第十八章
朝早く目が覚めてしまった俺は、宿泊先の古い旅館を一人で外に出た。美香と雅志はまだ眠っていた。母の実家には俺たち三人が泊まれる布団の用意もなかったから、実家近くの旅館に宿泊することにしたのだった。
新幹線の時間まではまだかなりある。そうしたいわけでもなかったが、俺は近くを散歩してみることにした。旅館を出てすぐのところに小さなコンビニがあった。この町に一軒しかないコンビニに俺は立ち寄ってみた。何か買いたいものがあったわけではなかった。店内を足早にぐるりと一周してスポーツ新聞を買った。スポーツ新聞を見るのはどれぐらいぶりだろう? コンビニを出てゆっくりと歩きながら、何気なく紙面をめくってみた。そうか。昨年初めてホームラン王に輝いた選手が昨夜はサヨナラ満塁ホームランを打ったのか。
大きな犬が俺に向かって突然激しく吠えた。この辺りでは見慣れぬ俺のことを警戒しているようだった。
そういえば、スポーツ新聞どころか、最近はナイター中継などもまったく観なくなった。野球に対する関心が完全に薄れている自分に気づかされた。そのとき、俺にはその理由がはっきりとわかった。福山がいないからだ。もし福山が今でも活躍していれば、俺はやはりプロ野球に関するニュースをずっと追い続けていたに違いない。福山が先発する日は、「打たれろ」「負けろ」と念じながら、テレビの前を離れなかったに違いない。仮に福山が登板していなくても、各チームのゲーム差や個人成績を入念にチェックしていたはずだ。他球団の投手が勝ち星で福山を上回れば、あるいは防御率で上回れば、内心ほくそ笑んだことだろう。
十分ほど歩くと、俺が幼い頃から見慣れた川の土手に出た。子どもの頃に、この川のもう少し上流のところでよく一人で遊んだものである。川原で丸い形の石を見つけては、向こうの岸に全力で投げていた。しかし、川幅が広いので、向こう岸に石が届くのにはかなりの年月を要した。それができるようになったのは、俺がもう中学生になった頃だった。そんな一人遊びが俺の肩を強くしてくれたんだと思う。ピッチングの基礎をつくってくれたんだと思う。
日々その姿を変えていく都会とは違い、土手の景色は昔とまったく変わっていなかった。そこには生命力の強い雑草が鬱蒼と茂っていた。土手に沿って生長した木々が競うように空高く枝を伸ばしていた。ここにはあの日の俺がいた。「もしあのとき、もう少し考えながら石を投げていれば」、そんな思いがふと俺の頭をよぎった。ただ漫然と力任せに投げるのではなく、例えば向こう岸のあの木にぶつけようと考えながら、もっとコントロールを意識しながら投げていれば………。ワインドアップで気持ちよく投げるだけでなく、セットポジションから投げる練習もしていれば………。俺は何百球、何千球とここで石を投げてきた。その一球一球をもっと大事にして、目的を持って投げていれば、俺の野球人生は変わっていただろうか?
一晩続いた大雨の影響で、川の流れは土色に濁っていた。流木の量もかなりのものだった。土手に沿って生えているケヤキの先が、低く垂れ込めた曇天の空に毛細血管のように伸びていた。川の水かさは、俺の記憶にないほどの高さに膨れ上がっていた。川岸の雑草を呑み込んで、土手の芝生にまで達しようとしていた。その水量は俺を圧倒した。水の勢いはものすごく、人間の小さな力ではとても止めようがないものだった。何かの空き箱や丸太などが、水面に出てはまた沈み、沈んでは浮かび上がるということを繰り返して遠くへと流されて行った。
濁流はあらゆるものを呑み込んでいた。目に見える水面だけでなく、川の底のほうでもきっと大きな何かを転がし続けているに違いない。大きな岩も小さな魚たちもありとあらゆるものを呑み込んで流し去っているに違いない。濁流自身には何の意思もない。ただ、すべてをきれいに押し流して行く。何もかもを海に向かって運び去っていく。濁流に呑み込まれたものは、なす術もなくその力に従わざるを得ない。これまでいったいどんなものがこの濁流に呑み込まれ、そしてどこまで流されて行ったことか。
俺は目を閉じて、自分がこの濁流に呑み込まれる姿を想像した。濁流に身を委ねた俺の身体は、川の中で発砲スチロールのごみのように、浮いたり沈んだりした。そして、すぐに視界は暗闇へと変わった。溺れた俺は呼吸もできなくなっていたはずだが、不思議と苦しくはなかった。そして、次第に穏やかな気持ちで満たされていった。眠りに落ちる直前のような心地よい感覚だった。
ふと目を開けると、川下の東の空には、雲の切れ目から微かな日射しがこぼれていた。この場所で、河口までおよそ何キロぐらいだろうか? 濁流の行く先には何かがあるのかもしれないし、何もないのかもしれない。
見上げると、カラスが東の空に向かって飛び去って行った。カラスが見えなくなるまで俺はじっとそれを目で追い続けていた。
了
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