最終話 『もう一度生んで』
治世七年、フェリシニアは安定している。ソニアが尼僧院に行く事は変わらぬであろうから小鳥達にも新しい環境を提供してやる事が必要だろう。
そして、零時の鐘が鳴ってお開きになる頃、アーケイディスの小鳥達はそれぞれ借りた部屋に向かった。
誰が決めた訳でもなく、アーケイディスは真っ直ぐケセルトンの部屋に向かう。
こんこん、とアーケイディスは扉を叩く。
返事がないので、いつものように蹴りあけるのではなく、そっと扉を開けた。
眠っているのなら起こしたくないと思って。
ケセルトンは寝台の上に座って、ぼんやりと外を見ていた。
明かりは一本の蜜蝋だけ。
今日は民衆にとってはお祭りのような一日だった。
外を見ているとまだその名残が残っている。
ケセルトンの子供が死んだ日なのに、人々にとってはお祭りなのだ。
「……なんだか、すごい一日だった。城が落ちて、私が子供を殺して、貴方がアリステアを切って、子供を埋めて、貴方が姫と条約を結んで、そして、パーティ」
ケセルトンはアーケイディスの顔を見ずに言った。見ずともアーケイディスだという事が解る。陽だまりのような香りの中に酒の香りが混じっている、馴染みの香りだ。
「たった一日だとはな。すごい一日だったと思う」
溜息をつくように、アーケイディスは言った。
「レントの民は役に立ったのか?」
やっと、ケセルトンはアーケイディスを振り仰いだ。
「最初に関所を突破したのがレントの民だ。最初にこの城に到着したのも、投石器を運んできたのも、サーディシエントから逃げ出そうとした人間を此処に留めさせたのも。正直ここまでやってくれるとは思わなかった、大手柄だ」
「では、もういいだろう?」
「何がだ?」
「離縁して欲しい」
ケセルトンは言った。
紅い瞳に涙がたまっているのが薄闇でもわかる。
「何故だ?」
「私は子殺しだ。罪を償わなくてはならない」
「あれはそなたが悪いのではない!!」
アーケイディスは大股で愛する女の傍に向かった。寝台のわきにたどり着くと腕を伸ばしケセルトンを捉える。
未だ身体中に生傷の残るケセルトンを力を籠め過ぎないようにそっと抱きしめた。鼻孔をつく軟膏の香り。
「駄目……貴方の腕の中に居たくなってしまう、放して」
「余の腕の中以外の何処に行こうというのだ!?」
「──ソニア様にお願いして一緒に尼僧にして頂く。髪もざんばらだ」
「生きたまま死んだような生活などさせられるか!!」
アーケイディスの叫びは切なかった。
「そなたが『行く』なら余は『逝く』ぞ!! 余の心を連れて行くがいい、余の魂を連れて行くがいい!!」
ケセルトンは瞠目した。紅い瞳がまた、涙を搾り出す。
「貴方を『逝かせ』られない。そんな真似、出来ない。愛したものをまた私に殺させようとなさるのか? 私にまた罪を重ねさせるおつもりか?」
アーケイディスはケセルトンの肩に顔を埋めた。
「──泣いておいでか?」
ケセルトンの肩が冷たくなっていく。
アーケイディスは答えない。
その時、ケセルトンの耳に囁く声が聞こえた。
──素直でない義父様が行くなといってらっしゃるのよ。母様、傍に居て差し上げて。そして私をもう一度生んで。父様との間ではなく義父様との間に。きっと、それが幸せよ……──
「シャーリー?」
ケセルトンが呼んだ。
幼い娘が見えた。黒髪に黒い瞳の、五歳くらいの女の子。
そういえば。
レントの民の言い伝えを思い出す。
ネストが死んだ夜を思い出す。
死んだ日から日付をまたぐ真夜中、死んだ人間と生きている人間の両方が心から逢いたいと願った時にだけ、ほんの数分、言葉を交わせると。
──私が見える? 母様、お願い。私を生んでね、きっとよ!!──
「シャーリー、痛かっただろう? 苦しかっただろう? すまない、すまない」
「ケセルトン!? どうし……」
ケセルトンが唐突にシャーリーへの懺悔を始めたのを聞き、アーケイディスは顔を彼女の方から顔を上げた。
罪の意識に心が囚われたのかと案じたアーケイディスもまた、その娘と出会う事になる。
「そなた、……シャーリーか? そうなのか?」
アーケイディスは何の疑いもなく目の前の少女がシャーリーだと信じた。
黒い髪に黒い瞳、だが、その顔立ちはケセルトンに瓜二つで。
──泣かないで。母様が泣かれても私は母様の涙を拭って差し上げられないのだから。義父様、お願い、母様の涙を止めて差し上げて下さい──
「シャーリー……」
──また逢えるわ、母様。愛しています。大好き、大好き、大好き、大す──
「シャーリー!! 待って、待って!!」
「逝くな! シャーリー!」
ケセルトンとアーケイディスは同時に叫ぶ、同時にシャーリーの名を呼ぶ。
