前編
春霞が、山肌をやわらかく包み込む。淡い桃の花が風に揺れ、どこか懐かしい土の匂いと若草の青さが、鼻先をくすぐった。
道はなだらかに丘を登っており、その上で、旅装束のふたりが足を止める。
長い旅の果てに鍛えられた体と、まだ少年の面影を残す横顔――シンは、丘の端に立ち、足元の小さな紫の花に目を留めた。
昔、傷を癒してくれた少女が、花の名前をたくさん教えてくれたことを思い出す。
『この花、名前……知ってる?』
どこか影を思わせる陰鬱な雰囲気を纏った男――クロはわずかに視線を落として、風に揺れる花を見つめた。
「ミヤコワスレだ」
シンはその花にあの日の想いを馳せながら、ふとクロへ言葉を放つ。
『春の匂いって、こんなにやさしかったっけ』
クロは立ち止まったまま、わずかに肩を動かして振り返る。
「……お前の“声”、だいぶ届くようになったな」
言葉少なに、しかしどこか誇らしげに呟く。
シンはその言葉に小さく目を細めた。
シンは生まれつき声を発せられなかった。そんな彼に宿った“字”――以心伝心。
それは思念を伝える異能。声を持たぬ彼が、唯一世界と繋がれる手段だった。
クロが静かに言う。
「……今なら、伝えられるんじゃないか。あの時、言えなかった言葉も」
――数年前、傷だらけの自分を介抱してくれた少女。名も知らずお礼も言えぬまま、別れてしまった。
いつか、もう一度会ってお礼を伝える。シンの旅の目的のひとつだった。
シンは決意を込めた瞳で前を見据え、大きくうなずいた。
クロはその姿を見つめ、ふいに小さく息を吐く。丘の上からの景色へ視線を移した。
「だが、お前の“字”は、ただの通信手段じゃない」
「それは、もっと深く……森羅万象に通じる可能性を持っている」
クロは諭すようにそう言った。
“森羅万象”――伝説の“字”の名だ。姿形はおろか、その力すら定かではない、幻の存在。
その言葉だけで七つの国が競い、争い、それぞれの思惑が絡み合って、今や世界は群雄割拠の様相を呈していた。
『そのために、世界を回ってるんだよね』
「そうだ。七つの国を渡り歩き、情報を集めてる。そして、“お前”の力が必要だ」
それが、シンの旅する目的のふたつ目だった。
春風に乗って、クロの声はいつになく饒舌になる。
「今、もっとも森羅万象を狙っているのは三つの国だ。まず、大国“暁”。最大の国力を持ち、手段を選ばない」
「次に、“焔牙”。戦を糧に成り上がった国で、力こそすべての論理で動く。暁とは常に争いが絶えない」
「最後が、“朧宮”。姫巫女の神託により統治された国で、“字”を神の声とし、儀礼と予言で民を導いている。奴らは、森羅万象を神の道具にしようとしている」
普段は無口な彼が、こんなにも詳しく語るのは珍しい。シンは物珍しくクロの様子を伺った。
「今後も森羅万象を追うなら、これらの国とはどこかで深く関わるだろう」
『……気をつけなきゃ、だね』
クロが黙ってうなずくと、 足早に歩き出し、シンは急いでその後を追った。
春風に吹かれたミヤコワスレが、ふたりを見送るようにそっと揺れた。
無言のまま、どれくらいの距離を歩いたか、いつしか辺りは暗くなっていた。そうして辿り着いた谷の麓で、彼らは足を止める。
暁の密偵がこのあたりに潜んでいるという噂があった。さらに、彩核を狙う盗賊集団が近くにいるという報せもあった。
そのどちらか――あるいは両方が、この谷に潜んでいる。
「シン、周囲を見張れ」
――さて、どちらが出てくるか……。
いくばくかの時間が過ぎ、谷を抜ける風が一際強くなった頃、茂みが揺れ、おもむろにぼろをまとった男たちが姿を現す。
――盗賊の方か……。
彼らの目は血走り、これまでの旅人から奪ったであろう彩術具が腰からぶら下がっていた。
