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顔を上げ、気配を消して外と自分を隔絶するよう本を立てて置いた。けれど、それは形だけで、実際に文字を読んでいるわけではない。しかし、こうしていると背景の中に溶け込んだようになるのか、誰も話しかけてこないし、挨拶の声もない。それは普段通りの日常であり、当然あるべき状態であると思った。
けれど、夏は学校に来ると側に来て「おはよう」と声を掛ける。仕方なく彼を一瞥し、会釈をしてまた本に目を移した。しばらく何も言わずに夏は傍に立っていたが、飽きたのだろうか、気づくと自分の席に座って前の男子と談笑している姿が見えた。
こうして目立たないようにしていれば、異臭の原因をそう簡単に気付かれないだろう。服の袖に鼻を押し付けると、やはり何度洗っても落ちない悪臭がしていた。
その日は問題なく過ぎた。身体に痛みはなく、朝シャワーを浴びてから学校に来たので、普段よりも幾分か匂いがマシになっている気がしていた。昼の練習は班ごとではなく、クラス全体の合唱練習になっていたので、声が小さくとも目立たず、息を吐き出さずに済むので安堵していた。
授業の最後は国語の時間で、最も苦手なものだった。けれど、その日音読はなく、先週書かせた作文に対する先生の意見のまとめの時間だった。自分で声を出さずに済むので安堵した。
先生が紙を一枚一枚めくり、それぞれの意見についての感想を言っている。その捲り方は大雑把で、きっと一番前に座っている人には、誰が書いているのか見えているのではないかと思えて仕方がなかった。だが、それだけの配慮をこの先生が行うはずがない。配慮があるのなら、テストの返却時、舌で指を舐めてからゆっくりと後ろと前の生徒に点数が確認される速度で渡すことをしないだろう。一人、点数が低かった生徒が、後ろの生徒にバカにされていたことがあったが、先生はそれを咎めもせずに無視し、自分の指を舐めていた人なのである。
顔を上げると、ふと、先生と目があった。合わせるつもりはなかったので、眼をそらすと、先生が次の作文を眺め、肩を竦めていた。
「名前は言わないが、授業に対して反論するのは、大いに結構、勇気のある行為だが、この作文は漢字の間違いがいくつか気になったな」
先生の声の含みが、耳に残った。
「今回のテーマは、主人公がこのときどんな気持ちだったか、貴方の感想を書きなさいというものでした。けど、この作文は始めから解く気がないのか、『主人公でないからわかりません』それから、『作者でないからわかりません』というものから始まって、一向に感想になっていない。それから、えっと・・・」
先生が紙を持ち上げ、黒板にチョークを走らせた。
「未来という字が、末来になっている。あと、この漢字は他の人も間違えている人がいたな。それから、」
先生が指摘するたびに、その場から消えてしまいたくなった。別に、先生の批判を書いた覚えはない。自分の感想を書けと言われたから、そのまま、思ったことを書いただけなのだ。主人公と同じ立場にいるわけではなく、主人公の様に友達がいるわけでもない。そもそも主人公でないから、そのとき彼がどのような気持ちであったかなんて分からない。教科書に全文が載っているわけでも無しに、主人公の気持ちについて、文章には書かれていない。もし主人公の気持ちが本当に分かる人がいるとしたら、それは文章を書いた人以外にあり得ない。その作者がどう言った人物で、どんな意図を元に文章を書いたのかどうか等、他人に分かる筈も無い。そのまま、思ったことを書いただけで、けれど、先生にはそれでは駄目だったようである。先生は他にも字が汚いと、作文を目に近づけながら全体に向かって言った。臭い以外も自分は人より劣り、汚いのだと指摘されて、恥ずかしさと申し訳なさに、俯き唇を噛みしめた。
やはり、頭が悪い、出来の悪い子どもなのだから、どんなことになっても、何かを言う資格すらない。何かを言い返すほど、皆のように出来の良い、腐ってない正常な人間ではないのだ。先生もこんな生徒を持ってしまって、迷惑していることだろう。
心臓が、ろっ骨からはみ出て、皮膚のすぐ下にあるような圧迫感が身体を締め付けていた。こんなにも、心臓がこの中に存在していると感じた事はない。けれど走った後のように脈が速いわけではなく、大きいがゆっくりと波打っている。肥大してしまったのか、肺を圧迫して、呼吸するのが苦しくなった。いっそのこと、心臓なんて止まってしまえ、そうすれば、これ以上誰にも嫌な思いをさせずに済むだろう。