けれど、シャーリーの姿はあっさりと、春の陽光のような光に飲まれて、消えた。
「御覧じられたか? アーケイディス。私の子を、御覧じられたか? あの可愛い娘が望んだ言葉を、貴方もお聞きになられたか?」
「ああ、聞いた。聞いたとも、ケセルトン」
二人とも、未だ視線はシャーリーが光に飲まれて消えた方角に縫い留められている。
「では、私が聞き間違えていないか、教えてくれ。あの子は、もう一回生んでと私に言った。貴方との間に生んでと!!」
「間違いない。余との間に。それがきっと幸せだと」
「私の罪は、許されるのだろうか? 教えて欲しい、アーケイディス。私の罪は、シャーリーをこの手にかけた罪は、きっと神様でも許せないと思うのに」
「だが、シャーリーはそなたに会いにきてくれたのであろう?」
アーケイディスはネストが死んだときにケセルトンから教わったレントの民の言い伝えを思い出す。
「言い伝えでは、お互いが会いたいと心から願わねば会う事は叶わぬのではなかったのだろう?」
銀の髪を振り乱しながらケセルトンは首肯した。
「シャーリーはそなたに会いたいと心の底から望んだという事だろう。それはつまり、シャーリーが、他ならぬあの赤子が、そなたを許しているという事ではないか?」
「シャーリー、が?」
それは新しい思い付きだった。
「もし、シャーリーが許してくれるなら……!! 私はもう一度シャーリーを生みなおしたい! 今度こそ最初から最後まで私が育てたい! 貴方との間に子供が欲しい!! もし、もしシャーリーが許してくれるなら……!!」
「許してくれる、きっとな。そなたに向けて笑顔を見せた可愛い赤子の顔が忘れられぬ。先程見えた幼子の愛らしさも心に沁みついている。余が父となれるのなら……それはどれ程の幸せだろう」
アーケイディスは、短くなってしまったケセルトンの銀髪に指を通し口づけた。
ぽろぽろと泣く女と、涙を必死にこらえる男。
二人はただ抱き合って夜を過ごした。
ケセルトンは母として胸を痛めていた。
アーケイディスはケセルトンを愛するが故に胸を痛めていた。
胸が痛くて痛くて締め付けられるようで、泣きながら、二人は口づけあい抱き合って眠った。
傷口を舐めあうように。
それしか出来ずにただ抱き合った。
◆◆◆
『シャーリー、お別れはいえたかい?』
『はい、ネストの大伯母様』
『一時の別れ、またすぐに出会えるよ。それまで天上で待つしかないね』
『私は絶対また母様の子に生まれるわ、決めているの。神様にもお願いしたわ』
『風読みとして言わせてもらうのなら、シャーリー、お前は沢山の弟妹に恵まれる事になるだろうね』
『嬉しい。一人より沢山いたほうがきっと幸せよ。ネストの大伯母様も、母様の子供になるの?』
『私はまた風読みとして生まれて、あの子の役に立つよ。あの子は私のたった一人の妹が遺したたった一人の姪だからね。愛するレストの娘、ケセルトン。私はあの子の風読みになる。じゃあ、シャーリー、私は先に行くからね』
◆◆◆
船に乗って、アーケイディスは凱旋してきた。
流行の新婚旅行がしたいといって、川から海に出、ぐるり回ってから久方ぶりにたどり着いたシニアリードの王城で、ソニアからの礼を受けてアーケイディスは跪いてソニアの手の甲に口づけて見せた。
誰かに跪く事のなかったアーケイディスが自分の親以外に跪いたのはこのときが最初で最後。
「よくぞ城を守ってくれた。礼を言う」
ソニアは微笑んで、初めて会ったときのようにアーケイディスを抱きしめた。
翌日、彼女は城から旅立ち、一ヵ月後に病死の発表が出されることになる。
国境近くにあるティリール尼僧院で、尼僧として慎ましく暮らし、齢五十で大司祭の地位にまで上り詰めたリチェルが、かつての王妃ソニアに似ていると噂されたが、噂は噂にしか過ぎない。
たとえ、ソニアと同じく紫水晶の瞳をしていても。
たとえそれぞれの運命に従い動いていく小鳥達が休息に訪れ、王が花束を持って逢いに来る事があっても噂は、噂だ。
アーケイディスの他の妻達の事に触れておく事を忘れてはいけない。
サーディシエントの領地を守る事に生涯を費やしたミスティリカとはマジェーンは、その一生においてアーケイディス以外の男を受け入れる事を良しとしなかった。
二人の口癖は
「アーケイディス様くらい賢くてお馬鹿さんな男以外興味ないわ」
である。
男は少し位馬鹿な方が良いが馬鹿すぎても困る。
ミスティリカにとってもマジェーンにとっても、アーケイディスは愛するに足る賢いお馬鹿さんであったのだ。
やがて、その領地は公国として独立する事になる。アーケイディアと公国が名づけられたのは、女太公として立ったミスティリカの、自分は最後までアーケイディスの妻であったと言う彼女なりの主張であったのかもしれない。
