5
その夜、ローズはアランとともに人里離れた湖の畔にいた。
さすがにカナハトンから鉄道に乗るような真似はできず、徒歩での旅だ。明日には足を見つけたいとアランが苦々しげに言っていた。
ローズは飲み水を汲み終えると、太腿までスカートを捲り上げて、足を湖の中に浸した。むくんで肉刺だらけになった足に、ひんやりとした水の感触が心地よい。
ちょっと冷えるが、アランさえいなければ水浴びしたいくらいだ。
アランは、向こうの方で寝床を整えている。食事の後始末も終えて、後はもう寝るだけだ。
(帝都に送り届けてもらった、その後――)
今朝のアランからの問いに対して、考える時間は半日近くあった。だというのに、ローズはいまだに自分の中で答えが出せていない。
(ちがうわ。考えることから、逃げていた)
リオのこと、アランのこと、自分のこと、クルレア村のこと、魔術のこと、タオのこと、メティオラのこと。ローズの頭の中だけではとても処理しきれない、洪水じみた思考の波に流されるのが、そして流された先にどこに行きつくのか、答えを得てしまうことが怖くて仕方なかった。
(だめよ、ローズ・イーストン。逃げて、泣いて、憎んでいるだけじゃ、なんにも目の前の事態は変わらないって、これまで腐るくらいに学んだはず)
向こうで、アランが立ち上がった気配がした。ローズがびくりと震えたのを認めたはずなのに、彼は頓着しないで歩いてくる。
アランは、ローズと初めて会った日の夜と同じように人一人分の距離を開けて、地面にどっかりと腰を下ろした。
ローズはそちらの方を向こうとして、身体が硬直してしまったのを自覚した。思えば、二人きりという状況は初めてだ。
すう、と息を吸う。吐く。
宝石箱をひっくり返したみたいに無数の星が惜しげもなく散らされた空は、石炭都市モルクフォードで見る夜空よりずっと鮮明で、肌がひりつくような感覚を覚える。
夜半の湖水を映したアランの瞳は暗色に染まり、かすかに揺らめいていた。
「あのね、ごめんなさい。まだ答えが出てないっていうか、……考えることから逃げていたの。だから、たぶん聞きづらいと思うけれど、今、思っていることをぜんぶ話すわ。聞いてくれる?」
「……本当に、馬鹿正直なお嬢さんだな」
「え?」
「いいや? どうぞ?」
アランに促され、ローズは頷いた。
「軍が来る前、村の人たちに正体がバレたの。そのとき、リオはわたしを庇うために魔術を使ったわ。でも、それを……リオのことを、化け物って言っちゃった。そのときのリオの顔が忘れられないの」
アラン以外のすべてを憎んで、けれど憎み切れずにはじめて見る夕焼けに目を輝かせていた。せっかく、リオがこの世界に未練が出てきたと口にした矢先のことだった。
あんな、なにかを諦めたような顔を、ローズがさせた。
「リオは馬鹿じゃない。メティオラ人の前で魔術を行使したらどういう反応が返ってくるかくらい、分かっていたさ」
「わたしは、あんたの慰めが欲しいわけじゃ――」
「お嬢さん。リオは、分かっていて、それでもあんたを助けたいと思ったんだ。あの誰これかまわず噛みつくリオが、だ」
ローズは口を噤む。
罪深い、と思った。
(わたしはなんて、罪深い)
「……あんたたちの言うとおり、村にも寄らなければリオは捕まらなかったかもしれない。ううん、わたしがあんなことを言って、リオを一人にしたりしなければ――」
「リオを休ませなければ、違う意味で危険があった。それにクルレア行きは俺が同意した。あいつのことは、俺が助け出すさ」
「リオは、どこに連れて行かれたの? そもそも、どこで暮らしていたの?」
「……《原石》の塔だ」
「まさか。帝都の中枢に? しかもあそこは帝国の機械科学の最先端の研究所よ? そんなところになんで魔術師が――しかも古王国崩壊後に出生した魔術師が生活してるっていうのよ」
アランは危うい、刃物じみた笑みを見せた。
