四日目~そして混迷は煮詰まったまま冷める目処は立たず*灰色の朝~
長らくお待たせ致しました(*´ー`*)
四日目の朝より、スタートです。
*
「おはようございます、翔摩先生」
「……心太、お前が四日目を迎えられて先生は嬉しいぞ……!!」
朝から返答しようの無い切り返しを受けつつも、苦笑に留める自分。
はい、いつも通りの学園の朝を迎えています。
どうして今日日は教室では無く、職員室から朝の一幕をお送りすることになったかと言えば。
事の次第は、昨日の『氷茨騒動』まで遡って頂ければ察して頂けることと思われる。
例の騒ぎによって、遅れて参加する予定でいた放課後のクラスマッチに向けた話し合いの席を欠席する羽目になった昨日の放課後。
正直に言おう。これは地味な弊害であった。
一応、蛍と二人教室を出る時には河伯さんに言付けてはいたものの。
あくまで、保険くらいの心積もりでいたのだ。
それが……まさか、言付け通りの不参加になるとは思いもしなかった。
邸へ帰り着いた後には、周囲に気付かれない程度にさり気無く頭を抱えたものである。
これは割と由々しき事態なのだ。うん。
現世においても基本、その協調性については殊更問題視されたことは無かった。
そんな今までを振り返りつつ。
改めて言うのも何だが、根は真面目な方だ。
その辺りの実直さは買ってもらいたい。是非ともね。
そんな少女の心境たるや、非常に複雑であることは言うまでも無く。
従って、今朝は校門でモッ君と合流するや、そのまま職員室へと直行して来た経緯であった。
涙目の担任教師に迎えられ、熱い抱擁までは流石にいかずとも交わされた握手の温度差。
温度差の中に、込められた意図。
ありったけの精神力と表情筋を総動員して、何事も無かった感を取り繕う。
少女はこれ以上、あの騒動に纏わる余波を無駄に広げたいとは思わない。
クラス担任のこの表情から察するに。
おそらく、ありのままの経緯を包み隠さず伝えていたのであろう。
そんな彼女の影がチラついてしょうがない。
普段から少女の言動をオカズ認定している彼女こと、河伯少女は壺組における立役者だ。
それを認識したうえで、言付けた自分。
責任の所在、それ即ち自業自得である。
魔王子こと夜君だけの話でこの反応なのだ。
ここに五月姫と龍灯家の三姉妹を加えたら、一体どんな化学反応が起こるかは予想するまでも無い。
自分はそれを、避けたい。
本来は伝えておくべきだと分かってはいても。
けれども、と逡巡し。
それでも、と思わざるを得ないのは。
その辺りが人間味というものである。
半分を人、半分を怪異に思考の在り方を割いている現在の自分なりの苦悩と言えよう。
朝からクラス担任のみならず、周囲を面識の無い大勢の労わる様な眼差しに晒されることとなった今。
とりあえず、前髪が長くて良かったと思うよ。
このささやかな砦は、往往にして心のゆとりを作ってくれる効果がある。
怪談学園の教師陣ほぼ全員から、視線を集めているのではと疑わずにはいられない現状において最大の効果を発揮していた。
うん、とりあえず時間帯を失敗したな自分。
逃れようの無い悔恨の念と共に、モッ君の溜息を懲りずに浴びている現状は居た堪れない。
可及的速やかに終わらせよう。
ただそれだけを脳裏に、あの視線の洪水の中を乗り越えた自分の成長。
当面の間は、職員室へ足を運ぶ理由が出てこないことを真摯に願いつつ。
今はただ、褒め称えたいと思う。
しかし、そんな感慨は肩乗りフクロウモッ君から放たれる冷ややかな視線の前に敗北する。
正直に言えばもう少し逃避していたかったよ……モッ君。
君は何故か自分に纏わることに対しては空気を読まないんだよね……モッ君。
本当に律儀で、世話焼きで、優しい。
本人に言ったら、きっと羽毛を逆立てて反論するだろうけれどね。
「だから聞いたよね?……どうしてもホームルーム前じゃないといけないの、って」
「モッ君。出来る事ならこうした事象が懸念される、と具体例を上げて提言してくれると有り難かったな……」
「あのね。僕は君の監視役であってね、案内人では無いんだけど。その辺分かってる? ねえ、これを機に僕は敢えて確認しておきたい」
「勿論分かってるよ、モッ君。君は私の監視フクロウ兼友人兼頼もしくて心優しい助言者だよ?」
「…………やっぱり分かってないよね。つくづく期待を裏切らないよね。日々増加の一途を辿る過度な期待に対して、僕は君を訴えたいよ」
