■第3章 キャッチボール
金曜日、ミチルは大学の講義を受けていた。
マクロ経済学。ミチルにはまったく興味の無い科目ではあるが卒業単位の構成には必ず必要であった。
またそれはミチルに限ったことではなく他の生徒も渋々出席しているといった様子であった。1000人は軽く入る講義堂に散らばった疎らな若者達。ミチルもその中にいた。
授業中ミチルは千尋の事を考えていた。
千尋は昨日の木曜日の朝から実家に帰っている。千尋の祖母が木曜の朝に亡くなり千尋もすぐに実家の静岡に帰ったのである。
癌で入院中であまり長くはないだろうと医者に言われていたのだが木曜の朝急変して亡くなったのだった。
ミチルは昨日の木曜の朝の事を思い出していた。
朝九時前、ミチルが朝一の大学の講義に向かっている時、携帯が鳴った。
千尋からだった。ミチルはいつも通りに携帯に出た。
「ミチル・・。」
様子が変だった。千尋は泣いていた。いつもとはまったく違う千尋だった。
「どうした!?何があったの!?」
「・・おばあちゃんが・・」
涙が言葉を上回ってしっかりしゃべれてない状態だった。
「(もしかして癌と言っていたおばあちゃんが亡くなったのだろうか。千尋の様子からすると。)」ミチルは頭の中で推測した。
「千尋。今どこ?。」ミチルは言った。
それから30秒くらい千尋の泣くのを抑える息使いだけが聞こえた。
そして千尋が答えた。
「ごめん・・ミチル。」
「いや。全然いいよ。」ミチルはゆっくり言った。
「さっきね、母さんから電話があってね、おばあちゃんが・・亡くなったって・・。」
泣くのを押さえながら話しているのが伝わってきた。
ミチルは目を閉じた。
「そっか・・。」ミチルはそう言った。
そう言ったがそれしか言えなかった。
「千尋今からそっち行くよ。」ミチルが言った。
「ありがとう・・ミチル。」
「でも・・すぐ用意して実家帰らないといけないから。」
「ありがとうね・・ミチル。」
そう言って二人は電話を切った。
ミチルは何も言ってやれなかった自分が悔しかった。しかし今の自分に出来るのは早く実家のおばあちゃんの元に千尋を帰すことだとも思った。その時ミチルは何も助けにならない自分の無力さを感じていた。
「(今日は葬儀って言ってたな。)」講義を受けながらミチルは昨日の深夜千尋からきていたメールを見返した。
昨日の木曜日がお通夜で今日の金曜が葬儀となり土日は実家に滞在してその日曜の夕方の新幹線でこっちに帰ってくるとのことだった。
ミチルは当たり障りのないメールを返したがやはり実際なんと声を掛ければいいのか分からなかった。
そしてミチルは今、金曜朝一の講義が終わり次は午後からの講義で13時まで空き時間となった。現在時刻は10時30分であった。2時間以上時間がある。
ミチルは大学の溜まり場へ向かった。ミチルの大学は国立にしては規模も比較的小さくそこには経済学部しかないため人数も他大学よりはるかに少ない。
だから大学へ行けばほとんどみんな一度は見たことがある顔ばかりである。
そしてみんなそれぞれのグループは大体いつも同じ場所にタムロしていた。
だから携帯などで連絡を取らなくてもその場所に行けば大体会える。
もちろん大学に来ていればの話であるが。ミチルや友達はB棟2階の談話室横にあるベンチ付近によく集まっていた。
しかしその日はまだ誰もいなかった。
「(みんな単位大丈夫なのか。)」ミチルは思った。
朝一の授業はテスト前にならないとみんななかなか出てこない。
そして大学生は夜更かしが当たり前である。飲んでるわけでもないのに午前3時や4時に寝るなど当たり前である。
ミチルは隣の購買部に行って音楽雑誌を立ち読みした。音楽雑誌は内容も面白いが載っている写真がアートっぽくて時間を潰すにはもってこいだとミチルは思っていた。
「ミチル、コーヒー。」
音楽雑誌の横から声がした。
それは涼子であった。ミチルの元彼女である。ミチルが唯一大学内で付き合った子であった。
涼子は支払い前のブラックの缶コーヒー2本をミチルに差し出した。
「ん?」ミチルは言った。
「賭けてたでしょ。昔。レディオヘッドが一年以内に解散するかどうか。」涼子は静かな口調でそう言った。
レディオヘッドとはイギリスの有名なバンドでありミチルがその存在を教えて涼子は好きになった。最初はボーカルのトム・ヨークがカッコいいと言っていた涼子もいつの間にかレディオヘッドのファンになった。レディオヘッドの活動停止説が浮上した時ミチルと涼子は付き合っていてミチルは『解散する』に賭け涼子は『解散しない』に賭けていたのだった。
