待っていた少女
「あなたを、ずっと待っていた」
その言葉が、地下空間に静かに響いた。
リヴィアは動けなかった。
目の前にいる少女。
白い衣装に身を包み、巨大な魔法陣の中央に立っている。
長い髪は淡い銀色に近く、青白い光を受けているせいか、輪郭そのものが薄く見えた。
その瞳だけが、不自然なほど鮮明だった。
青い。
けれど、ルシアンの瞳とは違う。
もっと冷たく、深く、まるで何百年もの時間を閉じ込めたような色だった。
「……悪役令嬢?」
リヴィアは自分を指差す。
「私のことですか?」
「そう」
少女は頷いた。
「リヴィア・アーデント」
「……!」
名前まで知っている。
リヴィアの顔から血の気が引いた。
「どうして……」
少女は答えなかった。
ただ、リヴィアを見つめている。
その視線には敵意がない。
むしろ、長い間探し続けていた人をようやく見つけたような、安堵に近い感情が浮かんでいた。
それが逆に怖かった。
「リヴィア」
ルシアンが一歩前に出る。
彼はリヴィアを庇うように立ち、少女へ視線を向けた。
「君は何者だ?」
「……」
「なぜ彼女を知っている?」
少女はルシアンを見る。
その瞬間、表情がわずかに変化した。
「あなたは……」
少女の声が止まる。
そして、驚いたように目を見開いた。
「本当に存在している」
「……どういう意味だ?」
「いいえ」
少女は首を振った。
「あなたが存在していること自体が、答えなのかもしれない」
リヴィアはその言葉を聞き、胸の奥がざわつくのを感じた。
「待ってください」
思わず声を上げる。
「あなたは、私たちのことを知っているんですか?」
「知っている」
「どうして?」
「あなたがここへ来ることを知っていたから」
「……誰に聞いたんですか?」
「誰にも」
少女は静かに答えた。
「ずっと見ていたから」
「ずっと……?」
「あなたが目を覚ます前から」
リヴィアの心臓が跳ねた。
目を覚ます前。
その言葉が、何を意味しているのか。
リヴィアには一つしか思い浮かばなかった。
「……前世のことも?」
少女の瞳が揺れた。
「前世?」
今度は少女の方が聞き返した。
「あなたは……何を知っているの?」
「え?」
「前世という言葉を、あなたは知っているの?」
リヴィアは答えられなかった。
自分の秘密。
神谷紗月として生きていたこと。
事故に遭って死んだこと。
そして、この世界でリヴィアとして目を覚ましたこと。
それは誰にも話していない。
父にも。
エヴリンにも。
もちろん、ルシアンにも。
それなのに。
この少女は、何かを知っている。
「リヴィア」
ルシアンが静かに呼びかける。
「無理に答えなくていい」
「……殿下」
「君が話したくないことを、今ここで話す必要はない」
その言葉に、リヴィアの胸が少しだけ軽くなった。
しかし少女は、ルシアンを見つめていた。
「あなたは優しいのね」
「……?」
「でも、その優しさだけでは彼女を守れない」
ルシアンの表情が険しくなる。
「それはどういう意味だ?」
「この世界は、もう壊れ始めている」
少女が右手を上げる。
すると、巨大な魔法陣が淡く輝いた。
空中に無数の映像が浮かび上がる。
王都。
学院。
森。
ヴァロリア王国。
そして、見覚えのない巨大な塔。
映像は次々と切り替わっていった。
黒い円と銀色の線。
あの組織の紋章。
魔法陣。
魔獣。
そして、倒れている人々。
「これは……」
リヴィアの唇が震える。
「未来の可能性」
少女が答える。
「一つの未来ではない」
映像が消える。
「いくつもの未来」
再び別の映像が現れる。
今度は、炎に包まれた王都だった。
城壁が崩れ、空には巨大な魔法陣が浮かんでいる。
その中心に、一人の少女が立っていた。
――リヴィアだった。
「……私?」
自分自身の姿を見て、リヴィアは息を呑んだ。
映像の中のリヴィアは、今とは違う。
髪は乱れ、ドレスは破れ、頬には傷がある。
その手には、赤黒い光が集まっていた。
「こんなの……知らない」
「当然」
少女は言った。
「これは、あなたが知っている物語の未来ではない」
その言葉に、リヴィアは目を見開いた。
「……ゲームの未来ではない?」
「ゲーム?」
少女が首を傾げる。
「あなたは、その言葉を何度も使う」
リヴィアは黙った。
「でも、私は知らない」
「……」
「あなたが言う『ゲーム』というものが何なのか」
リヴィアの背筋に、冷たい感覚が走った。
つまり、この少女はゲームという概念を知らない。
ならば、彼女が語っている世界は――。
「現実……?」
「最初から、ここは現実」
少女は答えた。
「誰かが物語として描いたものではない」
その言葉は、リヴィアの胸に深く突き刺さった。
前世ではゲームだった。
そう思っていた。
攻略対象。
ヒロイン。
悪役令嬢。
イベント。
好感度。
バッドエンド。
全部、決められたものだと思っていた。
だから自分は、その運命から逃げようとしていた。
けれど。
もし最初から、ゲームなんて存在しなかったのなら。
自分が覚えている物語は、一体何だったのか。
「……じゃあ、私が前世で遊んでいたゲームは何だったんですか?」
少女はしばらく黙っていた。
「分からない」
「……分からない?」
