ、まるで永久凍土のように、硬く固く凍り付けと念じれば、サトルの座り込んだ一体に霜が降りるほどに硬く凍り付いた。
サトルのジャケットの内ポケットの中で、ドラゴナイトアゲートが崩れた。
それでもまだいくつものドラゴナイトアゲートをサトルは所持していた。
「……だいじょうぶ、ニゲラがドラゴナイトアゲートを沢山見つけてきてくれている。それにコーンも手伝ってくれてるんだ」
サトルがニゲラに頼み集めていたドラゴナイトアゲート。ニゲラの名付け親であり、ニゲラがお爺ちゃんと呼んで慕う老齢の竜もまた、サトルのために動いてくれていた。
おかげでサトルは魔力を気にすることなく魔法が使えた。多少の疲れは感じたが、十分動ける状態だ。
サトルは今の自分なら、きっと人を救えると確信する。
「でも、これもただの時間稼ぎだ。他に何か、確実に被害を押さえる方法を探さないといけないよな」
今凍らせた堤防は、川の左右に土を盛り、ダンジョン石で舗装して強度を高めた物だったが、サトルが凍らせたことで崩れるのは止まった物の、水分の膨張で舗装用のダンジョン石が浮いているのが見えた。
時間は稼いだが、氷が解けるまでに更なる補修をしなければ、あっさりと崩れるだろうと予想できた。
「……ウワバミ、流れを堰き止めるのはできないんだよな……だったら、少しだけ反らすのは?」
姿は見えないが精霊は常に世界に存在している。サトルの呼びかけにわずかな反応が有った。雨の粒が一瞬だけ先ほどより激しく打ち付ける。
その雨音にウワバミの声が混じるように聞こえた。
『少しだけね、タイミング次第よ』
硬い声音だ。出来はするがその力を使うとしたら、サトルの魔力だけでは足りないのだろう。
ただし、水を流したいその一瞬さえ分かっていれば、被害を押さえること自体は可能かもしれない。
「決壊させるタイミングを計って……いや、難しいな本当にいつになるか分からない」
凍り付いた堤防を見ながらラサトルはぶつぶつと声に出して考える。
「何にせよ避難誘導が完全に済んだかどうかも分からないんだ。今やるべきじゃない。それにここを決壊させるのはやっぱり危ないだろ……水が抜ける方向が分からないんだし」
それだけではない、他にも懸念がある。
「水が此処迄濁ってるんだ……中には確実に土砂が混じってるよな……流木が無いのは、ダンジョンが水だけ排出してるから?」
だったらまだ助かるんだがと、サトルは独り言ちる。そうすれば土砂の量もそれほど多くない可能性があり、今後も流木についてはそこまで強く心配する必要はない。
流木は土砂以上に厄介だ。川の底を埋めるだけでなく、流れてくるとそれだけで重量のある凶器になる。人の身ほども太さがあれば、それだけで天然の破城槌だ。
「何やってるんだあんた、こんなところで」
しばらくその場で考え込んでいると、再びサトルに声をかける者があった。
高い位置にいて煌々と辺りを照らしているのだから、ちょっと遠めから見てもすぐにサトルがいると分かるほど。まして川の様子を気にして見に来る者がいたら、見つかるのも無理はないだろう。
見れば見知らぬ顔の男ばかり五人。服装はいたって平凡で、サトルの様な撥水の上着も着ていない。古着なのかやや裾がほつれ汚れが染みついたくすんだ色をしている。
よくよく見れば、見知った顔が一人混じっていた。
男たちはサトルが何をしているのか確かめるために、堤防の上へと昇ってきた。
いくつもの明りに凍り付いた堤防。その異様な光景に男たちがざわつく。
「あんた何者だい?」
サトルの使っている魔法が何か分からないからか、怯えるように距離を取ったまま、男たちのリーダー格だろう髭面が問う。
男たちはオキザリスとは違って明かりを持っていなかったようだ。
