攻略対象なんて必要ありません
アレクシス公爵の執務室を出てから、私は自分の部屋へ戻った。
扉を閉めた瞬間、肩から力が抜ける。
「……疲れた」
たった数十分話しただけなのに、まるで何時間も試験を受けていたような気分だった。
前世では、父親とこんなに格式ばった会話をしたことなど一度もない。
そもそも、貴族の令嬢として生きた経験なんてないのだから当然だ。
私は机の前に置かれた椅子に腰を下ろした。
窓から差し込む午後の日差しが、部屋の床に細長い光を作っている。
机の上には、学院の入学に必要な書類が整然と並べられていた。
その一番上には、王立セイレーン学院の紋章。
銀色の翼を持つ白鳥と、青い薔薇。
それを見た途端、前世の記憶が蘇ってきた。
「……懐かしい」
もちろん、本物を見るのは初めてだ。
それでも、知っている。
ゲームのタイトル画面。
オープニング。
そして、最初の舞台。
王立セイレーン学院。
私は椅子に深く座り直した。
「もう一度、整理しよう」
これから何が起こるのか。
それを把握しておかなければならない。
私は紙を一枚取り出し、ペンを握った。
最初に書いたのは――
アルベルト・レインハルト。
エルディア王国第一王子。
金色の髪と赤い瞳を持つ、この国でもっとも有名な攻略対象。
次に、
カイル・エヴァンス。
王国騎士団長の息子。
銀髪に青い瞳を持つ、真面目で寡黙な青年。
そして、
セドリック・ローゼン。
魔法学院でも有名な天才魔術師。
紫色の髪と琥珀色の瞳を持つ、少し気まぐれな性格。
最後に、
ノア・グランディス。
隣国との国境を守る侯爵家の嫡男。
黒髪と緑色の瞳。
普段は穏やかだが、戦闘になると別人のようになる。
「……いたわね」
思い出すだけでも、かなりの人数だ。
乙女ゲームなのだから当然といえば当然なのだが。
問題は、彼ら全員が私の破滅に関係していることだった。
私はペンを置いた。
「でも……」
ふと、考える。
ゲームの中のリヴィアは、彼らと関わっていた。
アルベルトの婚約者という立場を利用し、他の令嬢たちを牽制していた。
ヒロインのエヴリンが攻略対象と親しくなるたびに邪魔をした。
その結果、彼女の評判はどんどん悪くなっていった。
そして最後には――断罪。
「だったら、簡単じゃない」
私は紙に大きく書いた。
攻略対象には近づかない。
これだけだ。
彼らと関わらなければいい。
恋愛イベントに参加しなければいい。
ヒロインを邪魔しなければいい。
そうすれば、私が悪役になる理由はない。
「完璧」
思わず笑みがこぼれた。
これならいける。
私はゲームの中のリヴィアとは違う。
前世の記憶がある。
未来も知っている。
ならば、同じ結末になるはずがない。
私はさらに紙へ予定を書き始めた。
一つ。
アルベルト王子と必要以上に話さない。
二つ。
エヴリンを絶対にいじめない。
三つ。
攻略対象と二人きりにならない。
四つ。
恋愛イベントが起こりそうになったら逃げる。
「うん」
我ながら完璧な計画だ。
私は満足して椅子から立ち上がった。
そのときだった。
「お嬢様」
扉の向こうから声がした。
「入っていいかしら?」
「はい」
扉が開く。
先ほどの侍女が入ってきた。
彼女は両手で一通の封筒を持っていた。
「旦那様からです」
「お父様から?」
「はい。学院に関する書類と、それから……」
侍女が封筒を差し出す。
「こちらは王宮から届いたものです」
「王宮?」
嫌な予感がした。
封筒は純白で、表には王家の紋章が赤い蝋で封じられている。
私は恐る恐る受け取った。
そして封を切る。
中には一枚の手紙が入っていた。
短い文章。
けれど、その内容を読んだ瞬間、私は固まった。
『王立セイレーン学院への入学前に、王宮での歓迎茶会を開催する』
「…………」
さらに、その下には参加者の名前が書かれている。
王太子アルベルト。
騎士団長子息カイル。
宮廷魔術師の後継者セドリック。
そして――
「全員いるじゃない……」
私は頭を抱えた。
逃げるどころか。
入学前から攻略対象が勢揃いしている。
「お嬢様?」
「何でもないわ」
私はゆっくり顔を上げた。
「参加するわ」
「承知しました」
侍女が一礼して部屋を出ていく。
扉が閉まる。
静かになった部屋で、私はもう一度手紙を見た。
「……落ち着いて」
自分に言い聞かせる。
茶会に参加するだけ。
ゲームでも、これは存在したイベントだ。
確か――。
ヒロインのエヴリンが初めてアルベルトと会話するイベント。
そしてリヴィアがそれを見て、嫉妬する。
ゲームでは、その嫉妬が最初の悪役イベントへ繋がっていた。
「なら……」
私は拳を握った。
「私は嫉妬しない」
エヴリンとアルベルトが話していても、気にしない。
むしろ二人が仲良くなればいい。
そうすればゲーム通りの恋愛ルートに入ってくれる。
「私はただの観客」
そう。
観客になればいい。
誰かを好きになる必要なんてない。
誰かに選ばれる必要もない。
ましてや――。
「攻略対象なんて、私には必要ありません」
そう呟いた直後。
なぜか頭の中に、まだ見たことのない男性の姿が浮かんだ。
黒に近い青色の髪。
深い青色の瞳。
ゲームの登場人物一覧にはいなかった青年。
「……誰?」
自分でも分からない。
なぜ、そんな人物を想像したのか。
けれど私は、すぐに首を振った。
「……気のせいよ」
その人物の名前を、私はまだ知らない。
その男が、この世界で私の運命を最も大きく変えることになるとも知らなかった。