漢字の間違いの指摘が終わると、ようやく先生は作文を捲り、また批評を始めた。どんな感想でも先生はいいと言っていたはずが、「ふざけて書いている人も何人かいましたね。大喜びだったでしょうね、とかいうものもありました。これは、文章の前後を読めばおよそ推測できるものだと思い、簡単な問題で・・・」と繰り返し言っていた。他の人は、自分の感想が読まれてどう思うのだろうかと周囲を見回したが、退屈そうに髪をいじっていたり、隣の人と話をしていたりする人がちらほら居て、まったく気にしていないように思えた。それはそうだろう、彼らは誤った生徒ではないから、気にする必要はまったくないのだ。
やはり、異物なのだ。けれど、申し訳ないと思っても、学校から離れることはできない。
作文の先生による指摘が終わると、ようやく教科書のつぎの単元についての説明が始まった。先生は、「漢字を間違えないように、しっかり教科書を読みなさい」と強めて言った。恥ずかしさに、顔を二度と上げられないような気がした。息が苦しいけれど、深呼吸して他に細菌をばらまきたくはないので、薄く途切れるような呼吸を繰り返すしかなかった。
授業がようやく終わり、帰りのホームルームの前に掃除の時間になった。先生が宿題を出したようだったが、チャイムの音に書き消えてよく聞こえなかった。けれど、いつも新しい単元に出てくる漢字をノートに書いてくることが宿題だったし、あれだけ漢字について指摘していたのだから、まず間違いない。引きだしに教科書とノートをしまい、机とイスを後ろに下げて自分の掃除場所へ向かった。二階の男子トイレが担当で、青い液体を便器にまいてからそれを擦って綺麗にするのが仕事だった。皆は連れだってトイレに行くこともあるが、排尿の時間帯まで同じリズムなのだろうか。聞いたことがないので、やはりよく分からない。
毎日毎日掃除している所為か、便器は公園の公衆トイレに比べれば白く綺麗な状態を保っているように思った。同じトイレの担当の男子は、床に水を流してブラシで擦っていた。最初に箒で掃いてから水を流すように先生に言われていたが、最初から水で流してしまえば同じことなので、誰も言った通りにしない。むしろ、まだ彼らのように掃除をするだけましな方だった。
全ての便器を洗い流し、掃除道具を用具入れの中にしまうと、担当の先生が掃除の時間が終わったと顔を覗かせた。他の男子の後に続き外に出て、全員が並んで揃い、掃除もしていない先生に向かって「ありがとうございました」と言って頭を下げ、各自解散し教室に戻って行った。同じようにクラスに戻り、また俯いて座った。
未だに、心臓に圧迫されているように感じる。どうして、ダメだとはっきり言ってくれないのだろう。言わない方優しさがあると言うことか、けれど、先生が妙に優しい声を出そうと気を付けながら指摘することが、真綿で首を絞められているように苦しかった。
放課後、家庭科部に行かなければならない。けれど、今は誰にも会いたくないし、近くに人を近寄らせたくもない。合唱練習に参加することも嫌だった。かといって、やはり家に早く帰る予定もない。
夏の姿はすでに教室に無く、部活に連れて行かれたのだろう。そうなら、資料室には誰もいないことになる。あそこなら、誰にも邪魔されず、一人になることができると思った。
明日、家庭科部の女子に怒られるだろうか、けれど、何もかもどうでも良いことのような気がした。誰にも気付かれないように廊下を歩き、階段を昇って資料室の扉を開けた。予想道理そこには誰の姿も無く、三脚のパイプイスが壁際に並べて置いてあった。その内の一つを広げて窓際に置き、膝を抱えて座った。ここから見える外の世界は、前の校舎に邪魔をされて空しか見えなかった。手前に中庭が見えるが、校舎の暗い影に挟まれてソテツが生えていることしかわからなかった。
下の階にある音楽室から、吹奏楽の音が聞こえた。聞いたことのある曲で、最近街でよく流れている流行歌だったはずである。普段クラシックの聞いたことのない曲ばかりを流していたので、誰も聞かずに眠っていたが、今回は皆が一応聞く気になるのではないだろうか。
「ひらり、ひらり、」
思わず口は曲に合わせて歌っていた。しまったと思ったけれど、この部屋には誰もいないし、この三階まで来る人はいない。
部屋は埃の匂いに充満しているので、腐った匂いを緩和しているように思えた。自分の部屋であったなら、匂いに侵食されていくというのに、一人でここに居るとその汚れた匂いが抜けて行くようだった。第一、誰にも迷惑をかけずに済むというのが良い。
