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濁流  作者: 亜蘭
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第一章

 二〇〇×年、大学四年の秋、その年のプロ野球のドラフト会議で、「仙道清志」という俺の名前はどの球団からも指名されることはなかった。

 その日の昼頃には、大学の階段講堂は野球部関係者や報道陣ですでにいっぱいになっていた。テレビカメラだけでも数台がスタンバイし、多くの記者たちがドラフト会議の開始を今か今かと待ち構えていた。

「仙道先輩、ほら、もっと前に座っていただかないと困りますよ。報道陣も先輩のことを待ってるんですから」

 階段講堂の後ろのほうで一人座っていた俺は、後輩の町田に運悪く見つかってしまった。俺は軽く手を振り、セカンドの控えをしていた町田の誘いを断った。町田は童顔で、俺より一つ下というだけなのにまるで新入部員のように見えた。町田はなぜか俺になついていて、ことあるごとに俺を持ち上げた。

「だって、仙道先輩はすごいじゃないですか。仙道先輩が調子がいいときは誰も打てないですよ」

 そういう町田のことを嫌いになれるわけはなかったが、今日に限ってはそっとしておいてほしい。俺がいることを誰にも気づかれたくない。なぜなら、今日の主役は俺ではなく、あくまであの「福山雅夫」なのだから。

 南関東大学リーグの中で、ここ数年道城大学は屈指の強豪校と言われ、何度も優勝を重ねていた。それまでそれほど強くもなかったチームを常勝軍団にまでのし上がらせたのは間違いなく投手力だ。その先発陣の二枚看板が福山と俺だった。いや、そう信じている。チーム内でもそう評価されていたはずだし、それなりの自負もあった。ただ、福山と俺を比べた場合、あくまでエースは福山であり、実際、優勝のかかるような大事な試合の先発は必ずといっていいほど福山だった。つまり、二枚看板といっても、福山とは大きな差のついた二番目の先発投手という位置づけに過ぎなかった。

 だから、報道陣の注目はあくまで福山であり、俺なんかではない。一位指名は間違いないが、果たして何球団が福山を指名し、どの球団が福山を獲得するかが最大の関心事だった。

 福山ほど派手ではなかったものの、そういう俺だって、まったく成績を残せなかったわけではない。二番手とはいえ、まずまずの勝ち星をあげ、ある専門雑誌では特集記事を組んでもらったことさえある。

「エースの陰に隠れた大投手―仙道清志」

 それが特集記事のタイトルだった。

「福山という大エースの陰に隠れてはいるが、もし仙道が他のチームにいたならば、その存在は間違いなくエース格であろう。仙道にはそれだけの実力があり、今秋のドラフト会議でも多くの球団が指名候補としてリストアップし注目している」

 おおよそそんな内容の記事だったと記憶している。俺は今でもこの雑誌を野球部の寮の自分の部屋の本棚に大切にしまい込んでいる。

 主役は福山でいい。五位指名でも六位指名でもいい。とにかく自分にもプロの道を拓いてほしい。ここ数カ月の間、俺はずっとそれだけを心に念じ、表情にこそ決して見せなかったが、密かに期待し続けていた。

 福山とて高校時代はほぼ無名だった。甲子園にも出場していない。全国的にはノーマークの投手だった。福山がその潜在能力を開花させたのは大学に入ってからだった。一方の俺は、一回戦であえなく敗れたとはいえ、甲子園で投げたことがある。歴とした甲子園投手なのだ。県大会の決勝で甲子園出場常連校を味方のエラーによる一失点のみに抑え、母校を甲子園に導いた。上背は一八五センチあり、自分で言うのも何だが、地元では将来を嘱望された逸材だったのだ。ただし、俺の評価を下げてしまったのは甲子園の一回戦で四連続四球を含む七つの四死球、被安打五で早々にマウンドを降りてしまったことだ。その日はなぜかコントロールが定まらず、期待されたようなピッチングができなかった。甲子園の雰囲気に吞まれたといえばそうなのかもしれないが、いまだその理由は自分でもわかっていない。ボールが高めに浮いていることはわかっていたが、試合が始まってしまえばそう簡単に修正できるものではない。そして、大一番でコントロールを乱す悪い癖は大学時代も続き、安定感のある福山を追い越すことはどうしてもできなかった。

 ドラフト会議がテレビで生中継されるようになったのはいつからだろう? 放送が始まると、早速福山は五球団から指名を受けた。階段講堂は大いに沸いた。一部のチームメイトからは万歳の声も聞かれた。道城大学野球部全員がわがことのように喜んでいる。そこには嫉妬の気持ちなど微塵もなかった。おそらく俺一人を除いて。

 抽選の結果、東京の人気球団が福山の交渉権を獲得すると、階段講堂はさらに歓声と熱気に包まれた。福山にはそれだけの信頼と人望があった。

「プロの厳しい世界でも、ここぞという場面で結果を出せる、そんな信頼される投手になりたいと思います」

 福山はやや紅潮した顔で、それでもやや控えめな言葉を選びつつ、テレビのインタビューに応じた。やがてステージ上で福山の胴上げが始まった。俺はその輪には加わらなかった。階段講堂の後ろの席で、目立たぬように顔を伏せながら、チームメイトから見つからないように声を押し殺していた。

 福山への取材が続く中、ドラフト会議は静かに進んでいった。各球団の三位指名が行われている頃には、徐々に講堂から人も少なくなってきた。福山を囲むようにしてチームメイトの大半も講堂を出て行った。もちろん俺は自分が指名されるのをずっと待ち続けていた。しかし、次々に名前が読み上げられる中に、俺の名前は出てこない。客観的に見ればそうだろう。大学野球ではある程度の成績を残したかもしれないが、プロのレベルではないことぐらい自分でもうすうすわかっていた。しかし、客観と主観は違う。別の名前が呼ばれるたびに、「なぜだ?」「そんなはずはない」という主観が今にも暴れ出しそうだった。動物園の象が鎖を引きちぎって街の中に飛び出して行くように。

 やがて、即戦力として期待される社会人や大学の選手の名前はほぼ出なくなり、代わって将来が期待される高校生の名前が中心になった。俺は後ろ髪を引かれるような思いで席を立った。いつまでも未練がましくここに座っていることが恥ずかしく、それ以上耐えられなくなった。「お前なんかが指名されるわけがないじゃないか」「所詮は二番手の投手だろう」「それでもまだ諦めずにこんなところにしがみついてるのか」

 いったい誰の声なのかわからない。だが、そんな声が俺の頭の中をぐるぐると回っていた。俺は一人で静かに野球部の寮に戻った。一歩一歩が地面に吸い込まれていくように重く感じられた。自分の足が自分のものではないようだった。

 結局、俺の名前は最後まで出てこなかった。それを知らせてくれたのはあの町田だった。

「おかしいですよ、仙道先輩が指名されないなんて。スカウトの人の目もたいしたことないんだな」

 いつもならうれしいような町田のそんな言葉も、俺には虚しく響くだけだった。なぜ町田は最後まで講堂に残っていたんだろう? 本人すら逃げ出してきたというのに。いずれにせよ、町田ほどかわいい後輩はいない。なぜ監督は町田をレギュラーとして使わないのだろう? 本当にいい奴なのに。

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