しかしすぐにその表情をやわらげて、ローズを真っ直ぐに見下ろす。
「――お嬢さん、恋人はいるか?」
ローズの思考回路は、十秒ほどの間停止した。
「はえあ!?」
「べつに、恋人じゃなくてもいい。全身全霊をかけて、あらゆる手段を講じて、お嬢さんを守ってくれるような、そんな人間はいるか?」
「いるわけないでしょ。この赤毛を見ただけで、皆、魔女のレッテルを貼って終了よ。……そ、そりゃあ、ちょっと気になる人くらいはいるけど……」
ブラッドは雲の上の王子様で、とてもじゃないがローズのためだけの恋人になってくれるような存在ではない。
「ていうか、さっきの話とぜんぜん関係ないじゃない! 馬鹿にしてるの!?」
ぶち切れたローズは、勢いに任せてアランにつめ寄る。身体が触れ合うほどに近づいたところで、アランの指が髪に触れた。
ぴしりと石像のように動きを止めたローズのことなんて意に介さず、アランは感触を確かめるように何度も何度も赤毛を梳く。親指で頬骨を辿り、耳たぶを食むように挟む。
背筋に、ぞくりとした震えが走った。
《原石》動力を相手にしたときのような、嫌な感覚ではない。むしろ甘い。甘い、痺れだ。ローズには恋人なんていたことがなかったからよく分からないけれど、それはまるで――いとしむ、みたいな仕草だった。
「おそらくもう、お嬢さんも運命の渦中に引き込まれつつある。このままなにも知らずに帝国で生きていてくれればと思ったが――」
アランはローズにはとうてい理解の及ばないことを口走り、ローズの肩を掴んだ。
「よく聞け。俺は、お嬢さんの本当の名前を知っている」
「は? 本当の――?」
「……ロザリア・プリマヴェーラ・ゴルドン」
春に閃く稲光のように、アランの声が轟いた。
「タオ王朝最後の王の末子にして、タオの王族唯一の生き残り。春を冠する第五王女、ロザリア殿下。俺は――私は、あなたを生涯守り、その膨大な力を制御するために在る一の王杖だった」
ローズは絶句した。
妄想にもほどがある。そういえばリオもアランを一の王杖ホスキンズ家がどうのこうのと言っていた。アランはあまりに主人である第五王女を慕うあまり、赤毛で緑の瞳を持っているローズと記憶を混同させてしまったのかもしれない。
「な、に……なに勝手なこと抜かしてるのよ!? わたしはれっきとしたメティオラ人なんだから! 魔力なんてないし、それはちゃんと検査も受けて保証済みなのよ? 言いがかりはやめて」
「タオの崩壊とともに、私は二の王杖と協力して、あなたの魔力を封じた。腹部に黒い文様があるな? あなたは痣だと言っていたが、それは封印の証だ。封紋という。あなたの内包する膨大な魔力を、その封紋がかろうじて抑えている。それまでは半信半疑だったが、封紋を見てあなたがロザリア殿下だと確信した」
「ちがう!」
「《原石》動力が作用するたびに封紋の辺りが疼いているはずだ。《原石》は、タオ民族に対する侮辱そのもの。本能が拒絶と怒りを呼び覚まし、力を解放しようとする。あなたが内包する力は、おそらく私の力などはるかにしのぐ。だから、封紋から溢れでた力が、《原石》動力を破壊してしまった」
「ちがう! わたしは、わたしは魔女なんかじゃない!! やめてよ。勝手なことを言うのはやめて!! わたしはあんな、恐ろしい力なんて持ってない!! あんたたちなんかと一緒にしないで!!!!」
ローズは思いきりアランを突き飛ばそうとした。だが、渾身の力を込めたはずなのに、アランの身体はびくともしない。
ローズは顔をくしゃくしゃにして、アランを睨みつける。
アランの端正な顔は、涙で滲んでいた。
「殿下。七歳の俺はあなたをメティオラ人として生きさせるために、孤児院の前にあなたを棄てた。あなたが抱える運命はあまりに強大で、抗ったところで嘲笑われるだけだ。でも、力そのものを封じれば、あなたは徒人として生きていくことができる。俺は……お嬢さんに徒人として生きてほしい。今でも、いや、あんたのことを知った今だからこそ、余計にそう思う」