二人はいつもと変わらぬ小声と無音の遣り取りを交わしつつ。
周囲から見れば独り言認定まっしぐらな常態で、朝の廊下を進んでいく。
今や転入四日目にして、時の人。
恐るべきは、怪異達の伝達速度である。
当人からすれば全力で忌避したいであろうその称号も、固定化を避けられない現在進行形。
その現状を薄々感じ取りながらも、この学園で生活していくことを決めた少女は歩みを止めない。
可能な限りの平穏を。
そんなささやかと言っていい目標を掲げつつ、教室を目指している。
目下モッ君との会話に癒されている少女なのである。
当人のそんな認識などいざ知らず、非視覚化されている祟りもっけの噂に遠巻きにするモノたちが殆どではあるが。
やはりどこの世界にも、少数派は存在する。
少女の背後から、周囲の遠巻きも介さずに声を上げるモノがいた。
「ふふ、相変わらず今日も良い味を出しているねぇ、透君?」
「……おはようございます、河伯さん。今日も眩しいばかりに我が道を進みますね」
半ば呆れつつ、それを苦笑という形で表しながら振り返った少女の視線の先で。
ニマニマと愉しげな表情を崩さない河伯少女が、ひらりひらりと手を振って横に立つ。
「職員室に行って来たんでしょう? 翔摩せんせー、涙目じゃなかった?」
「そこまでお見通しなら、付け加えることは特にないかな……」
「ふふふ、昨日そのまま伝えてみたんだけどね。あの時の担任の青白さは、僕でさえ笑えないレベルだったなぁ……慌てて飛び出しかけたのを止めるのに随分苦労させられたよ。最終的には蓑虫の手も借りて、懇々と説き伏せたからね」
何だろうね。
河伯少女が言う『懇々』『説き伏せた』の組み合わせは背筋に来るものがある。
先程のクラス担任の涙目には、実は自分が考えるよりも多くの苦悩があったのではないのか……そう、思えてならないのだ。
近々、機会があったら菓子折を包んで持参しよう。
日頃の苦労をささやかながら、労ってあげたい。
そう内心で固く決心した少女である。
その後は当たり障りの無い会話を交わしつつ、二人とフクロウは教室へと向かう。
朝日を照り返して、艶々と光る階段を上って壺組の教室への角を曲がったところで。
ふわり、と既知感のある風が頬を掠めた。
かさ、と掌に落ちてきたそれを思わず掴んだと同時。
通り抜けていった風の束を見送って、どうやら本人は近くにはいないらしいと察する。
「ふぅん、風便りなんて随分と気障な真似をするねぇ………」
「……風便り?」
立ち止まったまま、聞いた話によれば。
特に飛行系統の怪異たちの中で、所在の離れた双方が遣り取りをする際に使うのが『風便り』。
つまり、書簡ないし手紙を自身の分身とも呼べる風に乗せて対象へ送ること。
掌の手紙は、その『風便り』らしい。
余分に付け加えられた情報によると、一般的に『風便り』は怪異同士で行うこと自体稀であり、その稀という過去の事例は総じて恋仲の怪たちによる遣り取りだったと。
うん、紛らわしい。
河伯少女による恒例のニマニマを横目に手紙を開封する気も起きず、取り敢えず鞄に一旦仕舞う。
明らかに残念そうな溜息が聞こえてきたが、その空気は読まない。
それが最善だと、他でもない少女の本能が囁いている。
後に振り返れば。
少女は必然の如く、ここで最善を読み間違えた訳であるが。
その時の彼らはそれを知る由も無く、朝から喧騒の渦に身を投じることとなるのだ。
学園生活というものは、総じてそうした厄介を内包するものである。
少女は考えていた。
昨晩の攻防も然ることながら。
今朝から続く、職員室の総涙目。続けて廊下の遠巻き具合。そして掌に舞い込んできた風便り。
この時点で既にラインナップは充足したといっていい。と。
しかし、教室の扉を開けて中を確認した瞬間にその認識の過ちに気付いた。
そして気付いたと同時に、行動していた。
補足がてら、思わず一呼吸分でドアを閉め直しに掛かった自分の反射神経は正常。
正にオールグリーンであったと声を大にして言いたい。
しかし、結果としてその閉め直しは完了しなかった。
理由? それは見れば明らかですね。
出てるよ、手が。
そう。中から伸びた手によって、未然に防がれた光景を前にして。
朝から随分とホラーじみた妨害を受けたものである。
「………ちょっと、あなた一体どういうつもりかしら?」
「そうよ。昨日は偶然にも私たちの手をかわしたと言っても、それを嵩に図に乗らないで頂戴ね」
