第十五話 骨董会館なんてものがあったんだ
「おやじさんが君に連絡が取りたいと言っているんだけど」と裕ちゃんがボロ屋にやって来たのは、3日後の朝だった。
すぐに教えられた番号に電話をすると、「おやじさん」のしゃがれて野太い声がした。
「おぅ、お姉ちゃんか。今日ひまか? ひまなら手伝ってくれるかい? 明日、市場があるんだ。荷物を整理してくれるかい?」とおやじさんは言った。
「了解しました」3日前と同じ大声を出してみた。
指定されたのは神田にある「骨董館」だった。
世の中には「骨董館」という存在があったのか。
6階建ての古いビルである。その全ての階で「骨董屋」や「アンティーク屋」が営業していた。約40店舗の集合モールだ。古い書物を扱っている店、軸や茶碗を扱っている高級そうな店、アメリカのアクセサリーを扱っている店、古い着物を扱っている店、アフリカのお面や置物を置いた店。ヨーロッパのきらきらと高そうなガラスや陶器を並べたアンティークの店。世界中のありとあらゆる古いものがうごめくように、そこにはあった。
おやじさんは、その骨董館の社長だった。
おまけに関東の骨董市の多くを主催していた。
3日前に行ったのと同じような「道具市場」も開催していた。
「ひゃー、偉い人だったんだ」
「道具市場」はこの骨董館の最上階、6階で開かれる。雑然としたフロアに積まれたダンボール。ダンボールからはみ出している人形の足。明治の小説に出てきそうなのっぽの時計が転がされていたりする。
それらを、「売主」ごとに並べ替えていると、「おやっさん、明日お願いします」と、新しい「売主」が現れて、ごっそり荷物を置いていく。
働き続けて、動き続けて、気がついたらとっぷりと夜が来ていた。
「メシ食っていくか?」
「はい」
「俺は酒の方がいいから、俺ん家の近くの池袋でいいか?」
「もちろんです」
あの真っ黄色のホロのついた宣伝カーの助手席に乗せてもらった。
神田から池袋まで、でかい道も狭い道も、路地だって、軒先がせまった商店街のテントすれすれだってスピードは変らず、ガンガン走る。荷物を空にしたトラックは後ろが軋んでがっさがっさと横揺れする。
「おやじさん」はおかまいなしだ
「おやじさん」のものすごいパワーを感じた。
だけど、いきつけのすし屋で酒を飲み始めた「おやじさん」は、丸い顔がいきなりトローと崩れて、なつかしいおとうちゃんのようだ。
すし屋のカウンターだ。
「好きなもの食べていいですか?」
「おぅ、どんどん食え」
「酒も飲んでいいですか?」
「おぅ、どんどん飲め」
言われたとおり、どんどん食って、どんどん飲んだ。
「おぅ、あんたに今日の日当やらんとなぁ」
今日1日で、「お姉ちゃん」から「あんた」に出世したようだ。
おやじさんは、ひらりと1枚「1万円札」をくれた。
「これじゃ、多すぎますよ」
「いいんだ、いいんだ、とっとけ。普通は1日6千円なんだぞ。だけどあんた、がんばりそうだからなぁ。今日は奮発だ」
おやじさんは、昼間とはうってかわって、たまにぼそぼそ話すだけで、後はただゆるゆると飲み続けている。
後になって分ったことだが、このおやじさんが骨董の世界で成した仕事は多い。
彼も最初は一介の道具屋だった。それどころか、単なる「荷運び人」だったそうだ。
中国に兵士として送られ、帰国したのは戦後2年目だった。ふるさとの新潟に帰った。
戦後を生き抜くために、あちこちに荷物の運搬をした。古着の山をかついで山を越え、やがて自転車を手に入れて、電気製品(扇風機が主だったらしい)を運んだりしているうちに、気がつけば道具屋になっていた。そうこうするうちに、新潟で「道具市場」を開いたらこれがうまくいった。一時は新潟の家の箪笥の中は、どこを開けても百円札がぎっしりと詰まって、重たくて持ち上げられなかったとか・・・。
トラックを満載にして、各地で古道具を売り捌いた。一番売れたのが軽井沢だった。
当時、軽井沢におしゃれな家を建て始めた「別荘族」や「アメリカ人」が、奪い合うように古道具を買ったらしい。
いつしか彼の周りには、若い道具屋や骨董屋が集まってきた。みんなの「売場」をつくるために、始めたのが神社での蚤の市である。
けれど、かつて神社の境内で開催する「商い」は、やくざの縄張りだった。
それに立ち向かった「シロウト」のおやじさんは、やくざに付け狙われ命の危険もあった。だから、1年近くも「用心棒」を付けたという。
「シロウト」の開催する蚤の市は、たちまち大盛況になった。
「東郷神社」「乃木神社」「川越成田不動」「夏の軽井沢公民館」他、いろいろ。
やがておやじさんは、パリやロンドンを視察し、東京神田に「骨董館」をつくり、次に室内催事の業者250件を集めた「平和島骨董祭」というのを主催することになった。




