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空腹と痛みに、目を覚ました。時計の針はいつも道理の時間を示し、格別な変化を与えてはいない。
せめて、制服を脱いでから眠るべきだった。服にしわが寄って、ひどく不格好に思えた。布を引っ張り伸ばしてみると、心なしか、しわが薄くなったように思えた。服に鼻を近づけたが、家の匂いがこびり付いて居るままなので、違いがよく分からなかった。
昨日揃え損ねた教科書をカバンに詰め込み、シャツと下着の替えを掴んで部屋を出た。すると、珍しく兄も朝に用事があったのか、階段を下りるときに目があってしまった。
「おはよ」
一切の関心がない眼は、宙を見て、再び階段に視線を落とした。吐き捨てるように、しかし、丁寧な言い回しで、「おはようございます」と小さく返した。右手に抱えた下着を隠すように階段、廊下を駆け抜け、洗濯機の中に投げ入れた。すぐに洗面台に向い、さっと石鹸で顔と腕、頭を洗い流し、タオルとドライヤーで乾かした。不精に伸ばした髪が仇となり、すぐには乾きそうもなく、僅かに湿り気の残る頭のままリビングに向かった。
父は食卓で新聞を読み、母は台所に立ってゴミを片付けている。テーブルの上にはフレンチトーストが置かれていたが、いつもより腐った卵の匂いを感じた。けれど、父も母もそのことに気づいていないようで、二人はすでに朝食を終えていた。
「おはようございます」
二人に向い挨拶をすると、父は何も言わず、母はひきつった顔で「おはよう」と返した。それは、台本に書かれた演劇を飽きるほど繰り返したような、この家における規則だった。
始業の時間まではずいぶん余裕があったが、フレンチトーストを四口で食べ終え、食器を洗い水切りの上に置くと、脇目もふらずにリビングを出た。階段を登る途中、下から水の流れる音がしていたので、兄が今、洗面所を使っているのだとわかった。
部屋に戻り、揃えたカバンと一昨日から用意していた体操服の入った袋を持ち、また部屋を降りて玄関へ向かった。足に合わない大きめの靴を履き、靴紐を縛ってドアの前に立った。
「行ってきます」
肺から毒素を吐き出すように、声を吐いてこの家から出て行った。
外は秋晴れ、肌寒さに身を震わせながら学校に向かう。早朝練習のある生徒が、ちらほら横を走って通り過ぎて行く。途中で、「はよ」と自転車に乗った少年に声をかけられたが、クラスメイトだったのかどうか思い出せず、相手に見えないだろうが走り去った彼に会釈し、また足以外を動かさずに学校への道を見据えた。
家と学校の間、この通学路が唯一の外の世界である。ここには、家族以外に、同学年のものもいれば、年上、年下、老人、大人、幼子、多種多様な人間が溢れている。けれど、同じ空間にいるだけで、ガラスの壁でもあるのか、触れあうことも出来ず、定められた道をただ歩くだけだった。
学校につき教室に入ってみたが、この時間なので誰もいない。朝早く学校に来たところで用事があるわけもなく、自分の席に着くとすぐ机に突っ伏した。いつもなら翌日には引いていた痛みが、未だに鈍く身体に纏わりついて離れない。頭の中で時間割を思い出し、今日は運悪く体育があることに気づいた。それを思い出すと、胃の動きが鈍くなって、生臭い匂いが胸の奥まで湧き上がってきた。少しでも体調を整えるために、目を閉じ腕を耳に押し付け少し眠ることにした。
しかし、睡眠は充足していたのだから、眼を閉じているだけで眠ることはできない。時間の流れは遅く、身体の痛みは治まらない。家ならば、引き出しの奥に溜めた痛み止めで誤魔化すことが出来るというのに、学校に来て痛みだすと何の対応も出来ない。
「ねぇ、」
透明な声は、塞いだ耳からも脳に浸透していった。声の主は確認せずとも分かる。顔を上げると、夏が傍に立っていた。昨日風呂に入れなかったのだから、きっと臭いだろうに、夏はどうして傍に来れるのだろう。それに、嫌われたのではなかっただろうか。
「どうしたの、具合が悪いの?」