「顔を見るなり閉めるとかー。空気読めって感じですよー?」
何だか大変に聞き覚えのある三者の囀りが、扉の隙間から洩れ出てくる。
何この反射神経。神掛かっている。
自分は恐らくコンマ一秒レベルで閉め直しに掛かったと言うのに……
未然に予期されていたとしか思えない驚異の速さ。即ち神速。
恐るべき三姉妹たちである。
ぎりぎり、と扉の開閉の攻防を続ける最中に上を確認。
『壺組』そのプレートに間違いはない、筈なのだがね。
どうやら誤って別教室の扉を開けていた、という事態で無いことだけは確認できた。
取り敢えずそれを踏まえて、今は指摘して差し上げる場面だろう。
「お三方、ここは壺組ですよ? 教室を間違えていらっしゃるのでは……?」
周囲への影響も考えて、声を抑えて告げたその配慮も肝心の当人たちが察するつもりが無いことは次に続く発言でも明らかでしたね。
「ちょっと、あなた本当にいい加減になさい? その可哀相なものを見るような目つきが途轍もなく不快だわ……」
「姉様、しっかり。ちょっと、あなた分かっていてその発言をしているのなら、相当に性格が悪いのではなくて?」
「姉様―? そんな分かり切ったことを改めて言うのはどうかなー」
何気に三女の発言が一番ぐさりと来た。
思わぬカウンターに、一瞬緩んだ手の力。
それが攻防を決するきっかけとなり、朝からもの凄い音と共に開かれた壺組のドアは若干傾いでいる。
ああ……。これは、一体誰あてに請求が行くケースとして該当するのだろう。
「君たち……朝から公共物の破壊行為はいかがなものかと、正直思うよ」
思わずついて出たそのままの内心に、背後の河伯少女が堪え切れずに噴き出した模様。
しかし、状況はどうやら……そんなに安穏なものでもないらしいね。
視線の先に、やはりと溜息を零しながら。
見渡せば、蒼褪めた怪異たち。
壺組のクラスメイト達が覚える心労は、怪異とはいえ相当なものであろうと察すればこの状況に申し訳ない以外の言葉は出てこない。
この三人組が壺組の教室にいた時点で、恐らく『彼女』もまた高確率で関わっている。
思考を冷静に立ち返らせる意味でも、本来であれば一度完全に扉を閉めておきたかった。
しかし、それを防がれた以上はこのまま向き合う他ない。
前髪の下で意図的に逸らしていた視線を、ようやく向けた先。
まるでそれを待ち望んでいたかのように、弧を描く艶やかな唇。
五月姫が、壺組の中央から花のように美しい顔を向けて微笑んだ。
「おはようございます、心太の君。朝日の下で再びお会いできて嬉しく思いますわ。ね、昨日のお話の続きをしましょう……?」
朝から悪夢とは、事象を尽く歪める事に躊躇いを持たない方である。
いずれにせよ、朝からこの流れは勘弁願いたいもの。
さて、どうしたものだろう……。
右肩の重みが増している時点で、モッ君の助言が望めない事態までは把握済み。
これは些か分が悪い。
やはりここは悪手でも逃走を試みるべきか……。
そこまで、考えていたところだった。
「……透? そんなところで止まってどうしたの?」
背後から響いてきた声。
振り返るまでも無く、蛍が現状を把握していないことは察せた。
それが結果として、少女が持っていた選択肢を意図せず狭めたことは否定できない。
そう、逃げ道自体を塞がれたも同然だ。
視線を戻した先で、妖艶に微笑むひとを見れば言われずとも察するというもの。
この場から逃げることは出来たかもしれない。
けれどもそれは、今はもう選べない選択肢になった。
朝から仕掛けられたその意図に、まんまと嵌められた自分が情けなくて笑える。
やれやれ、甘く見過ぎたらしい。
後悔という言葉の意味を、朝から思い知らされることになるとは。
「初めから、私が選べる道は……貴女の望む筋書きに誘導されていたのでしょう? 一体いつから計画されていたのですか?」
「面白いことを仰るのね、心太の君? ……いずれにせよ、そのお顔から察するに貴女は私のことを気に入って下さったようね……?」
蛍と共に、逃走に踏み切ることは既に予測されているルートだろう。
昨日の様なはったりは、手の内を知られていないからこそ有効なのだ。
だからこそ、この時点で逃避を諦めることを選択した自分。
状況を察し、顔色を失くす蛍を背に庇い。
その震える手を握り締める。
この暖かさに、自分は何度も救われてきた。
日数に依らずとも、この絆は自分にとって絶対と言っていい。
