第13話
なぜ王弟殿下がここに?という驚きで固まってしまったエルゼリンデだったが、すぐに我に返ると深く一礼する。アスタールはその蒼い双眸になぜか驚きを湛え、ソファから立ち上がるとエルゼリンデの目の前まで歩み寄ってきた。そしてひとこと。
「……デカくなってる」
「……は?」
王弟殿下の呟きに愕然とした要素が含まれているのを感じ、エルゼリンデは思わず顔を上げて眉根を寄せた。
「エルーは成長期だからな」
ルスティアーナは満面の笑みを浮かべている。アスタールの反応に満足したようだ。一方の王弟殿下は憮然とした表情で半年前までは小柄だったはずの少女を見下ろす。
「こんなにデカくなってるなんて聞いてないぞ。もうちょっと縮んでもいいんじゃないか?」
「アスタール殿、背は伸びるものであって縮むものではないのでは?」
「縮んでほしい、切実に」
殿下は無茶な願いを口にしつつ嘆息する。
「まさか成長して歎かれることがあるとは。私のときは父上と兄上にどこまでも大きくなってほしいと言われたものだが」
ルスティアーナは理解不能と言わんばかりに首を傾げながらも、唖然として立ち竦んでいたエルゼリンデにソファを勧め、壁際に控える使用人にお茶の準備を指示する。
「待て、ルティ。成長したことを歎いているわけではないぞ。背が伸びすぎじゃないかと思っただけだ。語弊のある言い方はするな」
ローテーブルを挟んだ向かいのソファにルスティアーナと並んで座りながら、アスタールが細かい部分を訂正してくる。
「背は高いほうが良いと思うのだが。エルーはどう思う?」
「えっ!?」
ルスティアーナは王弟殿下の弁明に釈然としない面持ちで返すと、すっかり傍観者と化していた当事者に話を振ってきた。
「えーと……そ、そうですね。背が低かったときよりは今のほうが便利なことが多いですね」
「そうだろう。それなのに縮めとは、アスタール殿はわかっていないな」
縮めと言われて縮むものではないが。エルゼリンデはそう思ったが口に出さず、給仕されたお茶を勧められるまま口に含む。ルスティアーナも同じようにお茶を一口飲むと、何やら思いついたような顔をした。
「ふむ、もしかしてこれも男性心理というものか?また兄上に教えを請いに行かねば」
「待て、ルティ。ラファにこの話をするな」
「それは兄上でなく別の人のほうが適任、ということだろうか?」
「……そうだな、俺が次の酒の席で教えてやろう」
仲が良いんだなあ、と騎士団長二人の会話を聞きながらそんな感想を懐く。それにしても、とエルゼリンデは顔は上げたまま視線だけを高級そうなティーカップに落とした。
王弟殿下もヴィーラス将軍も、どちらも非常に輝かしく、きらびやかで、存在感のある美貌の持ち主なのだ。二人並ぶさまはまるで宮殿に掲げられた絵画のようで――つまり、視界の圧が強い。これを真正面、しかも至近距離から受けるこちらの身にもなってほしい。そろそろ本気で目が潰れそうな気分にすらなってきている。
「はっ、こんな雑談をしている場合ではなかった」
ルスティアーナは軽くかぶりを振ると、どことなく得意げな表情を作って向かいで目をしぱしぱさせている少女を見つめた。
「ちなみに、騎士団に入ればアスタール殿とこのような雑談がいつでもできる」
「は、はあ……」
対するエルゼリンデは意図が分からず生返事を返す。ルスティアーナは露骨に「あれっ」という表情になった。
「ええと、そう、雑談だけでなく毎日顔を見ることも可能だ!」
「毎日はちょっと……お、恐れ多いですかね……」
アスタール殿下の顔を毎日見てたら胸焼けしそうだと思ったが、さすがに不敬なので言語化は避ける。ルスティアーナは今度は形の良い眉を思い切り顰めた。そして隣に座る殿下の顔にさっと目を向ける。
「……ルティ、さっきも言ったが俺は特典にならないぞ」
「な、なんと」
若干渋い顔をする殿下の言葉に若草色の目が見開かれる。特典?とエルゼリンデは内心で首を傾げた。
「ルイーゼ殿とダリア殿には殿下特典が有効だったのだが……仕方ない」