朝から何も飲んでいない口は、カラカラに乾いていた。夏が心配しているというのに、何も返すことが出来ない。ただ、首を振って彼から目を逸らした。
「そっか、なら、よかった」
夏の声は心地良い。麻薬の作用でもあるのか、痛みが少しだけ和らいだ気がした。
「何だ何だ、おい」
ニヤニヤと笑いながら、同じ合唱の班のよくちょっかいをかけていた男子が、夏の肩を台にするように顎をのせ、見下ろしていた。
「どうした、ケーキの悪そうな顔して」
台にされている夏は、苦笑した顔で男子を横目で見ている。きっと、彼らは友人同士なのだろう、だから気兼ねなく身体に触れることが出来る。
「あれか、生理か!」
からかう声、何にかの反応を示す前に、教室に入ってきた気の強そうな女子が、彼の頭を小気味の良い音で平手打ちした。思わず、夏と同じように肩を竦めた。
「痛てーな、何すんだ蘭。この暴力女!」
「お黙りなさい、デリカシー皆無男!」
夏のことなど忘れて、二人は互いに罵り合いを始めた。からかわれたのは対象のことなど、二人はもうどうでも良いようだった。夏は苦笑したまま、そっと二人から離れ、また隣に落ち着いた。
「蘭さんも正義も、仕様がないね」
女子の名前が蘭で、男子の方が正義という名前がわかった。そして、同時に、夏が呼び捨てにするほど、正義と夏が仲の良いということもわかった。どうしてこんなにも遣る瀬無い気持ちになるのか、先ほどのからかいが原因なのだと思うことにした。
「ねぇ、」夏が呼びかけるので、すぐに彼の方に視線を向けた。「どうして、きみは、そんなには声を出さないようにしてるの?」
丸く大きな夏の眼は、何も映さないほど暗い色をして視線を向けていた。その眼に応えようと思うが、口を開けるたびに喉の奥が渇き気道を塞ぐ。夏にはそれが伝わっているのか、いや、伝わらなくとも善人であるから、急いて答えを促さないのだろう。
「こえ、」
一言、音を出すたび、教室が汚染される気がした。今日は特に、誰よりも汚く、内部まで腐っているのだ。口を抑え、俯いた。それを具合が悪いと受け取ったのだろう、夏は大丈夫かと心配するだけで、それきり尋ねはしなかった。正義と蘭は横の方で騒いでおり、夏はそれを宥めるために離れていった。
夏に気を取られていたが、ほとんどのクラスメイトはもう教室に集まっていた。何を話しているのか、騒音の塊となっているのでよく分からない。テレビの様にそれらを眺めているとチャイムが鳴った。少し遅れて先生が皆に座るように言いながら入ってきた。そのまま朝のホームルームが始まったが、先生の声だけの教室は妙に静かで、自然と痛みに意識が集中し、全身の倦怠感に顔を伏せた。
「おい、」
先生に突然名を呼ばれ、慌てて顔を上げると他の生徒も同じようにこっちを見ていた。先生にこの匂いを気づかれて、耐えられないと思ったのだろうか。何を言われるかと息を潜めて待っていると、単純に「眠るな」とだけ言い、また同じ話に戻った。ならば話を聞こうと思うが、文化祭についての諸注意であり、先日配ったプリントの再確認でしかなかったので、必死に聞く必要はないと思ったけれど、もう一度指摘され、同じように注目されることを恐れて、苦しさを耐え身体を支えた。
ようやく朝のホームルームが終わる頃には、休憩時間の半分以上を奪われており、きりが良いからと一言は担任の担当だったので、そのまま数学の授業が始まった。いや、どうせ休憩時間があったとしても、痛みに苦しむだけだから、無くなったところで大差ないだろう。他の生徒は非難の眼を向けていたが、先生は代わりに終了時間を早くすることを告げて、因数分解の式を書き出した。
無理やり頭を使ってみるが、意識が散漫して集中できない。それでも必死になって解いていると、胃液の逆流を感じ両手で口を押さえた。鼻で深呼吸をし、吐き気を押さえ呼吸を整えた。心臓が驚いたのか、異常な速さで脈打っている。もはや授業など頭に入らない、ひたすらに時間の経過を待ち続け、ままならない思考で、数字を一から十まで何度も繰り返し数えた。額に汗が浮かび上がり、数滴頬から首筋へと流れていった。