守るものがある以上、たとえ目の前のそれが平穏とは間逆の存在だと知っていても尚。
それに背を向けて、逃げる選択など選べるはずもない。
もう、隠す気も起きない溜息を長々と吐きつつ。
見据えたまま、問うた先。
その微笑みは、揺るぎない。
「五月の姫君。もうすぐホームルームの時間帯になります。今朝のご用件についてお聞かせ願えますか?」
「あら、用件という程のものではないのよ? 貴女の顔を見ておきたかっただけですわ。ふふ、本当に可愛らしい方。私はもっと貴女と親しくなりたいの。今は、それだけ伝えられれば十分ね。……それでは、御機嫌よう? 心太の君」
昨日と同じように、ぱちりと扇を閉じた音が壺組の教室内に響き渡る。
漣のように震える周囲を省みる様子も無く、颯爽と立ち去りかけた五月姫。
しかし、扉の傍で一度だけその足を止めてふわりと艶笑する。
その艶やかな唇から、意図して吐き出された呪詛の欠片に。
耳聡いものは、その震えを隠さない。
「あら、其処で震えていらっしゃるのは何方だったかしら……ね、名前を教えて下さる? 川の色彩を纏う、裏切り者の可愛らしい貴女?」
急激に冷えた指先の熱と、崩れ落ちる身体。
その異様に、紛れも無い異変を感じ取った少女は躊躇わない。
視線は花の顔に向けたまま、その視線から蛍を遮るために意図的に前へと踏み出した。
その双眸に、畏れは無かった。
「戯れが過ぎるよ、磯の姫君。願わくば自身が先程仰った言葉を省みて貰いたい。その上で、この後の賢明な判断に繋げてもらえないのなら……貴女は今後、必要の無い敵を増やす一方になる」
冷え冷えと低められたその声は、たとえ半透明であっても隠し切れない存在感を以てその場に響いた。
それを受けた五月姫は微笑みを変えず、群青の瞳に仄暗い色を滲ませる。
磯の姫君。
その意図的に選択した言葉は、けして良い印象を与えるものではない。
周囲から声の無い悲鳴が上がる中、広がりかけた海色の闇。
しかしその仄暗さは本来の力を発現しないまま、瞬きを以て収束する。
一度、閉じた筈の扇を再び広げ直した五月姫。
その口元には見えないまでも、会心の笑みが広がっている。
そう、美しさとは程遠い。
歪み、撓んだ血の色の微笑である。
「……貴女を敵に回すのは、私の本意とする処ではありませんの。ああ、なんて愉快なこと。これほど胸躍ることは生まれて初めてですわ、心太の君? 貴女がこの学園に来て下さったこと、心の底から感謝いたしますわ。私は貴女が好ましい。それを踏まえて、今一度お伝えいたします。……貴女が背に庇っているその子は、果たして貴女にとって幸運であるか否か。その事を一度考えて頂ければと願わずにいられません……それでは、御機嫌よう。愛しい貴女」
色を失くし、動作を凍らせたままの壺組の教室を後にした五月姫。
昨日と同様、その背を追っていく三人組の慌ただしい足音だけが静かな廊下に響いた。
彼女たちの姿が『海組』の教室へ消えたところまでを、見届けた後。
ようやく解凍の時を迎えた壺組の空気は、到底今迄の比では無かった。
肩で完全に石化をしたままのモッ君は、未だ石化解除の時を迎える兆候は無く。
痛い程の視線を浴びたまま、支えに選んだのは歪んでしまった教室の扉。
片手に蛍の手を繋いだまま、もう片手で扉に寄りかかってへたり込む。
の、濃度が………濃過ぎる。
全くもって、真正の大妖の名は伊達では無いのだ。
図らずも朝から、再認識した。
腰が抜けたような状態で、それまでに吸いこんでいた空気を全て溜息に変えて長々と吐く。
「ね、ねぇ……一体、昨日何があったのかな」
「……一から説明すると長いですよ。それでも、聞きます?」
「………今は、遠慮しとこうかな」
流石の河伯少女も、この状況ではニマニマどころではなかったらしいね……。
それが今の状況の異常さを物語る様で、全くもって笑えない。
それに、今は何より。
「……蛍、大丈夫?」
まるで死人のような顔色で、辛うじて身体を支えているような状態の蛍。
そんな彼女に手を伸ばしかけ、それが触れる寸前でのけ反る様に首を振り始めた彼女。
その目は、何も映していなかった。
「………わた、し………あ、嫌ああああああああっ、御免なさい!! やっぱり、私は…………あ、あ、ああああ!!」
唐突だった。
壊れた様に咽び泣く蛍が、その頤を振る度に周囲に飛び散る水の勢いがその混乱ぶりを示すようで。
出会った時よりも痛々しいその姿に、無意識に怯んだ自身。
けれども。
