第十六話 軽井沢、ああ美しきその幻想
といっても、池袋のすし屋で奢ってもらっていた当時のみんは、そんなおやじさんの素性を知るよしもない。ただ「夏は軽井沢」というひとことに喰らいついた。
「軽井沢、夏の避暑地」「軽井沢、いっぱい並んだ別荘」「高原にさわやかな風が吹き渡り」なんて素敵な!
単細胞な妄想はどんどん膨らんだ。
後先も考えず「おやじさん、その軽井沢骨董市とやらに、私も出店させてください」と言っていた。酔っ払ったおやじさんは二つ返事で「ああ、いいよ」と答えてくれた。
気がつけば、みんもべろんべろんに酔っている。
「ついでに、今夜泊まっていいですか?」
「あ、いいよ、何なら明日の市場に出ればいい」
おやじさんの部屋は2Kで、がらんと何にもない。
所々に売り物らしいダンボールが積み上げられていて、万年床があるだけだ。
「布団は押入れにあるからな」
「お風呂入っていいですか?」
何しろ1日中汗だくになって働いたのだ。
「勝手にしていいぞ、俺は寝るから」
やっぱり何にもない風呂だった。固くなって干からびた石鹸がころがっているだけだ。
「ま、いいか」
その石鹸で、顔も髪も洗って、いつ洗ったともわからないようなタオルを使う。パジャマなんてものは借りようがないから、汗だくで着ていたTシャツとGパンを身に着ける。
「おやじさーん、石鹸で顔洗ったら、顔がつっ張るんですけど、クリームとかないんですか?」
寝ると言ったおやじさんに声をかける。
「そんなものはないなぁ、ああ、ここにオロナインがある。これ使うか?」
みんは、オロナイン軟膏を顔に塗ったくる。
「あ、おやじさん、いい酒があるじゃないですか。飲んでもいいですか?」
「おお、俺もいっぱいもらおうか」
ナポレオンたら、ブラックラベルたら、VSOPたら、その他銘柄はわからないけれど、高級そうな酒が流しのところに無造作に置いてあった。
みんは、ナポレオンのびんを抱えてグラスを探す。
ない。
仕方なく不揃いの湯飲みを持って、万年床のおやじさんの枕元に運んだ。
「おお、これで割ればいい」
おやじさんは枕元のダンボールからびんを取り出した。それはオロナミンCである。
湯飲みに半分くらいナポレオンを注ぐと、上からオロナミンCをトポトポと入れる。常温のオロナミンCの黄色い液体が、しゅわっと泡だってナポレオンと混ざる。
「外国に仕入れに行く連中のみやげでなぁ」
夏も近づくなまあたたかい部屋で、なまあたたかいオロナミンC割りにされるナポレオンはかたなしである。
おやじさんは60歳前半、今思えばちゃんと男女といえるのに、20代という若さは、大人の機微など考えたこともない。50代も60代も70代も区別が付かず、みんなできあがった「大人」だと思っている。
出会って2度目、風呂上りに枕元であぐらをかいて酒を飲んでいる女を、おやじさんはどう考えていたのだろう。
やがて、うとうとし始めたおやじさんに「じゃぁ、寝ますね」と声をかける。隣の部屋でかび臭い固い布団を押入れから引き出すと、そのままぐっすり眠っていた。