自分の口から出た細菌は、この部屋だけに溜まって、外には出て行かない。世界が自分一人であったなら、何も気にしないで生きていけるのだろうか。
曲の歌詞はあやふやで、夏のように自分の言葉を勝手に歌った。歌うことが出来ないと思っていたけれど、予想に反して、声は部屋の中に溢れて、空気の中に消えていった。声が一つ一つ消えて行くたびに、気持ちが少しは和らぐような錯覚を感じた。
だれも、触れてはいけない。
腐った緑色の塊だから。
触れてはいけない、触れてはいけない。
もし、すべて消えたら、また生まれるだろうか。
生まれないまま、終わりになるだろうか。
生まれなければ、生まれなければ、生んではいけなかったのに、
下から聞こえていた吹奏楽の音が消えた。おそらく、小休憩しているのだろう。眼を閉じ、ようやく落ち着いてきた心臓のある胸に触れた。意識とは正反対に、身体はひっしに生かそうとしている。結局、心は身体に勝つことなど出来ないのだ。身体がなければ心は存在しない。いや、それ以前に心なんて本当にあったのだろうか。
ふと、すすり泣く声が聞こえた。部屋の中には誰もいない、いるとしたら外なのだろう。いったい誰が泣いているのか気になり、音をたてないように椅子から立ち上がって少しだけ戸を開けた。正面には誰も居ないようであるが、すすり泣く声がすぐ傍で聞こえた。ドアを開けて頭を外に出すと、ドアの隣で顔を埋めている少年を見つけた。薄い茶色の髪が、西日でオレンジ色に光って見えた。
「・・・夏、」
声をかけると、夏は目を擦りながらこちらを向いた。どうして夏がここに居るのか、何故泣いているのかよくわからなかった。また、夏に泣くことがあるなんて思いもしなかった。だから、戸惑い、その顔を見つめたまま、「夏、」ともう一度呼びかけた。
「ごめん・・・何でもないよ」
けれど、夏の頬は涙の跡が残っていた。このままでは帰りにくいだろうと思い、ハンカチを渡した。夏は少し戸惑うようであったけれど、ハンカチを受け取って申し訳なさそうに顔を拭いた。
慰めの言葉など、知らない。他人が泣いている状態と対峙することはなかった。そうなる前に、人を避けて生きてきた。
どうすればいいのか分からず、ただ黙って隣に座った。匂いが届いてしまうかもしれないけれど、きっと、鼻水で匂いなど分からないだろうと自分に言い聞かせた。
静かな時間だった。聞こえるのは、隣の夏の息遣いだけで、それだけだからこそ、何も言うことは出来ずに隣に座っていることしか出来ない。もしかしたら、夏は一人でこの資料室に泣きに来たかったのだろうか、だとしたら、酷い迷惑を掛けている。いや、きっとそうなのだ。ここに居る方が、夏には迷惑なことだろう。
下から吹奏楽の練習する音がまた聞こえてきた。それを合図に、立ち上がりそのまま帰ろうとした。
「待って、」
夏の手が、制服の裾を引いた。驚き、夏は「ごめん」と言ってまた手を離した。
立ちあがった身体は、手が離れたと言うのにその場から動こうとしない。きっと、夏の声には何か力があるのだろう。そうでなければ、どうして動くことが出来ないのか、説明が出来ない。
「・・・きみは、」夏が呼ぶので、彼に目を向けた。「どうしてきみは、ぼくが嫌いなの?」
予想外の質問に、返答することが出来なかった。どうして突然そんなことを言うのか、夏の真意がわからない。けれど、夏の声は冗談を言っているようには思えず、喉を詰まらせて少し彼から離れ、また床に座った。
「嫌いなんて、思ったことはない」
「なら、どうしてぼくを避けるの?」
夏は人に嫌われたことがないのだろうか。ああ、きっとそうだろう。彼は人当たりの良い人間だから、他人の方から彼に寄ってくるに違いない。それなのに夏から離れるように行動をしていたから、彼にはそれが理解できずにいるのだろうか。けして、夏が嫌いなわけではない、ただ、夏から離れた方がいいと思っているだけだ。
「・・・夏が、汚れるから」
ふっと、夏が顔を上げた。眼を丸く開き、驚いた顔をしている。
「どうして?」
理由なんて、言いたくなかった。自分の汚さを再確認するようで、酷く、苦しい。けれど、言わなければ夏が納得しないように思った。でも、言ったら、夏は二度と礼儀としても挨拶をしてくれない気がする。違う、そうではない、夏は二度と近づいてはダメなのだ。夏まで、腐ってしまうまえに、教えた方が良いのだ。
「腐っているから」
