後編
夜の帳がようやく薄らぎ始める頃、仮の寝床は、静寂に包まれていた。
風はない。鳥の声も、虫の羽音も、何もない静かな夜。
このまま何事もなく、静かに朝を迎えるはずだった。
突然――その静寂を切り裂くような強烈な違和に、シンは目を覚ました。
指先が動き、目蓋が開く。
「……誰?」
掠れた声で呟いたのは、寝起きだからだけではない。目覚めと同時に襲い来た異様な気配のせいだった。
空気が張り詰めていた。息を吸うたびに、肺の奥が軋む。まるで世界そのものが呼吸をやめたかのようだった。
同時に、クロも目を開けた。最初から眠っていなかったかのように。微動だにせず、何かを感じ取っていた。
クロは即座に手を伸ばし、漆黒の小刀“幽纏”に触れた。
「シン、動くな」
低く、乾いた声が命じる。
シンは息を呑んで顔を上げた。その視線の先――遠く、まだ朝の光も届かない青の帳の中に、ひとりの人影がそこにあった。
まるで夢の中にだけ現れる幻のように、人影はゆっくりと、こちらへ向かって歩いてくる。
歩みは確かで、だが軽やか。まるで織り目の上をなぞるように規律正しく進み、異様な存在感を放っていた。
白の長い衣は極めて質素で、装飾も一切なかったが、まるで始まりを象徴するかのように静かな光があった。
そして、その身に纏う空気は、異常に澄んでいた。
『……なに、あの人』
シンは言い知れぬ不安感から無意識に言葉にした。生まれて初めて遭遇する異質な存在に目が離せなかった。
人影はやがて、ふたりの間合いの外で立ち止まり、ゆるりと顔を上げた。
静かに、だが確かに、名乗りをあげた。
「我が名はテンイ。字は“天衣無縫”。この世の理を正すものなり」
クロの唇が微かに震えている。
その震えが何に由来するものか、シンにはまだ分からなかったが、クロが震えるほどの存在が、自分たちの前に立っている。
それだけは、直感で理解できた。
名乗らずとも、既にその存在は“特別”だった。
男とも女とも判じがたい中性的な容姿に、気配は優美でありながら、禍々しい。狂気ではない。だが、常軌を逸している。
「おのれ、言霊を識るか。……いや、語るに足る面持ちぞ。さては汝、ただの風読みにはあらず」
テンイが、ゆるやかに口を開いた。
クロは構えを崩さぬまま、問いかける。
「……目的を言え。ここで何をしている」
「ほつれを繕いに参ったまでのこと」
テンイは淡々と言った。だが、その響きは鋭利だった。
「この世の理は織り成すがごとし。されど時に——汝のようなる者が、己が意のままに糸を引き、織り目を裂き、綻びを及ぼす」
シンには、話の半分も分からなかった。けれど、その場に満ちた敵意だけは、痛いほど感じ取れた。
テンイの瞳には、クロしか映っていない。その視線は、まるで“存在そのもの”を見抜いているようだった。
「我は今生における理の乱れを断ち、織り目を正すもの。……あまねく命が織られし、この世界のなかで、そなたのごときほつれは——」
ふと、言葉が止まる。風がふたたび止んだ。
テンイは静かに右手を持ち上げ、指をまっすぐにクロへ向ける。
「——いと忌まわしき、裂け目なり」
瞬間、クロが前へ出た。
背後のシンをかばうように、一直線に。
「お前が何者でも、ただでやられるわけにはいかない」
「今世に仇をなす者なれど、その意気やよし……ならば、そも、縫い直す価値のある者かを見定めん」
その瞬間、空気が弾けた。クロが足を一歩踏み出しただけで、周囲の草がはじけ飛ぶ。大地が唸り、風が泣いた。
クロの瞳が、細く鋭く光る。刃が、鞘から放たれた。
「シン——下がっていろ!」
荒々しくクロが言い放つと、戦いの火蓋が切って落とされた。
言い終えると同時、クロは身を翻し、薄闇へ紛れるように走る。
幽纏の能力が発動し、淡い夜明けの色へ溶け込むかのようにクロの姿が見えなくなる。
クロは即座に移動し、テンイの背後から幽纏が薄闇の中を滑り、閃いた。
だが、テンイはその刃を、まるで見えていたかのように指先で受け流した。
クロは畳みかけるように刃を振るった。十手にもおよぶ連撃、すべてが影をまとい、殺気に染まる。だが、そのすべてが、舞うような一歩で、あるいは衣の一振りでかわされていく。
テンイの所作は、まるで舞。
一歩ごとに地を踏みしめるたび、まるでこの世の道理が整えられていくかのようだった。余計な力も、無駄な動きもない。ただ、存在そのものが“理”に沿っていた。
「化け物かっ……」
クロが息を切らす。その間も、テンイは呼吸一つ乱さぬまま、静かに大地へ立っている。
刹那——
テンイの腕が、ゆっくりと動いた。
一瞬、それがただの一閃だと気づいたときには、幽纏が弾かれ、クロの胸を裂いていた。
刃は見えなかった。ただ、そこには確かに“断罪”という行為の結末があった。
静寂の中、テンイはただ一歩、前へ進んだ。
「やはり禍根、ほつれ、いま繕わねば手遅れと相成ろう」
幽纏の能力が切れ、クロの姿が露わになる。胸につけられた傷は大きく、血飛沫があがっていた。
――く……ろっ。
その姿を見て慌てたシンが叫ぶ。だが、思いは言葉にならず、誰にも届かなかった。
クロへ駆け寄る。その姿に、テンイは振り返らず、ただ静かに言った。
「汝は未だ織られぬ反物、いずれ如何様にも染まるものなり。今はまだ、断つも綴るも、理にあらず。心を尽くし、生を綴れ。いずれその縫い目が森羅の座へ至るならば——その時こそ、余の針は再び汝を指すやもしれぬ。……さらばだ、若き織り子よ。ほつれを成すなかれ」
