第61話 パンツから始まった青春とか聞いてない
手をつないで帰った翌日、教室は思ったより普通だった。
いや、普通に見えただけかもしれない。
黒板にはいつも通り日付が書かれていて、誰かが小テストの範囲に文句を言い、窓際では眠そうな男子が机に突っ伏している。そんな何でもない朝の景色に紛れて、昨日までとは少し違うものが、確かにあった。
「おはよう、白井くん」
前の席から、ことりが少しだけ振り向く。
「おはよう」
返事をしただけで、ことりの耳が赤くなった。
それを見て、斜め後ろからつばさが小さく吹き出す。
「初々しいねえ」
「藤宮さん」
「ごめんごめん。でも、今のは言わずにいられないって」
ことりは困った顔で頬を押さえた。
真央は、昨日までなら「うるさい」と返していただろう。けれど今日は、少しだけ笑ってしまった。
「……笑った」
みずきが後ろの窓際から言う。
「何だよ」
「いや、真央が朝からちょっと幸せそうで腹立つなって」
「言い方」
「でも事実でしょ」
みずきはむっとしたような顔をしたあと、すぐに小さく息を吐いた。
「まあ、いいけど」
ことりが少し心配そうに振り向く。
「みずきちゃん」
「そんな顔しないで。余計に負けた感じする」
「ご、ごめん」
「謝らなくていい」
みずきは鞄から教科書を出しながら、ぶっきらぼうに続けた。
「しばらくは普通にむかつくと思うし、普通に悔しいと思うけど」
「うん」
「でも、それとことりちゃんに変なことするのは別だから」
ことりは黙って頷いた。
みずきは真央を見た。
「真央が変なことしたら私が怒る。それだけ」
「分かった」
「分かってる顔に見えない」
「まだ何もしてないだろ」
「これからするかもしれないでしょ」
「信用がない」
「当たり前」
そのやり取りに、つばさが笑った。
「よかった。朝比奈さんが通常運転だ」
「通常運転じゃない」
「いや、だいぶ戻ってるよ」
みずきは言い返そうとして、少しだけ迷い、それから窓の外へ視線を逃がした。
「……戻りたいんじゃなくて、戻すの。自分で」
その声は小さかった。
でも、真央には聞こえた。
たぶん、みずきは本当に強い。
強がりもする。傷ついてもいる。それでも、ちゃんと自分の足で戻ろうとしている。
「みずき」
「何」
「ありがとう」
「今お礼言われるとむかつくって、前にも言った」
「言いたかった」
「……そういうとこ」
みずきは顔をそむけた。
でも、今度は少しだけ笑っていた。
◇
昼休み、ひよりがハンカチを返しに来た。
いつものように勢いよく扉を開けるのではなく、今日は入口で一度立ち止まり、控えめに顔を出した。
「白井先輩、いますか」
「いる」
「あ、よかったです」
ひよりは教室へ入ると、きれいに畳まれたハンカチを両手で差し出した。
「洗ってきました」
「ありがとう」
「あと、ちょっとだけいいですか」
「うん」
ひよりは一度ことりを見た。
「七瀬先輩も」
「私も?」
「はい」
ことりは驚きつつも席を立った。
三人は廊下へ出る。
ひよりは、まず深く頭を下げた。
「改めて、おめでとうございます」
「ありがとう」
ことりが答える。
ひよりは顔を上げると、少しだけ唇を尖らせた。
「でも、まだ悔しいです」
「うん」
「すごく悔しいです」
「うん」
「だから、先輩たちが幸せそうにしてたら、たぶん時々変な顔します」
ことりは困ったように笑った。
「それは、うん。していいと思う」
「いいんですか?」
「我慢されたほうが、たぶん私もつらいから」
ひよりは目を丸くした。
「七瀬先輩、そういうところが本当に強いです」
「強くないよ」
「強いです。白井先輩が好きになるの、分かっちゃうから悔しいんです」
そう言って、ひよりは真央を見た。
「白井先輩」
「うん」
「私、まだ先輩のこと好きです」