他でもない、その飛び散る水の冷たさに醒めていった思考の先で。
“これを乗り越えずに、繋いだ手を守ることなど到底叶う筈も無い”
そんな声に、導かれる様にして。
一瞬の隙を付いて、伸ばした両腕で彼女の身体を拘束する。
そう。抱き締めるなんて曖昧な力では到底なかった。
押し負けてしまう。
まさに、抱き潰す様な意図で強制的に動きを止めた直後。
その、タイミングで。
虚の目を覗きこみ、耳元で呼ぶ。
「蛍。繋いだこの手を、もう忘れてしまった?」
虚の中。揺らいだそれを見逃せば終わりだと、無意識が知っていた。
だからこそ、その色彩を見出した瞬間。
奥底に沈もうとした海色の異彩色を、強制的に選り分けて引き摺り上げる。
白の闇を中和させた時とは、まるで違う手応えだった。
それはまさに、水の中から釣り上げた何かが跳ねる感触に似ていて。
ぱちん、と蛍の双眸から引き摺り出した瞬間には、それは霧散していく。
なるほど、空気中ではその形状を保てないらしい。
水を媒介にする、その呪いの形にぶるりと身を震わせて大きく息を吐いた。
やれやれ、本当に恐ろしい怪だ。彼女は。
周囲の絶句を一身に浴びたままの現状で、正気を取り戻したらしい蛍のか細い声が何よりの救いだった。
「………透? わたし、まだ消えてない………?」
「うん、大丈夫。もう大丈夫だよ蛍。……磯姫の呪いは解いたから」
朝一で呪いを掛けに来るという暴挙に、尽きない溜息が灰色の朝を締め括る。
やはり、自分が平穏を望むというのは永遠に適わぬ夢幻に近いのだろうか……
クラスメイト達に穴が開きそうなほどに覗きこまれている現状を、一体誰が収束させてくれるだろう。
うん。とりあえず震えが止まらないよ、今は。
それが紛うこと無き本心だ。
ぶっつけ本番で解呪とか、何の冗談だと言いたい。
切実にブラックアウトしたいな……。
けれども、そんな繊細さを常備していない現実が行く手を阻む。
肩の重みも未だに顕在。
モッ君……前から感じてはいたけれど、意外とメンタルが弱いね君は。
ドアを背に、両腕に啜り泣く蛍さんを抱えたまま。
頭上を仰いでいた少女に、ようやく届いた救いの声。
ふわり、と頬を掠めた風に今朝に入って二度目の既知感を覚えた少女。
状況が状況なだけに、思わず頬も緩む。
見上げた先には、黒と白の影。
……付け加えるなら、それに引き摺られる形で廊下に投げ出されたクラス担任の芸術的な寝癖。
「無事で良かった……風便りで危急を飛ばしておいたのだけど、やっぱり回避は難しかったみたいだね……」
状況を察してか、安堵したように吐息を零した風狸青年。
その傍らから、歩み寄って膝を付いた白い少年こと夜。彼の表情は、見ているこちらが泣きそうになる程に思い詰めた色をしていた。
「………ごめん、透。………間に合わせられなかった」
「何で君が謝るかな。…夜君、こちらこそ事前に警告文を受け取っていたのに活かせなかった。寧ろ責められるのは、私の方だよ」
否定するように首を振る夜に、やはり同じ大妖であってもまるで違うと思わざるを得ない。
あれほどに濁った海色の所以。
それは一体何を基因とするものか。
……正直知りたくもないが、あの笑みを見る限りは遠からず直面することも避けられないかもしれない。
「翔摩先生、蛍を医務室へ運んで頂けませんか? 実は、恥ずかしい話腰が抜けてしまって。今の私では、彼女を支えて連れてはいけないので……」
「大丈夫です、透さん。僕が代わりに連れていきます」
教室の中から、未だ顔色は蒼褪めたままの四隅君がそう申し出てくれた。
震える指先を隠しつつ、それでも瞳には揺るがない色を湛えて。
それは、信頼の色。
不覚にも泣きそうになったが、辛うじて堪えた。
今自分が泣きだせば、収拾が着くまでのロスに繋がりかねない。
前髪が長くて良かった。本当に。
瞬きを繰り返しながら、四隅君の差し出してくれた手に蛍を預けた。
「……透、私ね……」
「うん、今はとりあえず身体を休めておいで。その後に、話をしよう?」
四隅君に支えられたまま、大きく頷いた蛍にようやく安堵する。
これでとりあえずは、大丈夫。
二人が医務室へ向かった背を見送り、そろそろと足に力を掛ける。
生まれたての小鹿のようだ。
これほどに心もとない足取りを、この年齢になって実感する機会があるとは思わなかった。
ふらつく身体を、支えようと伸ばした手を両側で支えてくれたもの。
それは白と黒の兄弟だ。
両手に花……?
