第三十八話 天使が舞い降りた朝
ある朝のことだった。
みんは、相変わらず夜なのか早朝なのかわからないような時間に、ベルギーのジュ・ド・バール広場にいた。
沈み忘れた三日月と街灯の小さな灯だけが頼りだった。
生あたたかい風が、ひゆゆとゴミを舞い上げる。
広場の鐘が、太い音をたてて響き、その音に、お決まりのように驚いて羽ばたく鳥たち。
そんな広場に着いた途端、60センチ以上も高さのある金属の黒い物体を見つけた。
多分、売主はどろぼーさんの類いだろう。
戦利品の内、お金になりそうなものは、それなりのルートに流し、あまったガラクタを売りに来たのだろう。
毛糸の帽子を目深に被り、金属やら布やら靴のきれっぱしみたいなものを足元に少しだけ広げて、所在なさげに立っていた。
「これ、いくら?」
「15万フラン」
結構言うなぁ。15万か、つまり6万円、何やらわけのわからないものに出すのはちょっと高いなぁ?
「何なの、これ?」
「知らん」
持ち上げてみた。重い。多分15キロ、いやそれ以上あるかもしれない。ただ、持てない重さじゃない。
小さな懐中電灯の光りでは、全体がつかめない。
触ってみた。つるつるなめらかで、しかも冷たい。
叩いてみた。コツンコツンと硬い音がする。
買ってみようか、、、でも、明るくなってひどいものだったら、どうするのよこんな大きなもの。
「いるのか? いらないのか? どっちなんだ?」
ちょっと焦ったような、どろぼーおじさんの声。
「うううんん? どうしようかなぁ?」
「わかったよ、10万フランでいい、買ってけ」
どろぼーさんに「持ってけどろぼー」みたいに言われるのも何だかなぁ、と思うけれど、妙にその物体にひかれたみんは、どろぼーおじさんに10万フランを奮発し「おじさん、明るくなるまでここに置いておいてね」と言った。
「ダメなんだ。明るくなったら警官が来る。場所代の集金も来る。その前に片付けて帰らないとダメなんだ。もう帰るから、今持って行ってくれ」
やっぱり、間違いなくどろぼーさんだ。
見ると、みんがその黒い物体をためつすがめつしている少しの間に、他のガラクタはさっさと段ボールにおさまって帰り支度は完了していた。
はぁー、こんな重くて大きなもの、これじゃ、後の仕入れができやしない。
しかし買ってしまったものは仕方がない。
みんは、持っていた大きなビニールバッグに重たいそれをしまった。しまったと言っても、ファスナーまでは閉めようがない。
ホテルはお気に入りの「安い連れ込み宿」である。歩いて20分ちょっと。
一度ホテルに帰って、置いてくるしかない。
うんしょと立ち上がってみたら、重くてちょっとよろけた。
どろぼーおじさんはすでに、影も形もない。
ジュ・ド・バール広場にはまだ着いたばかり、ちらほらと店が出かけているのに、、、。
今からが買い時なのに、、、。
後ろ髪を引かれる思いを断ち切って、夜中のブラッセルの町を、歩く歩く。
肩にかかるバックが重すぎて、足はよたよたおぼつかず、ホテルはいつまでも遠かった。
ゴミをあさっているカラスが、バカにしたような声でクワーと鳴く。
そのゴミの山の中に、何度このバッグの中身を捨てようかと思ったことか。
肩が引きちぎれそうだった。バックの紐は、今にもちぎれそうに突っ張っている。
泣けてきそうだったから、水戸黄門の歌を歌いはじめた。
♪人生楽ありゃ、苦もあるさ~。くじけりゃ誰かが先にゆく♪
ちょっと笑えた。
♪後から来たのに追い越され~、泣くのが嫌なら、さぁ歩け♪
4万円も出したのである。張り込んだのである。
ああ、単なる鉄くずだったらどうしよう。
何とか、ホテルまでたどり着いた時は、春の初めの空気の中を歩いてきたというのに、汗びっしょり、犬みたいに舌を出して、はぁはぁ言っていた。
薄暗い部屋にバッグを投げ捨てるように置いて、別のビニールバッグをつかんで、またジュ・ド・バール広場に向かった。
次のビニールバッグも重たくなって、ホテルに帰り着いたらまだ朝だった。
狭い階段で、一仕事終えた売春婦のお姉さんとすれ違いざま、ハァイと陽気に挨拶を交わして部屋に入ると、窓からいっぱいの朝日がきらきらしていた。
その煌めきの中に、そいつはバッグからはみ出してスックと神々しく立っていた。
おお、あの金属の黒い物体。
それが生まれ変わったかのようだ。いや、変身したのかもしれない。
それは誇らしげに、足元にビニールバッグをぐしゃりと従えて立っていたのだ。
凛々しい顔の天使像だ。子供の顔ではなく、青年の強い意志のある顔だ。
左右の手で、しっかりと弓を持ち、矢筒を背負っている。
背筋はピンと伸びて、2枚の羽根は大きく空に向かっている。
斜め上を向いた顎の所にあたる朝日。小さなホテルの部屋で後光がさしているみたいに光っていた。
間違いない。黒でもなく、茶色でもないこの色つや、そしてこの硬さ、古いブロンズだ。
足元からよれよれのバッグを外すと、ブロンズの台座がある。
そこに、サインまである。
だけど、読めない。
インターネットなんてない時代である。
イギリスに渡って、サインの写真がいっぱい載っている本を買ってやっとわかった。
それはオーギュスト・モローというアールヌーボーの時代の作家のサインだった。
あの夜とか朝とかもわからないような空間で、4万円を張りこんだ。だけどそれが日本に帰って、2百万円に化けるなんて、誰が考え得ただろう。
それが、帰国してすぐに2百万円に化けたのである。
その頃、みんの店は高円寺に移っていた。店に来たその客は、パイプをくゆらせていたら似合いそうな、気持が悪いくらいおしゃれなおっさんだった。
パイプは持っていなかったけれど、お金は持っていた。
1円の値引きもせずに2百万円、即決現金で買って行った。
近所で写真スタジオをつくっていて、レンタル用の商品にするということだった。
世の中に、そういう仕事が増え始めていた。