テンイは背を向け、朝靄の中へ舞うように消えていく。
空気が、ようやく戻った。
風が草を揺らし、鳥が囀りを始める。だが、その中で、クロは動かない。
血に濡れた草の上、クロは静かに仰向けに倒れていた。シンが駆け寄り、膝をつく。
『クロ、クロ……っ!』
「……泣くな、シン」
唇が幽かに動く。
血を吐きながら、それでもクロはシンへ伝えるべく、口にした。
「天衣無縫……化け物だったな……」
『しゃべらないで、お願い、しゃべらないで……っ』
「聞け、シン……俺は、お前に……見てほしいんだ」
クロの視線が、かすかに遠くを見つめる。夜明けが近づき、空が淡く染まり始めている。
「森羅万象……あれが、この世すべてだ。だけど、まだ……見えてない。全部は、見えてないんだ……」
「だから……行け。俺のぶんまで、見てこい。世界を」
シンの瞳から、涙が零れる。何もできなかった。守れなかった。その悔しさが、喉の奥で叫びになろうとして震える。
「幽纏は……お前に託す。きっと力に……な……」
最後の言葉が途切れ、クロの瞳はわずかに見開かれたまま、その輝きを失った――。
空が白みはじめていた。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
夜の支配が終わりを告げる中、クロの体は冷え始めていた。
シンはその場に座り込んで、動けなかった。
何故、クロがこんな仕打ちを受けなければいけなかったのか。何故、あいつはここにいたのか。
考えても分からないことが、頭の中をぐるぐる何度も巡っていた。
涙はもう出なかった。ただ、乾いた喉が何度も呻き声を漏らし、指先が痙攣のように草を掴んでは離す。
――……クロ。
力無く横たわるその姿が、どうしても現実とは思えなかった。
戦いの最中、どれだけの強敵を前にしても背を見せなかった彼が。
あの頼れる背中が、今はただ、風に晒されていた。
——こんなところで終わりじゃ、クロの思いも、何もかもが風に流されてしまう。
シンはゆっくりと立ち上がり、クロの肩を抱えた。思っていたよりも、ずっと軽かった。
――……見える場所まで、連れていくよ。
丘があった。昨日、クロと一緒に登ったあの丘。
あそこなら、世界が見える。
そこなら、クロの思いも、きっと届く。
背中に背負うには大きく、引きずるには悔しかった。だから、肩を貸すようにして、ゆっくり歩いた。
風が吹くたびに、クロの髪がわずかに揺れた。まるでまだ、眠っているかのように。
歩くたび、胸が締めつけられた。
脚は震え、視界は霞む。
それでも歩いた。
いくつもの起伏を越え、陽が昇りきる頃、ようやく丘の頂にたどり着いた。
昨日の会話が、耳の奥でよみがえる。
――「そうだ。七つの国を渡り歩き、情報を集めてる。そして、“お前”の力が必要だ」
『……うん、そう言ったね』
シンは、誰に届くでもないと分かっていても、あえて言葉にした。
静かにクロを地面に寝かせた。
指先が、震えていた。しかし、そのまま地面を掘った。素手で。爪が割れ、指が血に染まっても、止まらなかった。
丘の中腹。風が心地よく抜けるその場所に、眠る場所を作った。
遺体を抱えて、そっと横たえる。まるで、寝かしつけるように。
——クロに連れられ、初めはわけもわからず旅を始めた。そのうちにクロの目指す森羅万象が自分の旅の目的にもなり、そして、旅の中で自分自身にも伝えたい想いが芽生えた。
今、自分は何をしているのか。何をするべきなのか。
思考が巡る。
だけど、心の奥では分かっていた。
クロが、すべてを変えた。ここまで来られたのは、クロがいたからだった。
だからこそ……。
土をかぶせる手が止まるたび、シンは自分に言い聞かせた。
もう一歩。もう一掘り。もう一つ、思い出を埋めて。
そして、最後に丘に咲いていた紫の小さな花——“ミヤコワスレ”を手向けた。
昨日、クロに教えてもらった花の名前。
『クロ、行くよ。クロが言っていたように、世界を見に行く』
『森羅万象を見付けるまで……だから、この丘から見守っていてよ』
その目には、もう涙はなかった。あるのは、決意の色。
背中に風を受けながら、一礼し、シンはゆっくりと歩き出した。
ふと、風が吹いた。
まだ若く柔らかな、春の風。
クロの眠る土の上を、花の香りとともにふわりと撫で、シンの頬を優しく包む。
まるで、クロの手が「行け」と背を押してくれたようだった。
その風はどこかへ向かっていた。世界のどこか、まだ見ぬ遥か遠くへと。
クロの思いも、自分の決意も、その風に乗せて。
きっと、彼の魂ごと、遠くまで運んでくれる。そう信じられた。
シンは、ゆっくりと振り返らずに歩き出す。
もう守られるばかりではいられない。
背中に受けた風は、やがて進む足を軽くする。
旅は続く。
今度は、クロの遺志をその胸に。
——春風に乗せて。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
シンとクロの“言葉”と“絆”をめぐる物語を、少しでも楽しんでいただけていたなら幸いです。
この物語の余韻が、あなたの胸に小さな火を灯せますように。
感想やブックマーク、評価などいただけましたら、何よりの励みになります。
次回もまた、物語の片隅でお会いできることを願って。
――平 修