耐えて数学をやり過ごしたが、運の悪いことに二時間目に体育が入っていた。更衣室が狭いので、先生から教室で着替えるように言われている。窓はカーテンを閉じればよいが、廊下側にはカーテンがなく、いくらすりガラス製であっても、その近くで着替えたくはない。子どもなのだから、そのようなことは気にしないと先生は思っているが、なるべく人に身体を見られないよう、教室の隅、カーテンの傍で着替えを済ませた。衣替えのおかげで、体操服も空気に触れる面が少ないのは有難かった。
「あのさ、大丈夫なの?」
後ろから夏の声が聞こえ、ぎょっとして振り返った。着替えているのだから、夏に分かる筈はない。彼から少し身を引いて離れ、慌てて頷いた。やはり、酷い臭いがして、異臭がするから、何かあったのではないだろうかと夏が近づいてしまうのだろう。
「おい、さっさと行こうぜ!」
着替えの終わった正義と知らない男子が夏を呼んだ。はやく夏が行かないものかと待っていると、彼は肩を叩き「一緒に行こう」と笑いかけてきた。否定する言葉も無く、夏が先を促すので戸惑いながら彼の隣に並んだ。正義たちはすでに教室の外に出ており、待っているということはないようだった。
「今日もサッカーだよね」
夏の傍には今、自分以外はいない。それに、眼を見て話しかけている。会話をしようとしているのだ、けれど、声を出すたびに細菌を撒き散らしてしまう。だから、声を出さずに頷きを返した。
「ぼくは運動音痴だから、ちょっと体育は苦手だな」
困ったように眉を垂らすので、何か声をかけなければならない気がした。
「・・・う、ん」
夏は驚いた顔をし、それから嬉しそうに笑った。自分と同じ意見だったことが嬉しかったのだろう、しかし、運動が苦手なことは、普段の体育の様子を見ればわかるものだとも思った。
グランドに出ると、準備体操の前にトラックを走る他の生徒の姿が映った。毎回毎回、先生は全員が三周走るまで体育を始めないので、嫌でも走らなければならない。夏は先に走って行ってしまった。一緒に走ろうと思うが、下腹の痛みに足が遅くなる。先に走っていた正義が、「遅い!」と言いながら頭を叩いて走り抜けた。迷惑をかけることがないように、奥歯を噛みしめ身体を前かがみにし、倒れないように足を速めた。
結局一番最後になってしまったが、まだ授業開始のベルも鳴っていないので、とりあえず誰にも迷惑を掛けずに済んだ。グランドからは体育館が正面に見え、暗い窓に明かりが灯っている様子が窺えた。
チャイムが鳴ると、先生の号令で体育委員が前に出て準備体操が始まった。しかし、準備体操をするのなら、走る前に行うべきではないのだろうか。誰も疑問に思わないので、そんなことを考える方がおかしいのだろう。
前屈は良かったが、背伸びをすると強烈な痛みに襲われた。今度からは、学生鞄にも痛み止めを用意しておいた方が良いと思った。
サッカーはもうチーム分けが終わっているので、ポジションの再確認の後、すぐに試合が始まった。せめて野球であったなら、攻撃の間に気を抜いていられるが、サッカーではいつボールが来るのか分からないので、常に気を張っていなければならない。
ボールになるべく触れることがないように、フィールドの端に立って試合を眺めていた。試合は運動の出来る者たちで回っているのだから、精々邪魔にならないようにするだけだ。
ただ立っているだけだと言うのに、身体が疼いた。運動が苦手だと言いつつ、夏は他の生徒と同じようにフィールドを駆け回っている。夏の他の人よりも僅かに色が薄く、黒よりも茶に近い髪は、白日の下では一層色素が薄く見えた。
「久連!」
突然名前を呼ばれ、動かないことに文句を言われたのかと顔を向けると、すぐ目の前にボールがあり、避ける間もなく顔に直撃した。失神するかと思ったが、人間というのは案外丈夫なもので、頭からグランドに叩きつけられただけだった。
「おいおい、大丈夫か?」