「命が惜しければ、持っているもの全て置いていけ」
ひとりが叫ぶ。
クロは悠々とその場から離れ、盗賊たちから距離を取ったあと、シンへ告げた。
「……見せてみろ」
既に構えていたシンは、クロと位置を代わるように前へ出た。
男たちはシンを見て組み易いと思ったのか、大した警戒もせず、三方から同時に襲いかかってきた。
シンは、その様子を見ながらゆっくりと息を吸った。
音ではない、言葉を放つ。
以心伝心――その意志が言葉となって、直接、響いた。
『左から二人』『背後に注意』『足捌きを見て』
誰の声でもない“伝達”が、まるで戦場全体に染み渡るように拡散していく。
敵は混乱した。声が聞こえるのに、姿が見えない。
その隙に、シンは一人を打ち倒す。
“以心伝心”は戦場において、こんな使い方もできるのだとクロへ見せつけた。
敵が一斉に距離を取る。
「……あいつ、妙な技を使いやがる!」
男たちの声に混じる焦燥。クロが少しだけ口元を緩めた。
張り詰めた空気。警戒の色を一段と濃くした敵の一人が、腰の彩術具を抜き放った。それは焔牙式の彩術具のようで、焦熱を帯びた一撃が、シンを貫こうと迫る。
彼は身体をわずかに逸らすと、今度は言葉でなく、思考を伝達することで敵の動きを誘導した。
戦闘中、微細に流れる思考の中、異なる思考が加わったことで相手はわずかに乱れ、“誤認”する。
刃は空を斬り、男はバランスを崩す。
その隙を逃さず、シンの拳が胸元に叩き込まれた。
男が倒れると同時、周りでその様子を見ていた残りの敵たちが包囲網を狭めてくる。
数では圧倒的不利だが――。
「もう十分見た。後は俺がやる。下がっていろ」
クロが歩み出た。漆黒の外套が風に揺れる。
いつの間にか構えられていた漆黒の小刀が月夜に照らされ、鈍く光った。
「……“幽纏”」
一言呟くと、そこにいたはずのクロの姿が段々と霞み、見えなくなっていった。
シンですら、その姿を捉えることができていない。
「野郎!どこへ行きやがった!」
男たちが口々にがなり立てる。その瞬間――。
背後から斬られたであろう男が血飛沫をあげて倒れた。慌てて周囲を見渡すが、誰もいない……。
敵の一人が叫ぶ。だが時すでに遅かった。
あちこちから男たちが断末魔をあげて倒れていく。流れ出た血が足下を染めていく。
シンは、その強さに圧倒されていた。クロの強さは知っていたつもりだったが、これほどとは……。
その間も続々と敵の数が減っていく。
男たちの声はいつの間にか、恐怖へと変わっていた。逃げ出すもの、腰を抜かすもの、闇雲に刃を振り回すもの、異なる動きを見せる男たちだったが、結末は皆同じだった。
『クロ……強すぎる……』
シンの言葉が合図だったかのように、最後のひとりが血溜まりの中へ倒れ込んだ。
月夜に照らされた影がひとつ揺らめいたかと思ったら、ゆっくりと少しずつクロの姿が現れた。
クロは黙ったまま、淡々と手にした小刀の血を払い、傍で息絶えている男の衣服でぬぐった。
小刀を鞘に収めると、今度は男たちの持っていた彩術具を集め出し、それを見ていたシンも慌てて回収を手伝った。
ひとしきり、集め終わった後、クロがおもむろに口を開く。
「あった……偽造彩核だ」
焚き火の炎が、ゆらゆらと川辺の木々を照らしていた。小さなせせらぎの音が夜の静寂に溶け込み、遠くで虫が鳴いている。
水辺から少し離れた、小高い草地にシンは小さな火を起こし、そばに腰を下ろしていた。
火の上では、川で手早く洗った魚が炙られ、香ばしい匂いが立ち上っている。近くにはクロが、濡れた髪を指でくしけずるようにして、黙って腰を下ろしていた。
斬り合いの熱はもう遠く、どこか乾いた夜気が体を包んでいる。
『……魚、焼けてる』
そう言葉にし、片手で串を持ち上げ、クロに手渡す。
