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がん病棟の鍼灸師  作者: 中元信作


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第2話 初めての患者さん

 ずっとあとになって昔のことを振り返ってみると、回り道だと思っていた時期が実は自分の成長にとって大切な時期だったとわかることがあります。


 私にとっての回り道は、鍼灸師として帯津病院に就職したつもりがリハビリ室に配属され、鍼も灸も使わせてもらえなかった最初の半年間でしたが、今になって考えてみるとあの時期に脳卒中の患者さんやリウマチの患者さん、交通事故の後遺症の患者さんや糖尿の患者さんから整形外科の患者さんまで、これぞ総合病院のリハビリに関わり、様々なトラブルを抱えた身体に数多く触れることができたことは、私が治療家として成長する上で大きな財産になりました。

 もちろん患者さんにとっては迷惑だったかもしれません。私は鍼灸師であって作業療法士ではないのですから。


 あの回り道の真っ只中にいた時、自分が良い勉強しているとは微塵も思ってはいませんでした。当然呑気な気分ではいられません。もう一生鍼を打てないのかもしれないと本気で不安になり、かなり焦りました。

 そういうわけで「約束と違うじゃないか!」と必死に事務長と交渉し、ようやく鍼を打てるようになった時にはとてもうれしくて、心の底からやる気があふれ出しました。

 「さあやるぞ!」と気合が爆発したのを今でもよく覚えています。

 あの武者震いも昨日のことのようです。


 ところが、そんな喜びはその後あっという間に消え失せます。がんの患者さんが、勉強会で習ってきた鍼灸が通用するほどなまやさしいわけがありません。うれしさはすぐに冷たい鉄の緊張に変わりました。そしてこの緊張は、日々の強弱がありながら10年後帯津病院を退職するまでずっと私の心の奥に張り付き居座ることになります。

 ただ不思議なのは、あの時のやる気と気合はその後どんなに難しい患者さんを前にしても無くなることはありませんでした。実のところあの時のあのやる気は今でもあります。この情熱も本人と同じく今ではだいぶ歳は取ったかもしれません。それでも今にして思うと、やる気が持続するってことが、その職業に自分が向いているってことなのかもしれません。あるいは才能があるということなのかも。


 さて、ようやくたどり着いた記念すべき私のプロ鍼灸師最初の患者さんは、末期がんで寝たきりの中年男性で、激しい腰の痛みでベッドの上で横になり5分として同じ姿勢でいられない人でした。

 激しい痛みで常にのたうち回っている人に鍼を打つのですから、その時点でもう教科書通りの鍼なんて打てません。

 ちょっと鍼を打つと動き、打っては動き、打っては動きの繰り返し。全然集中できません。

 ようこそ現実の世界へ。

 教科書もマニュアルも通用しない痛みとの戦い。おまけに目の前に横たわる熱い痛みの向こう側には死が待ち構えている。

 命を燃え尽く激しい痛み。勝機はほぼ絶望的。それでもあきらめるわけにはいかない。少なくとも痛みだけはなんとかしてからでなければ施術を終われない。

 汗がダラダラと頭から流れたのを覚えています。汗が目に入って痛い。患者さんの布団に汗がポタポタと落ちました。申し訳なく思いながら、もうどうしようもない。タオルで汗を拭く余裕などあるわけもなく必死に施術をしました。

 結果。

 私が施術している間とその後しばらくの間は痛みが軽くなる程度の効果はあったようです。その日以降その方が亡くなる直前まで毎日施術に入ったので少しは気に入ってもらえたのかもしれません。


 ところで、私の初めての患者さんについて今でも印象に残っているのは、実のところ患者さんご本人よりも奥様の方です。別に施術しながらキレイな奥様を見つめていたわけではありません。むしろ奥様はいつも病室にはいませんでした。

 患者さんにとってただ一人の身内である奥様は、滅多に面会に来ることがなく、いつも患者さんはひとりぼっちでベットの上で痛みをこらえていました。ナース達が「あの人の奥さんは冷たい」「夫婦二人きりなのにどうして付き添ってあげないのかしら?」と眉間に皺を寄せて噂をしていました。

 私は一度だけ奥様の姿を見ました。

 今日もがんばって施術をしようと、重い気持ちを無理やり抑え込みながら病室に入ると、奥様がベッドサイドに立っていました。いつものようにウンウン唸っている夫の姿を、困ったような表情を浮かべ、何も言わず、腕を組んで見下ろしていました。

 その時私には奥様が苦笑いを浮かべているように見えました。

 どうして笑っているのだろう?いや、もう笑うしかないのか。

「これから鍼の治療に入ります。でも、後にしましょうか?」

 私が言うと、奥様は、

「どうぞ。」と言ってそそくさとバックを持ち病室から出ていってしまいました。

 施術が終わっても病室には戻ってはきません。廊下にいるかと探しても姿は見えません。

「奥様はこの近くにはいないようです。」

 患者さんに伝えると、

「うん。」

 布団の中から寂しげな返事が聞こえました。

 その時、布団の中にいる患者さんが私の姿に重なりました。

 「ここに寝ているのは俺だ」。そう思いました。

 この夫婦と同じく、私たち夫婦にも子供がなく、患者さんと同じように私にとって家族と言えるのは妻だけです。

 将来、自分ががんになって入院し、そして痛みでベットで唸っていたとしら、きっと妻は怖がって病室には近寄らないだろう。看護師にせっつかれ、恐る恐る病室に来たとしても、何をやっていいか分からず、腕を組み困り果てるに違いない。顔には苦笑いだって浮かべるだろう。そうして私を見下ろすだろう。

 そう思いました。

 妻には私のペットサイドには来てほしくはない。来てほしいけど、来なくてもしかたない。我慢しよう。

 私ががんになって痛みで苦しんでいる姿を見るのは、きっと妻にとってもすごく恐ろしいことに違いない。妻にはそんな恐ろしい思いはしてほしくない。私の病室から遠く離れたところにいて、いつものように静かで穏やかな気持ちでいてほしい。

 自分はこの患者さんと同じように一人でがんばろう。

 そんなことを思ったのを今でもよく覚えています。


 ただ、今になってあの時のことを振り返ってみると、あのベットサイドで恐怖に震えていたのは患者さんの奥様ではなく、私自身でした。

 初めての患者さんを前にして、自分が怖がっていることに気がつかないほど、必死になっていただけでした。

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