マジェーンは、ミスティリカの片腕として、政治を学び、土木治水を学び、税の種類を学び、法を学んだ。幾ら覚えてもきりが無いくらいの量を自ら学び、死ぬまで勉学に身を捧げ、そして最期の瞬間まで歌を愛した。
エンディアはサーディシエントの将軍バーレイアと恋に落ち、バーレイアはエンディアを下賜される事となる。
王の妾妃は内親王と同じ地位にある。そのエンディアを妻に迎え入れられる事を誇りに思い、バーレイアは不器用ながらも素朴な愛情をエンディアに精一杯捧げ、二人は沢山の子に恵まれた。
ただ、夫婦喧嘩を始めるとなるとバーレイアは妻の見事な短剣捌きに死を覚悟しなくてはならなくなる事を知ったのだが、それはまた別のお話。
ティーローゼはフェリシニアに帰ってきた。別にサーディシエントの領地が気に食わないだとか他の貴族が気に食わないとかではなかった。
彼女は異国で肺を病んだのだ。長くない命を思った時、死ぬのなら故郷でと思ったまでである。
そんなティーローゼには小さく、しかし美しい素朴な領地が与えられ、最期を偶然見舞いに訪れたアーケイディスの腕の中で迎えた。短い生涯ではあったが、彼女は幸せな人生だったと自分では思っていたようである。
そしてケセルトンであるが、彼女はアーケイディスとの間に沢山の子を成した。
一人目の子供は王女。なんと名を付けようかなどと二人は一切悩むことをせずその娘には『シャーリー』という名が与えられた。
次に生まれたのは王子、その次も王子、その次は何と双子の王女。その後にまた王女が続き、最後の子は王子であった。ケセルトンは計七人の子供の母親となる。
アーケイディスもかつてのように沢山の妻達を侍らせる事なく、ケセルトン一人を愛した。
楽園と呼ばれていた後宮は、王子王女の遊び場になり、夫婦の部屋として他の誰かの気配のしない部屋がそのすぐ隣に増築され、アーケイディスとケセルトンは仲睦まじく生きる事になる。
喧嘩の種は一つしかなかった。
「貴方は子供を甘やかし過ぎる」
「いや、言わせてもらうならそなたこそ、甘やかしが過ぎるのではないか?」
こんな喧嘩をしょっちゅう行う二人だがこの喧嘩は大概五分で片が付いた。お互い笑い出してしまい喧嘩を続けるのが困難になる為だ。
二人の名誉の為に付け加えるのならば子供達は全力で愛情を注がれたが甘やかしが過ぎるという事はなく、叱らなければならないところではちゃんと叱り、厳しい姿も見せながら、子供達の努力を認め、子供が健全に育つのに必要な量だけ甘やかすこともした。
ケセルトンもアーケイディスも親からまともな育てられ方をしていない分子育てには不安がつき纏ったが、シャーリーより一年半早く生まれ七歳の頃から風読みとして城に預けられた娘が、風の言葉として二人が子育てに迷った時には的確な言葉を与えた。
風読みの娘はやがてケセルトンを看取るまで傍近く仕え、その後シャーリーに忠誠を誓う事になる。
ケセルトンとアーケイディスのお互いの愛し方、生き方。
最後の瞬間も手を握っていられたらと願い、懸命に一日一日を大切に生きるという事。その日々に感謝していくと言う事。
悔いの無い人生というものがあるのならば、恐らくは二人のような信念での生き方をする人生なのではないだろうか。
二人の物語はこれだけではないが、ここに書き加えるのは蛇足というものであろう。
ケセルトンとアーケイディスが毎年、真珠月の朔日にはサーディシエントを訪れ、桃色の大理石で出来た小さな墓石に額ずくその意味は、クルセニア女王と、アーケイディスの小鳥達のみが知る事であった。
二人が天寿を全うしてからはクルセニア女王が、そしてクルセニア女王が薨去してからはその子供達が、その墓石を『サーディシエントの守り神』として何代にも渡って祀る事となる。
シャーリーがいなければ、フェリシニアは全く遠慮せずにサーディシエントに攻め込み、戦争の火は本格的に燃え上がった事であろう。アリステアが目茶苦茶にしたサーディシエントはただただ蹂躙され、そして懸命に生きる民草の生活を破壊したであろう。
シャーリーがいたからこそ、アーケイディスは流す血を最小限にするために行動した。
それ故にシャーリーの事を『守り神』とクルセニア女王は呼んだのだが、その事は一切の記録に残っていない。
後の世に、吟遊詩人たちによって語られるは、魔女に魅入られた狂気の女王から人々を解放する黒竜王の伝承のみである。
───完───
完結致しました。
読者様方、最後までお付き合い下さり有難うございます。
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