いや、それは基本的に女性男性女性の割合だったな……と思いつつ。
感謝を述べたところで、思わぬ感覚が足元を襲う。
ふわり、と浮いた。
床に、足が付いていないという初めての感覚に慄くも。
咄嗟の事で、言葉が付いてこない。
風狸青年の声が、それが現実であることを辛うじて認識させる。
「理事長室から、お呼びが掛かってる。………お嬢様だっこで校内を練り歩くのと、空中遊泳で最短距離。どっちがいい?」
酸素を求める金魚の例えが、これほど身近に感じられたのは初めての事である。
暫しの逡巡とも呼べない混乱を終えて、浮かんだまま返事を迫られた時点で選べる答えなど初めから決まっていたと言っていい。
「……最短距離を」
意を決し、そう告げた後。
ようやく、肩のあたりでモゾモゾと動きを見せ始めたモッ君。
ぱちぱちと瞬いた後に、ため息交じりに羽を広げた。
「どうやらこの先は、僕が知覚を許される範囲では無いらしいね……」
そう言い残し、疲れた様子で飛び去ったモッ君を見送った。
廊下に置いたままになっていた鞄を夜君に拾い上げてもらい、抱え直す。
「さてと、行こうか」
風狸青年の「後は宜しくね、翔摩先生」との呟きを耳に挟んだ前後に、窓から外へと景色は移り変わっていた。
飛行速度はまあまあだったらしいが、何しろ初めての経験である。
祖父の背に乗るのとは、また違った飛行体験に半ば遠い目になる少女。
人がしばしば夢に見るシチュエーションの一つ。
『空を飛ぶ』。
それを図らずも、己が身で実感した今。取り敢えず言いたい事は一つ。
人は、地上で歩く方に適している。
夢も希望も無い実感を胸に、ようやく高度を落とした先には。
見覚えのある緑のドームに接地するバルコニー。そこに広がる芝生の上。
足から地面へと着地すると同時に、支えられた身体の暖かさに滲む涙が堪え切れない。
うん、ここまでよく耐えたものだよ自分。
もう、我慢しなくても良いかな……。
うん、限界だ。もう。
叔母の金糸の髪に顔を埋めて、解放された緊張感から他の目を憚らずに込み上げるままに涙を零した。
泣いて、泣いた。
泣けるのは、幸せなことだ。
ようやくここで、空回ってばかりだった認識と実感が追い付いてくる。
ああ、何て慌ただしいことだろう。
本当にささやかで構わない。
だから今だけは、少しこの肩を緩めても良いだろうか……。
束の間の安息にしゃくり上げる姪を、叔母であり、理事長である彼女はしっかりとその腕に抱きしめる。
その傍らには、叔父の小さくも頼もしい姿。
白と黒の双翼が見守る中、四日目の朝を迎えた少女はオカルト界へ足を踏み入れて以降、初めての涙を零していた。
破乱もここに極まれり。
これが四日目の朝である。
本日は、あと一話追加で投稿致します。
シリアスから抜け出すべく、奮闘する少女が報われる日は果たして来るのか………
今暫く。
少なくとも、クラスマッチ当日まではゴタゴタ続きを予定しています。
たどり着けるよう、邁進して参りますので。
宜しければお付き合いください(^-^ゞ