サトルの周辺を照らす妖精たちを物欲しそうな目で見ていた。サトルはその視線に警戒することを決めた。
「人に頼まれて、決壊しそうなところがないかを探していた。これは応急処置だ。今から報告に行くところだ。そう言うあんたたちは?」
正確な話はせず、他にも仲間がいることを匂わせる。
男たちはサトルの言葉に視線を交わし合い、どうするかとささやき合う。
雨音が強く男たちの声をはっきり拾うことができない。サトルは内心舌打ちをする。
話がまとまったか、髭面の男がサトルに応える。
「俺たちはこの地域の見回りをしてるだけだ……あんたが来たのはもっと上のほうか?」
ターン制の質問に、サトルは短く「そうだ」と答える。
「この上で土嚢を積んで応急処置をしている」
「そうかい、だったらここは気にせんでくれ、俺たちがどうにかする」
「……分かった」
言葉では素直に頷いておくが、もちろんサトルはここのことをタイムの父親に報告するつもりだった。
急いで上流に戻るため、男たちの横をすり抜けるサトルの肩を、そのうちの一人が掴んだ。
「なあ、やっぱりあんた、どこかで会ったか?」
どうやらサトルの顔を見た時からずっと気になっていたのだろう、この中では比較的若く神経質そうな顔をした男だった。
もちろんサトルはこの男に見覚えがあった。
「いや、初対面だと思う」
本当は初対面ではなく、サトルはこの男がイグサと言う名前であることも知っている。しかし以前連れていた二人の冒険者風のごろつきはここにはいないようだった。
イグサを含めて三人は、サトルに対して一切好意的ではなかった人物だ。髪の色のせいで思い出せないのなら、そのままでいてもらおうと、サトルは白を切る。
しかしイグサは納得していない様子。
「これはいったい何を?」
イグサは以前サトルが精霊を使い、目くらましをした場面にいたからだろうか、キンちゃんたちの光に興味を示す。
サトルは真顔で嘘を吐いた。
「精霊魔法だ」
使い手の少ない魔法だ。きっとバレないだろうと思ったが、サトルの言葉に髭面の男は、納得するだけでなく、サトルへの警戒心も払拭してしまったようだった。
「これが精霊魔法か! ああ、ああ成程そういう事かい……いやはやべんりなもんだな。こんなに明るいなてなあ。なあ、あんた、だったら俺たちにも手を貸してくれや!」
得体の知れない魔法だったらあっちに行け、知ってる魔法だったら俺たちを手伝えと、随分自分勝手な物言いに、サトルは嫌だと首を振る。
サトルの態度に髭面の男は腹を立てたか、イグサを突き飛ばしてサトルの肩を使たんだ。
「洪水を未然に防げるかもしんねえんだよ、いいから手を貸せって」
髭面の男の言葉が信用に値するかはわからなかったが、どうやら拒否は許されないらしい。サトルは諦めて、しばらくは男に従うことにした。
それに本当に洪水を未然に防ぐことができるなら、それは願っても無いことだ。
「何をしろと?」
問えば髭面の男は苛立ちの表情から一転、笑みを浮かべてキンちゃんたちを指さす。
それが不快だったか、ギンちゃんが低くフォーンと鳴いた。
「その明りを貸してくれ」
「こいつは俺の傍からそんなに離れくれないんだ」
タイムやオキザリス相手ならともかく、この男には貸し出せないなと、サトルはまたも嘘を吐く。しかし男はまあそんなことだろうと思ったと、特に気にせず、だったらとサトルが自分たちについてくるように命じた。
「そうかい、だったらあんたが俺たちに付き合いな。なあに、すぐそこだからよ」
胡散臭いこと極まりなかったが、サトルは男の案内に従うことにした。
仮に本当に洪水を未然に防ぐことができるなら、男たちにとことん利用されてみるのも、悪くは無いとサトルは考えていた。