ことりの表情が少しだけ揺れた。
ひよりはすぐに続ける。
「でも、困らせたい好きじゃなくて、ちゃんと覚えててほしい好きにします」
「……うん」
「だから、時々ふざけます。時々悔しがります。でも、ちゃんと応援もします」
「ありがとう」
「お礼を言われると泣きそうになるので、今はやめてください」
「悪い」
「謝られても泣きそうです」
「難しいな」
「難しいんです、恋って」
ひよりは少しだけ笑った。
その笑顔は、昨日より少しだけ明るかった。
まだ痛みは残っている。けれど、ひよりはひよりのまま前へ進もうとしている。
「七瀬先輩」
「うん」
「白井先輩をよろしくお願いします」
「……はい」
「でも、私がたまに白井先輩に話しかけても怒らないでください」
「怒らないよ」
「ほんとですか?」
「ちょっとだけ嫉妬はするかも」
ことりがそう言うと、ひよりはぱっと顔を上げた。
「嫉妬してくれるんですか?」
「そこ喜ぶところ?」
「喜ぶところです。私、ちゃんとライバルだったってことなので」
ことりは少し泣きそうな顔で笑った。
「うん。ひよりちゃんは、ちゃんとライバルだったよ」
ひよりは、今度こそ少しだけ涙ぐんだ。
「……ありがとうございます」
その言葉は、いつもの元気な声ではなかった。
でも、とてもひよりらしかった。
◇
放課後、レナは保健室の前で真央とことりを待っていた。
「榊さん?」
ことりが声をかけると、レナは静かに頷いた。
「少しだけ」
三人で保健室に入る。
白いカーテンが揺れ、夕方の光が床に落ちていた。
「ことりさん」
「うん」
「白井くんを選ばせたのは、あなたの勝ちだと思う」
ことりは言葉に詰まった。
レナは淡々と続ける。
「でも、勝ったからといって、全部抱え込まなくていい」
「……抱え込む?」
「小日向さんにも、朝比奈さんにも、藤宮さんにも、私にも、遠慮しすぎる必要はないということ」
ことりは黙った。
レナは真央を見る。
「それから白井くん」
「うん」
「あなたは、ことりさんを選んだ。なら、ことりさんが周りに気を遣いすぎて苦しくなったとき、ちゃんと止めなさい」
「分かった」
「今度は“たぶん”じゃなくて?」
「分かった」
レナは少しだけ満足そうに頷いた。
ことりが小さく言う。
「榊さん」
「なに」
「ありがとう」
「私は、お礼を言われるようなことはしてないわ」
「でも、言いたいから」
「そう」
レナは目を伏せた。
「なら、受け取っておく」
少しの沈黙のあと、レナは続けた。
「正直に言えば、悔しくないわけではないの」
「うん」
「でも、私はたぶん、あなたたちがちゃんと選んだことに一番安心している」
真央はレナを見る。
「榊らしいな」
「そう?」
「ああ」
「なら、いいわ」
レナは保健室の窓を閉めた。
「それと、白井くん」
「まだあるのか」
「あるわよ」
「はい」
「また誰かに不用意に優しくして、ことりさんを不安にさせたら、次は説教だけでは済まないから」
「何されるんだ」
「保健委員として、反省文を書かせる」
「保健委員関係あるか?」
「あることにする」
ことりが小さく笑った。
レナも、ほんの少しだけ笑った。
◇
最後につばさが二人を呼び出したのは、校門の近くだった。
「はい、集合」
「何だよ」
「新カップルへの最終注意事項」
「そんなものあるの?」
ことりが首をかしげると、つばさは真面目な顔を作った。
「あります」
「本当に?」
「半分冗談」
「半分は?」
「本気」
つばさは二人を交互に見た。
「まず、白井くん」
「はい」
「ことりちゃんが“大丈夫”って言ったときは、半分くらい大丈夫じゃないと思ってください」
「分かった」
「ことりちゃん」
「はい」
「白井くんが“平気”って言ったときも、半分くらい平気じゃないです」