声を掛けてきたのは、一番近くに居たメガネをかけた男子だった。名前を覚えていないが、クラスメイトの中で唯一メガネを常に掛けている男子だったので、皆がメガネと呼んでいたので、今さら名を覚える必要もない。
「うわ、鼻血が出てる!」
鼻を拭いその手を見ると、確かに血が付いていた。顔面からぶつかったのだから仕方がないだろう。どうも止まりそうもなく、このままでは体操服に血がついてしまいそうなので、鼻を両手で覆って立ち上がった。先生が駆け寄り、「ああ、これは保健室に行った方がいいな」と言って、保健委員を探していたが、その袖を引き、首を横に振って校舎に向かった。グランドから離れると、また試合が再開され、夏の姿が見えなくなった。
保健室というのは滅多と使わない。居場所がないと喚く素行の悪い生徒が陣取っているので、他の生徒は行きにくいものだった。騒ぎ立てるので、具合が悪くてもおちおち眠ることも出来やしない。そんなに嫌だと言うのなら、学校自体に来なければ良いだけだが、もしかしたら、彼らはそれなりに学校が好きなのだろうか。それとも、家に居られない理由があるのだろうか。
保健室に入ると、女子が何人か保健の先生を囲って、ベッドの上に座っていた。こうなる理由は、先生が追い払わずに受け入れる寛大さも原因にあるのだろう。
「あら、君はどうしたの?」
声を出したくなかったので、状況を伝えるために片手を離して先生に見せた。すると、女子たちはクスクス笑って顔を眺めてきた。それを穏やかな声で先生は静め、椅子に座るように指示し、ティッシュを渡して何か記録を書き始めた。
「えっと、君は・・・」
女子たちが興味津々にベッドから眺めてきた。それがひどく不愉快だったので、肺の細菌が彼女たちを覆っても構わない気になった。
「・・・二年の久連です。体育の授業で、ボールが顔に当たりました」
上ずった声は、久しぶりに自らの意思で出した所為なのだろう。また、女子がクスクスと笑った。
「しばらくはティッシュで押さえていてね」
「はい」
女子の一過性の興味は逸れ、先生もまた話しに戻る気はないらしく、ごそごそと薬品箱の中に手を突っ込んでいる。何をしているのか、先生でないので分からない。
「あの、」
声をかけると、先生は「何?」とすぐに顔を向けてきた。その行動が速かったので、少し戸惑ってしまったが、息をのみ込んで先生に目を向けた。
「痛み止め、貰えないでしょうか」
「そんなに鼻が痛いの?」
言葉に詰まりかけたが、腹の痛みを取り除きたかったので「はい」と応えた。先生は鼻を見ながら、「ひどい傷じゃないけど、」と渋るので、「痛いです」と返答した。
もう一押しで痛み止めを手に入れる所であったが、興味を削がれていたはずの女子が「男のくせに、それくらい我慢しなさいよ」とからかってきた。彼女たちには状況がわからないので、鼻の痛みだけを言っている。確かに、他人であったなら、この程度で痛み止めを欲するのは、薬物中毒か何かではないかと疑ってしまう。
「・・・本当に、痛いんです」
先生の顔を見ず、俯いて再度告げたが、先生は鼻をもう一度見て、「この程度ならすぐに痛みがひく」と取り合わなくなった。直接的に女子のせいではないだろうが、おかげで痛み止めを手に入れられなくなった。例え再三要求したところで、無下にされるだけだろう。なら、諦めるだけだ。
十五分ほど鼻を押さえていると、鼻血は止まった。ここに居ても痛みが治まるわけではない、先生も授業に戻るように促すので、一応礼儀として礼を述べた。感情のこもっていない感謝に意味はないものだと思うが、相手にこちらの心情を図れるほどの親密さもないので気づかれることもない。
グランドに戻ると、一人が抜けても変わらず試合は進められていた。今さら戻るのも面倒だったので、グランドの隅に座った。最初は気紛れになるだろうかと試合を眺めていたが、結果的に何の足しにもならないので、膝の間に顔を埋めて息を潜めた。
腹が痛いといえば良かったのだろうか。けれど、原因を聞かれても何も言えない。自業自得、これは、罰なのだ。だから、耐えなければならない。
