第13話 体に住み着いた“悲しみ”を外へ追い出す
私は現代医学の病院で働いて、主にがんの患者さんを担当してきていながら、がんの専門家でもなければ研究者でもありません。
ただの鍼灸師です。
そのためか、不幸にしてお亡くなりになられたがんの患者さんを前にして「この方は本当にがんで亡くなったのだろうか?」と疑問に思うことが時々ありました。
がんが体を蝕む前に、あまりにも強い不安と恐怖のために命を落としてしまったように見えた方が時としておられました。
不安や恐怖というのは本当に厄介で、これがあると患者さんはどうしようもなく不幸になります。不安に苛まれていたり、あるいは恐怖に震えていたりすると、だいたい何をやってもなかなかうまくいきません。
一方、逆に不安や恐怖さえ取り除くことができれば、極めて厳しい状況にあってもそこそこ楽に過ごすことができます。
結局、振り返ってみると、私が帯津病院で働いた10年間はずっと患者さんの不安や恐怖と闘っていたように思えます。がんそっちのけで。
ところで、不安や恐怖のような心の問題の解決には、心理療法やカウンセリングの専門家がいます。
帯津病院にも何人かいました。今もいると思います。
私の見たところ、心理の専門家でさえ患者さんから不安や恐怖を取り除くのはだいぶ苦労していたようでした。
おそらく、心理療法の世界もスポーツや芸術それに鍼灸と同じく実力の世界なのでしょう。同じ資格を持った専門家でも上手い下手の差がだいぶあるように感じました。
鍼灸師の立場から申し上げますと、不安や恐怖、または呪いといった負の感情は体にこびり付いています。具体的に言うと、これらの感情は筋肉や関節の硬さ、コリ(私たちは硬結と呼びます)となって体に住み着いています。
ではそのコリ(硬結)に鍼を刺して柔らかくして(消して)しまえば、不安も解消されるのかと言われれば、その通りです。
これは本当に不思議なもので、不安や恐怖で硬くなった体を柔らかくほぐすことができれば、不安や恐怖も心の中から消えてゆきます。
まったく単純な話です。
ところが、事はそう簡単ではありません。
不安の根が深ければ深いほど、恐怖の刻まれた年月が長ければ長いほど、硬結も固く、頑固でなかなかほぐれてはくれません。
一度消えたと思ってもまたすぐに表れてきます。
あたかもそれらの硬結は患者さんの体の一部、その人の個性のように固く結びついているようにすら思えます。
私の鍼灸の師匠のところへ来た酷い肩こりに悩まされている女性は、左肩の特定の場所にとても頑固な硬結があって、それが私の師匠の腕を持ってしてもなかなか消えてくれない。毎回治療に来るたびにその硬結はしつこく同じ場所にいたそうです。
加えてその硬結が特殊だったのは、師匠がそこに鍼を当てると患者さんが必ずご主人に対する不平不満を話し出すことでした。その硬結はまるで再生ボタンで、師匠が押すと患者さんは自動的に苦々しい表情となり、夫のことを話し出したそうです。
「旦那さんへのストレスがその硬結を作ったんだね。」
師匠は言いました。
「先生がそのことを指摘したら患者さんはなんと言ってました?」
私は聞きました。
「いや、患者さんには何も言わなかった。」
師匠の返答を聞いて私は意外に思いました。肩の酷いコリとご主人に対するストレスが関係しているとわかれば、患者さんだって何かしら対処のしようがあるのでは?と思ったからです。
私が「どうして?」と言う顔をしたのでしょう。師匠は言葉を続けてくれました。
「言っても無駄だからね。」
この短い師匠の説明を私なりに解釈すれば、
「患者さんだって自分の肩コリの原因が旦那だってことは百も承知だ。わかっていてもどうにもできないから、わざわざ鍼灸に来ているのではないのか?
我々の仕事はその硬結を消し去り、もってストレスと肩コリの関係を断ち切って、以後ストレスを受けても上手に受け流せる丈夫な心身になってもらうことだ」
ということになると思います。
私がある老婦人の施術をしたときのことです。
ご婦人はむかしむかしの帝王切開の手術痕が痛むのでなんとかしてほしいと、鍼灸室へやってきました。
診てみると、確かに細長い術痕の周囲にいくつかの硬結があります。
一般に古い硬結はなかなか消えてくれませんが、一度消えたらまた出てくることはあまりありません。一方で新しい硬結はすぐに消えてくれますが、またすぐに出てくる傾向があります。
この時も、古い硬結なのでなかなか消えてくれずに苦労しました。施術を何度も重ねながら小さな硬結から順に消してゆき、ようやく親玉の硬結までたどり着き、また数回の施術を重ねたのち、ついに親玉がふっと消えた時のことです。
突然老婦人がさめざめと泣き始めました。
患者さんが施術中に突然泣き出すことはたまにあります。
先ほどとは別の私の整体の師匠も言っていました。
「患者さんが突然泣き出すと、こっちもびっくりしてしまうけど、動揺してはいけない。こっちまで動揺してしまうと患者さんが傷ついてしまうし、隣のベッドに他の患者さんがいたら、そっちまで動揺が感染してしまう。心の中ではオロオロしていても、なんでもないような顔を無理やり作って『よくあることなんですよ。どうぞ心ゆくまでお泣きください。』と言いなさい。」
私もその時はとてもびっくりしましたが、動揺して患者さんと一緒に泣き出すことはしませんでした。内心の動揺を巧みに隠しながら何も言わず淡々と施術を続けました。
患者さんはしばらく泣いて落ち着くと、「この帝王切開で産んだ娘は、数年前自ら命を絶った」と教えてくれました。
硬結の親玉を消し、カタルシスの涙を経てあの老婦人の悲しみが和らいでくれたかどうかはわかりません。聞かなかったので。
聞いても無駄なような気がしたので聞きませんでした。
でもあの硬結が出てくることはその後なかったので、少しは楽になってくれたと、願っています。