「ただ、一つだけ分かっていることがある」
少女の視線が、再びリヴィアへ向く。
「あなたがこの世界に来たことによって、本来存在しなかった可能性が生まれた」
「私が……?」
「そして」
少女はルシアンを見る。
「彼が、この世界にいる」
ルシアンの眉が動く。
「俺が?」
「あなたは、この世界の歴史には存在する」
少女の声が少し震えた。
「王家の記録にも、ヴァロリアの歴史にも存在する」
「……」
「でも、別の世界に残された『物語』には存在しない」
リヴィアは息を呑んだ。
それは、まさに彼女がずっと疑問に思っていたことだった。
「なぜ……」
少女は目を閉じる。
「物語に描かれなかったから」
「それだけですか?」
「いいえ」
少女が首を振る。
「描かれなかったのではない」
静かな声だった。
「消されたの」
「……!」
ルシアンとリヴィアが同時に反応する。
「誰が?」
「それは、まだ分からない」
「分からないことばかりじゃないですか!」
リヴィアの声が思わず大きくなる。
少女は驚いたように目を瞬かせた。
「……ごめんなさい」
リヴィアはすぐに頭を下げる。
「少し混乱していて……」
「あなたらしい」
「え?」
「あなたは、昔からそうだった」
その一言で、リヴィアの表情が固まる。
「昔から?」
少女は答えなかった。
代わりに、魔法陣の中央へ視線を向ける。
「時間がない」
「何の時間ですか?」
「彼らが、ここを見つける前に」
少女の顔から初めて明確な焦りが浮かんだ。
「彼ら?」
ルシアンが尋ねる。
「あなたたちを追っている者たち」
リヴィアの脳裏に、黒い円と銀色の線が浮かぶ。
「……あの組織」
「そう」
「彼らは何をしようとしているんですか?」
「この学院の地下に眠っているものを手に入れようとしている」
「眠っているもの?」
少女は魔法陣の中心を指差した。
「ここにあるのは、ただの封印ではない」
青い光が強くなる。
「世界と世界を繋ぐための門」
リヴィアの呼吸が止まる。
「……世界と、世界を?」
「あなたがいた世界と、この世界」
その言葉を聞いた瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
前世の記憶。
スマートフォンの画面。
ゲームのタイトル。
『薔薇と運命の王冠』。
そして、最後に見たゲーム画面。
何度も見たはずなのに。
今まで気づかなかった。
タイトル画面の背景。
王冠の後ろに描かれていた、青い円。
それは――。
「……魔法陣」
リヴィアが呟いた。
「ゲームのタイトル画面に……同じものがありました」
少女は静かに頷いた。
「やはり」
「何が、やはりなんですか?」
「あなたは、ここへ来る運命だった」
「そんな……」
リヴィアは一歩後ろへ下がる。
「私は運命なんて信じません」
自分でも驚くほど、はっきりと言えた。
「私は、悪役令嬢として決められた未来を拒みます」
ルシアンがリヴィアを見る。
「そして、ゲームに決められた未来なんてないと証明します」
少女はしばらく彼女を見つめていた。
やがて、ほんの少しだけ微笑む。
「だから、あなたを待っていた」
「……え?」
「この世界の未来を変えられるのは――」
少女の視線がリヴィアへ向く。
「物語の外から来た、あなたしかいないから」
その瞬間。
地下全体が大きく揺れた。
――ドンッ!
遠くから、爆発音が響く。
ルシアンが即座に剣を抜いた。
「来たか……!」
少女の表情が変わる。
「もう時間がない」
「殿下!」
「分かっている」
ルシアンはリヴィアの前に立った。
「リヴィア、ここから離れる」
「でも、この少女は――」
「彼女も連れていく」
「え?」
少女が驚く。
ルシアンは冷静に言った。
「ここに一人残していくわけにはいかない」
リヴィアは思わず彼を見る。
やっぱり、この人はそういう人なのだ。
危険な状況でも、誰かを見捨てることができない。
「……分かりました」
リヴィアは少女へ手を差し出した。
「あなたも一緒に来てください」
少女はその手を見る。
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
指先が触れる。
その瞬間――。
リヴィアの頭の中に、一つの声が響いた。
『――あなたは、この世界を救うために来たのではない』
誰の声なのか分からない。
けれど、確かに聞こえた。
『あなた自身の未来を選ぶために来たのです』
「……!」
リヴィアが目を見開く。
「どうしました?」
ルシアンが尋ねる。
「いえ……」
リヴィアは少女の手を握ったまま、首を振る。
「何でもありません」
しかし、その胸の奥には一つの疑問が残っていた。
――私は、本当に偶然この世界へ転生したのだろうか。
それとも。
神谷紗月が死んだあの日から。
すべては始まっていたのだろうか。
そして今。
物語の外側にいるはずだった少女が、自分を待っていた。
ならば。
自分が知っている『物語』のさらに外側には、一体何があるのか。
リヴィアはまだ知らない。
この地下で起きた出来事が、彼女の運命だけではなく――。
エルディア王国とヴァロリア王国、そして世界そのものを巻き込む大きな事件の始まりになることを。