「平気?」
コートの端に、夏が立っていた。顔を上げるのも億劫だったが、しかし、無下にするわけにもいかない。
夏の体操服は土に汚れ、もう寒いというのに額には汗が浮かんでいた。自然に「大丈夫」と声を出した。
「そう?」夏は気にかけているようだったが、ボールが守備に戻って来たので、またグランドに走って行った。
その姿を目で追っているうちに、痛み止めを飲んだ後のように、痛いと言う感覚を忘れていた。夏の声には、神経を麻痺させる作用でもあるのだろうか。けれど、それも一時的なことで、痛みが消えたと意識し始めると、再び痛みが蘇った。
結局一時間目と同じ具合に耐え続け、授業は終わった。今日はあと四時間も授業が残っている。また、昼休憩、放課後もあるのだ。それを考えるだけで、更に痛みが増すように思った。
先ほどと同じように、誰にも見られないように部屋の隅で着替え、腹を押さえながら席につき、少しでもマシになるだろうかと顔を伏せた。わずかでも動いたことが良かったのか、それとも、先生がただ教科書を読むだけの国語、歴史の授業の連続だった所為か、眼を閉じていると一時間まるまる眠ることが出来た。眼を覚ますと、僅かに痛みが引いたように錯覚したが、やはりしくしくと疼くことに変わりはなかった。
給食の時間になり、給食当番以外の生徒は廊下で配膳の準備を待っていた。邪魔にならないように廊下に出て、いつもの定位置、渡り廊下の隅の柱に腰かけて時間が過ぎるのを待った。
腹をさすると、僅かに熱を帯びていることに気づいた。しかし、この程度のことはいつものことなので、明日になれば熱もひくことだろう。
「ねぇ、」下から夏が座り込んで顔を覗きこんできた。どうすればいいのか分からず、ただ夏の顔を見つめ返した。「やっぱり、具合が悪いんだね。保健室に行く?」
首を横に振った。夏は戸惑うような顔をしたが、保健室に行った所で意味が無いのだから仕方がない。
「お腹を押さえているけど、何か食べ物にでもあたったの?」
どう説明をすればいいのか分からず、首を横に振り、「打ち身」と事実を端的に述べた。原因が判明したのが嬉しいのか、夏はようやく笑みを見せて立ち上がった。
「それなら、ぼく、痛み止めを貰ってくるよ」
貰えないだろうと伝えようとしたが、それより先に夏が立ち上がって走って行ってしまった。
無理だろうと思いながら、夏が戻ってくるのを待つように顔を上げていた。隣のクラスの配膳は終わったらしく、生徒たちはお腹が空いたと言いながら教室に入って行った。夏はまだなのかと首を伸ばして廊下を見ていると、少し小走りになりながら戻ってくる姿が見えた。
「お待たせ、」
彼が手を伸ばすので、自然に掌を広げて落とされる錠剤を受け止めた。どうして夏は貰うことが出来たのだろうか、やはり酷く汚く臭いから、先生に嫌悪されていたのだろうか。
「食後じゃないと駄目だよ、胃が荒れるからね」
「・・・あ、りがとう」
礼を言うと、夏は少し照れたように頭をかいた。
「それより給食が出来たみたいだよ、行こう」
夏は言いながら腕を掴み、引っ張って立たせた。夏は身体が細く、昔読んだ病弱な少女を思い描いていたが、掌は思うより大きく硬く、予想よりも強い力だとわかった。それでも、兄とは違い、乱暴な強さは一切無かった。
「今日はプリンが付いてるんだ。ぼく、楽しみだったんだよね」
給食の献立など興味がないので覚えていなかったが、適当に相槌を打って手を離した夏から少し離れた。どうしてそうしたのか自分でもよく分からないが、これ以上、汚してはいけない気がしていた。
夏から離れた方が良い。そうでなければ、彼まで腐ってしまう。このままでいい、このまま、誰にも知られず、迷惑をかけずに過ごすのが一番いいのだ。
教室につくと、なるべく気配を消し、いつものように沈黙して席に着いた。かきこむようにオカズを食べ終え、残った牛乳で錠剤を飲み下し、誰よりも先に給食を片づけて、練習からも逃げるように教室から出て行った。