いまいち話の流れが把握できてないエルゼリンデに、ルスティアーナは真面目な表情で向き合った。
「エルー、雇用条件には目を通してくれただろうか」
その問いにエルゼリンデは肯いた。
「は、はい、もったいないくらいに良い条件だと思います」
給金の面はもちろん、週の休みは安息日とその前日の2日間に加え任意の1日の計3日間取れるし、騎士団に必要な物品以外に生活必需品も支給してくれるという。王宮にある騎士団寮に住むことが条件になるが、使用人もいるし生活面で困ることもない。
「それなら良かった。では、この書類にサインをお願いしたい」
ローテーブルに置かれていた一枚の紙をひっくり返す。そこに書かれていた文字にエルゼリンデは目を落とし、次いでその目を瞠った。
「にゅ、入団誓約書ですか……!?」
「入団したくなる条件だっただろう、こういうのは勢いで決めてしまっても良いのではないだろうか」
ルスティアーナがペンを差し出してくるのを流されるまま受け取ってしまったが、なんとか首を横に振って意思表示を試みる。まさかこの場で決断を迫られることになるとは。
「そ、その、もう少し考える時間がほしいのですが……家族にもよく考えて決めるように言われてますし……」
「エルー、私には君が必要なんだ」
真剣――というより切羽詰まった眼差しで美貌の女将軍にずいっと迫られ、首を仰け反らせてしまう。こんな雲の上にいる人に必要だと言われて嬉しい気持ちはあるが、それと入団をここで決めるのは別の話である。
「そう言っていただけてありがたいですが、今ここで決めるのは……」
エルゼリンデはもう一度かぶりを振った。
「大丈夫だ、何があっても私が君を守ると誓おう」
はたから見るとプロポーズみたいだな、とアスタールが面白がって横槍を入れてくる。そんな王弟殿下をルスティアーナはきりっとした双眸で見やった。
「アスタール殿も何とか言ってくれ。特典以外にも勧誘文句はないのだろうか?」
「そうだな……」
話を振られてアスタールは困惑しきりのエルゼリンデを一瞥する。
「エルー、騎士団では毎日美味い飯が食えるぞ」
「美味しいご飯……」
ちょっとだけ気持ちがぐらつく。すかさず殿下が追撃してくる。
「特に肉料理が美味い」
「おにく……」
さらに気持ちがぐらつきかけるも、はっと我に返って首を振る。ご飯につられてサインしてしまいました、と言ったら家族に呆れられてしまう。
「……や、やっぱりもう少し考えさせてほしいです……」
「くっ、手強い……!なんなら、毎日君の好きなデザートを用意するのもやぶさかではないぞ」
食べ物で釣れると思ったのか、ルスティアーナまでそんなことを言ってくる。
「お願いだ、どうしても君に入団してほしいんだ」
第7騎士団長かつヴィーラス侯爵家の令嬢にものすごく必死に頼み込まれ、エルゼリンデは大いに混乱してしまった。自分より遥か上の身分の方々にここまでされると、承諾しない自分が悪いような気がしてくる。この勢いで訴えかけられ続けたら、うっかりサインしてしまいそうだ。
どどどど、どうしよう。
途方に暮れかけたそのときだった。にわかに廊下が騒がしくなったのは。
「――おおおおお待ちください閣下!」
「――も、もも申し訳ありません、閣下だけはこの部屋にお通しになるなという命令でして――」
「ひぃぃ、すみませんすみませんどうかお許しを!!」
部屋の外に控えている衛兵たちの悲鳴に近い叫び声がここまでうっすら聞こえてくる。それを耳にしてさっと顔色を変えたのはルスティアーナだった。傍に控える従者に扉の鍵がしっかり閉められていることを確認させると、隣のアスタールに体ごと向き直る。
「あああアスタール殿、足止めしていたはずでは?は、早すぎないか!?」
その美しい顔は青ざめており、声も震えている。
「足止めはしていたぞ。叔父上とヴィクトルに会議をゆっくり進行するよう頼んでおく程度には」
すっかり怯えた様子のヴィーラス将軍にただならぬ雰囲気を感じ取り、エルゼリンデは更に混乱を極めていた。いったい何がどうなっているというのか。