「あーね。」ミチルはやっと思い出したといった表情で渋々その2本の缶コーヒーを受け取った。
「熱っ!」
ミチルは缶を落としそうになった。
「購買部のは激熱だからね。端っこ持たないと。」涼子は今更といった表情で言った。
「でも何で2本?」ミチルは訊いた。
「あっちで飲まない?」涼子は外を指差して言った。
「まあ・・。いいけど。」
涼子はそう言って先に購買部を出て行った。
ミチルはあまり乗り気ではなかったがとりあえず会計を済ませた。
そして涼子の座っている談話室横のベンチに自分も腰掛けた。そして昔涼子と付き合っていた時もこうやって涼子の隣に座っていたことを少し思い出した。
「はい。コーヒー。」ミチルはそっけなく言った。
「ありがと。」涼子もそっけなく言った。
「ミチルもブラックでよかった?」涼子がミチルの方を見ながら言った。
「うん。」
「変わってないよね~。」涼子がポツリと言った。
「ああ、まあね。」
涼子もブラック派であったがそれ以上にミチルはブラックコーヒーを好んで飲んでいた。
というよりミチルにとってブラックコーヒーは水と同じ感覚だった。
もちろんそれは今に始まったことではなくミチルの実家がそうだった影響である。
水を飲むのに砂糖は入れないのと同じでコーヒーに砂糖やミルクが入っているものはそれはコーヒーでは無くジュースの部類に入るとミチルは思っていたしインスタントコーヒーはいまいち好きになれなくて自分からは飲まなかった。
アパートには安くてもレギュラーコーヒーの豆を常に置いておりドリップして一日に1リットル近く飲むことも普通であった。
体質もあるのであろうがミチルには胃が悪くなるとか眠れなくなるという人の気持ちが全く分からなかった。
もちろん砂糖入りの缶コーヒーを貰っても普通に飲むがそれはジュースの類として飲んでいた。またコーヒーは水と同じ感覚だったのでお金を出して買うというのはもったいないと思っていたし飲みたければ家で作ればいいと思っていた。
だからミチルは大学内では殆んどコーヒーを買うことが無かったし、人がアパートに来た時は砂糖を入れて出していたためミチルがブラックコーヒーが好きだと知っている者は殆んどいなかった。
ミチルと涼子とは大学2年の時付き合っていた。お互い小さな大学内で顔は見たことがあったが話したことは無く、ミチルのグループの一人が涼子のグループの一人とバイトで知り合いになり交流ができたのがキッカケだった。
涼子は美人で学内でも人気があった。確かにあまり笑ったりはしないし外見や話し方は一見冷たい様に見える。
しかし他人のいろんな所に気が回る優しい性格であったので男からも女からも人気があった。
「めずらしくない?。声掛けてくるとか。」ミチルが言った。
「そう?あたしはみんなに優しいからね。」涼子が返した。
ミチルは昔の事を少し思い出した。涼子はそれまでミチルが付き合った女の子達とは少し違っていた。よく気が付く性格なのは確かであるがそれだけでなくたまにミチルの心を見通した様な言葉をサラリという時があった。
それはわかって言っているのか特に意図が無く言っているのかミチルには分からなかったが涼子の鋭い洞察力の様なものに何か一目置いている自分がいたのは確かであった。
「そう言えばさ、声はまだなんでしょ。?」涼子が言った。
涼子もミチルの声が出なくなったのを知っている。
「うん。」ミチルは静かに答えた。
「じゃあ何なのかな~。」涼子が上を見上げながら言った。
「何が?」ミチルが訊いた。
涼子が少し笑った。
「ねえ、最近の噂知ってる?」
「噂?」
「そう。」
「何の?」
涼子がミチルを見て言った。
「あなたのよ。」
「オレ?」ミチルは驚いた。
「そう。最近あなたが変わったって。」
「みんながそう言ってるわ。ミチルの友達もあたしの友達も。」
「一体何があったの?」
涼子がいつになく直球で言っているようにミチルは感じた。
涼子はタイプに分けるとまず城の外堀を埋めてから攻めるタイプでいきなり核心なんて絶対に突いてこないタイプだったからだ。
「別に特には。」ミチルは言った。
「はぁ~。」
涼子は小さくため息をついた。
「そこら辺は変わってないんだよねえ。」涼子が呆れた感じで言った。
「じゃあ言うわ。ミチルあの女の子と付き合ってんの?」
それを聞いてミチルは涼子がなんで知っているんだろうというのとやっぱり何かあると思ったという気持ちが混ざった顔をした。
「2,3日前の夜ね、駅を通ったらミチルといる女の子を見たわ。」
「あの子が新しい彼女?」
「・・まあ。」ミチルは言った。