「分かった」
「あと二人とも、何かあったら隠さない。ため込まない。周りに気を遣いすぎて勝手に壊れない」
ことりは真面目に頷いた。
「はい」
「白井くんも」
「分かった」
「よし」
つばさは満足そうに頷く。
「それから、私から個人的にひとつ」
声が少しだけ変わった。
「ちゃんと幸せになって」
ことりの目が揺れる。
つばさは笑った。
「泣かないでよ。私まで泣くから」
「藤宮さん」
「うん」
「ありがとう」
「だから、そういうの効くんだって」
つばさはわざと顔をそむけた。
真央が言う。
「つばさ」
「何」
「お前も、ありがとう」
「白井くんまでやめてよ」
「言っておきたかった」
「……ほんと、そういうとこ」
つばさは目元をこすった。
「私、笑って送り出すって決めたんだから」
「うん」
「だから笑うよ」
そう言って、つばさは本当に笑った。
昨日の涙を隠すための笑いではない。
ごまかすための笑いでもない。
ちゃんと、送り出すための笑いだった。
◇
その日の帰り道、真央とことりは並んで歩いた。
手はつないでいない。
校門を出てすぐの道は生徒が多すぎたし、ことりが「今日はまだ無理」と小声で言ったからだ。
「でも、昨日よりは平気」
ことりが言う。
「何が」
「一緒に帰るの」
「そっか」
「うん」
少し歩くと、生徒の数が減った。
住宅街へ入る手前で、ことりが小さく手を差し出した。
「……ここからなら」
真央はその手を取った。
ことりの手は、昨日より少し温かかった。
「今日、いっぱい話したね」
「そうだな」
「ひよりちゃんとも、榊さんとも、藤宮さんとも」
「ああ」
「みずきちゃんとは?」
「朝、少し」
「そっか」
ことりは少しだけ空を見上げた。
「みんな、優しいね」
「優しいだけじゃないけどな」
「うん」
ことりは頷いた。
「でも、ちゃんといてくれた」
「そうだな」
それは本当に、奇跡みたいなことだった。
誰かが選ばれたあとで、選ばれなかった人たちがすぐに平気になるわけではない。
それでも、消えずにいてくれた。
それぞれの痛みを抱えたまま、同じ教室へ戻ってきてくれた。
「白井くん」
「うん」
「これから、いっぱい迷惑かけるかも」
「お互い様だろ」
「私、嫉妬もすると思う」
「知ってる」
「知ってるんだ」
「最近かなり見た」
「……忘れて」
「忘れない」
「そこは忘れてよ」
「無理」
ことりは少しだけ頬を膨らませた。
それから、ふっと笑う。
「じゃあ、私も忘れない」
「何を」
「白井くんがすごく悩んで、困って、でもちゃんと選んでくれたこと」
真央は少しだけ息を止めた。
「それは、忘れないでいい」
「うん」
夕方の道を、二人で歩く。
最初は、どうしようもなく恥ずかしい出来事だった。
誰にも知られたくない失敗だった。
それを笑わずに守ったことから、全部が始まった。
あのとき、真央は思ってもいなかった。
まさか、そこからこんなにややこしい青春が始まるなんて。
こんなに誰かを傷つけて、誰かに支えられて、最後に誰かの手を握ることになるなんて。
「……パンツから始まる青春とか、ほんと聞いてないよね」
ことりがぽつりと言った。
真央は思わず吹き出した。
「それ、自分で言うのか」
「言うよ。だって本当だもん」
「まあ、聞いてなかったな」
「でしょ」
ことりは笑った。
少し照れて、少し泣きそうで、でもちゃんと幸せそうに。
「でも」
ことりは握った手に少しだけ力を込めた。
「始まってよかった」
真央も、握り返した。
「ああ」
夕方の道は、昨日より少しだけ明るく見えた。
青春は、思っていたより格好悪くて、面倒で、恥ずかしくて、どうしようもなくややこしい。
でも、その全部を抱えたままでも、前へ進める。
隣に、守りたいと思った相手がいるなら。