「……なにが、言いたいの?」
「ゴルドンの春の力は、男神エレの呪いによって生み出された、女神ユギトの系譜を継ぐ力だ。エレは――その末裔は、ユギトに執着している。必ず、春をその身に宿すお嬢さんの力を解放させ、お嬢さんを手に入れようとするはずだ」
話が神話時代まで飛んで、ローズは顔を顰めた。
「エレの末裔だけじゃない。タオの連中もだ。王女が生きていると知れば、タオ復興のために利用しようする輩が出てくる。あるいはもう、誰かしら動き出しているかもしれない」
「……あんたは、そうしないわけ?」
「もう、嫌というほど血を見てきた。お嬢さんを借りだせば、春を呼び覚ますことになる。神話時代から続く、呪いも解放される。そんなのは、願い下げなんでな」
苦々しげに言って、アランはローズの頬を濡らす涙を拭った。
「このままなにも告げないままでいられれば良かったが、狙われる以上は自衛ができなければ、狼の群れに投げ込まれた羊と同じだ」
「だから、わたしのことを守ってくれる人がいるかって聞いたのね」
「信じる気になってくれたかな?」
「…………認めるつもりはないわ。あんたの妄想でないとは言い切れないもの。でも……、記憶にはとどめておく」
ローズはそう言って、膝のあたりのスカートを握りしめた。
「またひどいことを言って、ごめんなさい」
――あんたたちなんかと一緒にしないで。
それがまぎれもないローズの本心だ。けれどもそんな自分にどこか、罪悪感も芽生えている。
なんだかここのところ、自分の心が自分のものではないみたいだ。ねじれて、よじれて、息が苦しい。
「そんな一朝一夕に変わるものでもないだろう。あんたはメティオラ人として育って、これからもそうやって生きていく。なんらおかしな反応じゃないさ」
皺になったスカートに、ローズはますます強く爪を立てる。
アランがもっと、悪魔の種を持つ者らしい人間だったら良かった。彼が、脅して痛めつけてローズの心を踏み躙るような、授業で習ったタオ人そのものだったなら。
でも、現実はちがう。これ以上、斜にかまえてアランを見ることなんてできない。
それはたぶん、ローズを赤毛緑目という記号でしか見ない人々と、なんら変わらない行為だ。――たとえ、ローズが真実、ゴルドン王朝の末裔なんだとしても。
舌が上顎に貼りつく。加減を間違って空気を吸いすぎたかと思うと、押し殺して吐き出した息が震えた。弱気な心が顔を出して、ローズはほんの少し、俯いてしまう。
「アラン」
たった三音。その三音がひどく遠くて、すぐそばの本人にさえ届いたかどうか分からない。
きゅっと唇を結んで目線を上げれば、冬を写しとったみたいな静かで烈しい瞳が束の間大きく見開かれた。
「……リオを助けるまでは、一緒にいさせて。そうしたら、わたしも帝国側に戻るわ」
「後ろ盾のあては?」
「お願いすれば、力を貸してくれそうな人くらいはいるわ。あとは、どうにかして逃げ切ってみせる」
アランは頷き、ローズの髪に指を絡めた。そっと、髪にキスを落とす。伏せた長い睫毛は、アランの頬に濃い影を落としていた。
「王杖の血は厄介だな。どうにも、手放しがたい」
苦笑して、アランはローズの瞳を覗きこんだ。
その瞳はなぜか、どこか怯えたような色合いに染まっている。
わけが分からなくて、目でアランにその意味を問いただそうとしたのに、彼はすぐに立ち上がった。
「……おやすみ、お嬢さん」
アランは囁いて、ローズの頭をくしゃりとかき撫でて歩き出した。
その後ろ姿に一抹の寂しさを覚えて、ローズはそんな自分の心を否定するように首を振る。
「おやすみなさい」
ほとんど口内でその言葉を呟き、ローズは重い腰を上げた。
上手く交通機関を拾えなかったら、ガルディオンまであと数日は歩き通しだろう。早く休まなければと思うのに、思えば思うほど目が冴えて仕方なかった。