別に隠してるわけでもない。ミチルは思った。
「カワイイ子だよね。でも何か今までの子達とは雰囲気違う感じ。」
「そういう言い方・・やめてくれよ。」ミチルは涼子の目を見て静かに言った。
そして少しの沈黙が流れた。
「ごめんなさい・・。なんか二人ともすごく楽しそうで。あんなミチルは初めて見たから。」涼子も静かに言った。
「そうかな。」ミチルは少し気不味く答えた。
「そう感じたわ。あたしは。」
「あたしと別れた後ミチルが付き合った子、何人か見たことがあるわ。でもその時もミチルはあたしと付き合ってる時と同じような目をしていたわ。」
「でも昨日見たあの子と話してるミチルの目はあたしの時とは全く違う。そう思ったわ。」
涼子はミチルが大学に入って付き合った女の子の中では一番長く続いたが唯一向こうから別れを告げられた相手であった。ある日突然一方的に。
涼子は今更なぜそんな話をするのだろう。ミチルはそう思った。
「あの子は何が違うの?」涼子が言った。
「違うって別にそんな変わった子じゃないと思うけど。」
「じゃああたしと同じってこと!?。」
「いや、そういう訳じゃないけどさ・・。」
涼子が珍しく突っかかってくるのにミチルは驚いた。
「じゃあ何が違うの。」
「違いって言われても・・。」
ミチルは答えに困った。
そして少し沈黙の時間が流れた。
「でも違うんだよね。きっと・・。」涼子がポツリと言った。
そして涼子は語りはじめた。
ミチルと付き合っていた大学2年の時のことを。
「あたしね、ミチルと付き合ってるあの時感じてたの。あなたは心の中に何か重たい塊みたいなものを背負ってるんじゃないかって。」
「え?」
ミチルはドキリとした。洞察力の鋭い涼子にはミチルの心の闇は見抜かれていたのであった。
たまに感じていたミチルの心を見通したような涼子の言葉は偶然ではなかったのである。
涼子は話を続けた。
「あなたと付き合って日を重ねる度、それは確かにある、あたしはそう思ったわ。」
「そしてそれが一体何なのかとても気になったわ。あなたと居る時も居ない時も。ずっと・・。」
「いつかあたしがその重い塊をあなたから取り除いてあげられたらってそう思ってたわ。」
「でも・・ダメだった・・。」
「どうやってもあたしにはミチルのそれを取り除いてあげることは出来なかった。そしてその時あたしは何か自分の無力さみたいのをすごく感じたわ。そしてそれがとても苦しくてそれにあたしは耐えられなかったわ・・。このままじゃあたしっていう自分自身もダメになる気がしたの。だからあたしあなたに別れようって言ったの。」
「そして一方で・・あなたの背負ってるそれには決して触れちゃいけないような気もして・・。」
「もしかしたらあたしが怖くて触れられなかっただけなのかもしれないって・・今は思うけど・・。」
涼子はそう言うと黙った。
そしてしばらくしてまた口を開いた。
「あの時さ、あたしがもっと頑張ってさ、ミチルのその重い塊をキャッチボールみたいに少しでも預かってあげることが出来てたらさ、あたし達・・今頃こんなんじゃなかったかもしれないのにね・・。」
そう言うと涼子はすぐに下を向いた。肩まである髪が涼子の顔をそっと隠した。
そしてそこから涙がポタポタと数滴床に落ちた。
それはミチルが見た初めての涼子の涙であった。
「涼子・・。」
「悪いのは・・オレだから・・。」
「まったく・・。そこら辺はホント変わってないよね。」小さな声で涼子が言った。
それから二人とも少し黙ったままだった。
そして涼子が口を開いた。
「でも今のミチル、いい顔になったって思うよ。」
涼子はミチルに目を合わせなかったが明るい声を出してそう言った。
また少し間を置いて涼子が言った。
「じゃあ~そろそろ行くねっ!。あなたのアンパンマンによろしくね!」そう言って涼子は笑顔をつくった。そしてゆっくりとベンチを立った。
「アンパンマン?」ミチルは言った。
「そういう人なんでしょ?。おそらくだけど・・。」涼子はやさしく言った。
「・・うん・・そうかもしれない。」ミチルは言った。
そしてその時涼子は少し遠い目をした。
そしてまた笑顔をつくった。
「あ、そうだ。」
別れ際に涼子はそう言うとベンチのミチルに何かをそっと投げてよこした。
「?」
ミチルはそれを左手でキャッチした。
それは一粒のカフェオレの飴だった。
「女の子はブラックよりも甘いのが好きだよ。」
そう涼子は言って、少し微笑んだ。そして歩いて行った。
涼子のそういう微笑を見たのもミチルは初めてだった。
「(ありがとう。)」ミチルは心の中で涼子に言った。