ルスティアーナが青い顔のまま勢いよくエルゼリンデのほうに向き直った。
「エルー、ま、ま、ま、魔王が」
「ま、魔王?」
この場に似つかわしくない単語が出てきて目を白黒させる。
「魔王が来てしまう前に……頼む、どうかサインをしてくれないだろうか!あと一人、あと一人なんだ……!」
あと一人という言葉が引っかかったが、その疑問を口にするより早く聞こえてきたのは王弟殿下の意外なほど冷静な声だった。
「ルティ、諦めろ。時間切れだ」
アスタールが肩を竦めるのとほぼ同時に、重たい扉が開く音が響いた。
「……あれっ、鍵は!?」
とてもあっさり扉が開いてしまったことに動揺したのか、ルスティアーナが素っ頓狂な声を上げる。扉近くの壁沿いには、お茶を給仕してくれた使用人たちが澄ました表情で佇んでいる。
エルゼリンデは驚きに目を円くしたまま、扉のほうを見やった。その藍色の双眸に、ゆっくりと部屋に入ってくる人影が映る。
「随分と早いお出ましだな、マウリッツ」
アスタール殿下の言葉で、その人影がローゼンヴェルト侯爵――この場では将軍と呼ぶべきか――であることを認識する。
一切の温度を感じさせない表情で室内に踏み入れたローゼンヴェルト将軍は、殿下の声には応えずエルゼリンデの座るソファへと歩み寄り、その傍らで片膝をついた。
「……申し訳ありません」
急に現れた三人目の将軍から唐突に真摯な謝罪を受けてしまい、まじまじとその顔を凝視してしまう。彼は言葉の通り申し訳なさそうに眉を顰め、こう続けた。
「よもや黒翼と緑翼の両団長が、このような拉致監禁、脅迫行為を行うとは……これも偏に私の監督不足の致すところ。ご不快な思いをさせてしまい何とお詫びしたらよいか……」
「ちょっと待て。ただの歓談を勝手に犯罪行為に変換するな」
「そそそそそうだぞマウリッツ殿。わ、わわ我々は歓談していただけだ。す、少しばかり早く入団してほしいなという気持ちが溢れてしまったかもしれないが」
嫌疑を受けた二人の団長が反論してくるが、ローゼンヴェルト将軍はまるで聞こえていないかのようにその声を黙殺した。
「イゼリア嬢、誓約書にサインされましたか?」
そう問いかけられて、エルゼリンデはかぶりを振った。さっきから驚きすぎて言葉が出てこない状態なのだ。
「では、今のあなたにサインする意思はありますか?」
重ねて質問され、エルゼリンデは同じ動作を繰り返した。
「……その、もう少し考える時間がほしいです……」
どうにか絞り出すように答えを返すと、ローゼンヴェルトは物柔らかな笑みを浮かべた。いつものマウリッツさんだ。僅かばかりほっとするエルゼリンデの手から、まだ握られたままだったペンがそっと抜かれる。彼はそれをローテーブルに置くと立ち上がった。
「あなたの身柄は軍務庁で預かりますので、取り急ぎここを出ましょうか」
白皙の手が差し出される。エルゼリンデはその手と向かいに座るルスティアーナを交互に見比べた。ルスティアーナは捨てられた子犬のような顔をしている。ちなみにアスタール殿下はなぜかニヤニヤしている。ルスティアーナの顔を見ていると気の毒な気持ちが胸に湧き上がってくるが、この場に留まっていても良いことはなさそうだ。
短時間の逡巡の末、エルゼリンデはローゼンヴェルトの手を取り、ソファから立ち上がる。そのまま長身の将軍にエスコートされて扉の方に向うと、いつの間にか見慣れない騎士が生真面目な表情で立っていた。
「グレーシェル」
「はっ」
ローゼンヴェルトの呼びかけにその騎士が生真面目な声で応答する。
「もうすぐここにポーレ法務官が来られる。それまでお二人をここから出さないように」
「かしこまりました」
グレーシェルと呼ばれた騎士は肯くと、恭しい所作で扉を開けた。
「ポーレ法務官!?マウリッツ殿、そんなご無体な……!」
ルスティアーナの悲痛な叫びに見送られながら、エルゼリンデは促されるまま部屋の外に出たのだった――いまだに何がなんだかわからないままではあったけれども。