身体の芯から、外側に向かって、悪臭を漂わせている。けれど、夏はそのことが分かっていない。見ないようにしているから、分からないのだ、きっと。
「酷い臭いがしてるんだ。ずっと、何度身体を洗っても、この臭いが染み付いて離れない。身体のどこも正常なところはない、こうして呼吸をするだけで、汚れた細菌が溢れて、」
夏の手が、すっと汚い手を掴んできた。先ほどの言葉が伝わらなかったのだろうか、熱を帯びた右手は、振りほどこうとしても離れない。夏が汚れる、汚い塊の所為で、夏まで腐ってしまう。
「どうして、そんなことを言うの?」
どうして、それが真実だから、それを言っただけなのだ。
家は腐っている。初めからではなく、この醜い身体が生まれたから腐り出したのだ。自分の所為で、何もかもが醜く歪んでしまった。それを言えば、夏はこの手を離すだろうか。指をさし、汚れた醜い人間だと嫌悪し避けるだろうか。
「きみが、臭かったことなんてないよ」
「汚いんだ」
「一体どこが汚いのさ。どこも汚くなんかないのに」
夏は知らないから、そう言うのだ。これほど汚いのを知らないから、そんな目で見ることが出来るのだ。
「今も、ずっと腐った臭いがしている」
本当に酷い匂いがする。排水溝に鼻をつきつけた時に感じた、あの吐き気をもよおす臭いだ。口から息が吐き出されるたびに、夏の体まで汚染されているのに、どうして、夏には見えないのだろう。
突然、夏が手を引き、自分の鼻に近づけた。酷い悪臭がするから止めればいいのに、試してみなければわからないのだろう。一日に何度石鹸で手を洗っても、すぐに戻ってしまうこの腐臭に、さすがの夏も気づいてしまう。
「わからないよ。ぼくには、きみのどこが臭いのか、わからないよ」
「・・・鼻が詰まっている所為だ」
言いながら、手を引いた。今度は夏も手を離し、また、泣きそうな顔で見てきた。どうしてそんな顔をするのだろう、夏は離れていることが一番正しいことなのだと気づかないのだろうか。
「臭くなんかないよ。いつだって、臭いときなんかなかった。ぼくはきみが汚いと思ったことが一度もないのに」
本当に、夏には匂いが分からないのだろうか。けれど、だからと言って、夏の傍にいて良いことなんて何もない。けれど、夏にそんな顔をして欲しくなかった。
「・・・きっと、夏にだけは、臭いが分からないんだ」
そんなことがある筈がない。けれど、口に出すと、心が落ち着いた。自分の都合のよい解釈をしているのに、すべてを投げ出して、それで構わないよう感じていた。
「うん。ぼくには、分からないよ」
夏がぎこちなく笑った。それにつられて、同じような顔を彼に見せた。
彼が拒絶しないのなら、甘えてしまおう。彼の声が聞けただけで、心が落ち着くのだから。夏が遠ざけない理由は、同情か憐憫か分からない。でも、そんな感情でも構わない。
「夏まで腐るよ」
最後の忠告として声を掛けたが、夏は「きみは最初から腐って無いよ」と笑って返した。だからもう、それきり、腐臭を夏に説明することを止めた。いつか、夏は後悔するかもしれない、けど、それは明日明後日のことではない筈だ。
それまで、夏が腐るのが先か、汚さに気づくのが先か、その時に考えればよい。
チャイムの音が校舎に響いていた。帰らなければならない、立ち上がって部屋に置いていたカバンを掴み、夏の傍に立った。不思議そうな顔で、夏が見上げている。
「・・・帰る?」
声をかけると、夏はまた眼を丸くし、「うん、一緒に帰ろう」と言って立ち上がった。そして、同じような歩調で並んで歩いた。何を言うわけでもない、第一、先ほどまで声を出せていた方が不思議なくらい、喉はからからに乾き切っていた。
誰かと一緒に歩くとき、歩調をどうすれば良いのか分からなくなる。兄の場合は小走りにならなければならないし、姉の手伝いの時にはゆっくりとけれど突然早くなることもあり不規則だ。けれど、夏は同じ速さで歩いていた。普段の歩く速度と同じで、遅くも早くも無い。
まだ、クラスメイトは練習をしている者がいるのだろうか。家庭科部の女子は、来なかったことに憤慨しているのだろうか。けれど、全てどうでも良いことだった。明日になって、女子の文句を黙って耐えていれば良いだけだ。
夏はもう泣いていない。頬の涙の跡もハンカチで拭われて、先ほどまで泣いていた痕跡はのこっていなかった。
隣を見ていると、夏は照れたように笑った。それを見て、肩を竦めて空を見ていた。夕日がだいぶ陰ってきている。もう、冬が来ているのだろうか。冷たくなった風に身体を縮ませ、隣から聞こえる鼻歌に、罪悪感を少し忘れた。