クロはひと言も発さず、それを受け取ると、焚き火の明かりに照らされながら無言でかじりついた。
『どうだった、僕の戦い方……』
シンがぽつりと尋ねた。火の音が間を埋め、クロはしばらく魚を食べ終えるまで答えなかった。やがて、焚き火を見つめたまま、低く呟く。
「ああ、そうだな……強くなった」
シンは黙って火を見つめる。何も言わず、ただ川の音に耳を澄ませる。
しばしの沈黙ののち、クロがぽつりと口を開いた。
「ただ、先程のような戦い方はやめておけ。あの戦法は手練れには通じないし、字持ちだと知れると厄介だ。ましてや“以心伝心”はな……」
クロは焚き火を見つめたまま、静かに続けた。
「森羅万象と関わり深い字だ。知られれば各国から狙われる」
シンが少しうつむいていることに気付くと、クロはぶっきらぼうに言い放った。
「安心していい。お前は充分強くなってる」
声音とは裏腹に、不器用な男の精一杯の優しさを感じる言葉だった。
シンが寝床の準備をしながら、ふと思い出したようにクロへ告げた。
『そういえば、偽造彩核ってなに?』
クロは、先程まで辺りを明るく照らしていた焚き火の始末をしていた。まるで焚き火など初めからなかったかのように、土を被せ整える。
焚き火の名残が夜の冷気に消えていく。
「そういえば、彩術具の使用はさせたことがなかったな」
そう言いながら、クロは先程の男たちから回収した彩術具を取り出し、シンに見比べさせた。
「どちらが本物か、分かるか」
シンは目を凝らし、その細部まで観察したが違いに気付けなかった。無言のまま首を横に振る。
クロは右手に持っていた彩術具を残し、言った。
「こっちが偽造。しかも粗悪品だ。一度でも使えば使用者の方が負傷するだろう」
言われて改めて見るが、やはりシンには分からないようだった。
「彩核の揺らめきか、もしくは適正で判断するんだ」
『適正?』
シンの問いかけに、クロは先程の戦闘で使用した漆黒の小刀“幽閉”を取り出し、シンへ持たせた。
「握ってみろ」
シンは思っていたよりもずっと軽い、その小刀を握りしめると――妙に手に馴染むのを感じた。
『手によく馴染む……というか、何か温かい?』
シンの返答にクロは薄く微笑んだ。
「適正があれば、それぞれの感覚で何か感じるだろう。お前の場合は温かさだったってことだ。反対に……」
そう言って、右手の偽造品をシンへ差し出した。
シンは、おもむろにそれを手に取ると、先程と違って何も感じないことに驚いた。
『なにも感じない』
「そういうことだ。覚えておくといい。自分が怪我しないためにもな」
そう言って、クロは残りの彩術具もしまった。
『その彩術具、集めてどうするの?』
「偽造のものは処分する。どこの誰が作っているか知らないが、こんなものが出回っては面倒だからな」
クロは火が完全に消えたことを確認するとシンへ向けて言った。
「明日も早い。そろそろ休んでおけ」
その声音に、とがった強さはなく、どこか土のように静かな温もりがあった。
シンはその声音に安心し、わずかに頷く。
川のせせらぎが、風の音と交わって夜気に溶けていく。木々の葉擦れがときおり耳をかすめ、遠くで夜鳥が一度だけ鳴いた。
夜が、ひとつ深くなる。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
シンとクロ、“言葉”と“絆”をめぐる物語を、少しでも楽しんでいただけていたなら幸いです。
この物語の余韻が、あなたの胸に小さな火を灯せますように。
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次回もまた、物語の片隅でお会いできることを願って。
――平 修




