悪役令嬢になってしまった
目を覚ました瞬間、神谷紗月は、自分が知らない天井を見上げていた。
「……ここ、どこ?」
最初に感じたのは、頭の重さだった。
ゆっくりと身体を起こす。
柔らかな布団が肌を包み、白い天蓋が視界に入った。
見慣れた自分の部屋ではない。
白い壁。
大きな窓。
その前には淡い青色のカーテンがかかっている。
壁際には見たこともないほど大きな木製の本棚があり、その中には革張りの本が何冊も並べられていた。
部屋の中央には、小さな丸テーブルと二脚の椅子。
そして、ベッドの横には銀色の水差しとグラスが置かれている。
まるで――
「……お嬢様?」
突然、扉の向こうから声がした。
「起きていらっしゃいますか?」
「え?」
紗月が答えるより早く、扉が開いた。
入ってきたのは、黒髪を後ろでまとめた若い女性だった。
二十代半ばほどだろうか。
白いシャツに黒いロングスカート。
その上から灰色のエプロンドレスを身につけている。
彼女は紗月を見ると、驚いたように目を見開いた。
「まあ……! お目覚めになったのですね、リヴィアお嬢様!」
「……リヴィア?」
その名前を聞いた瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
「――っ!」
大量の記憶が、一気に流れ込んでくる。
貴族。
魔法。
王国。
貴族学院。
王子。
ヒロイン。
そして――
「悪役令嬢……」
紗月の唇から、小さな声が漏れた。
目の前の侍女が不思議そうに首を傾げる。
「お嬢様?」
「……鏡」
「はい?」
「鏡を……持ってきて」
震える声でそう頼むと、侍女はすぐに部屋の隅に置かれていた大きな姿見を運んできた。
そして、鏡を見た瞬間。
紗月は言葉を失った。
そこに映っていたのは、自分ではなかった。
長い灰金色の髪。
背中の半ばまで伸びた髪は、光を受けるたびに淡い金色と銀色が混ざったように輝いている。
前髪の隙間から覗く瞳は、青と灰色が混ざったような美しい色。
白い肌。
細い首。
整った鼻筋。
そして、まだ十七歳とは思えないほど上品な顔立ち。
寝間着の白いドレスを着ていても、その姿には生まれながらの貴族らしい気品があった。
「……誰?」
鏡の中の少女が、同じように唇を動かした。
その瞬間、紗月は理解した。
――私は、転生した。
しかも。
「……まさか」
ベッドの上に置かれていた小さな金色の手鏡を手に取り、そこに刻まれた紋章を見る。
見覚えがあった。
忘れるはずがない。
何度も画面で見た紋章。
乙女ゲーム――『薔薇と運命の王冠』。
紗月が前世で何度も遊んだゲームだった。
「嘘……」
この世界には、彼女が知っている物語が存在している。
そして、この身体の持ち主の名前は――
「リヴィア・アーデント……」
エルディア王国の名門貴族、アーデント公爵家の令嬢。
そして。
ゲームの中で、主人公エヴリンを執拗にいじめる悪役令嬢。
紗月の顔から血の気が引いていく。
「……私が?」
記憶がさらに鮮明になる。
リヴィアは美しく、頭も良く、魔法の才能にも恵まれている。
しかし、その誇り高さゆえに、ゲームの主人公であるエヴリンを敵視する。
王子に近づくエヴリンを妨害し、彼女を学院で孤立させようとする。
そして物語の終盤。
すべての悪事が暴かれ――
「断罪される……」
そう。
リヴィアの結末は決まっていた。
婚約者である王子から婚約を破棄される。
家名を失う。
貴族社会から追放される。
そして最悪のルートでは――
「処刑……」
その言葉を口にした瞬間、身体が震えた。
紗月はベッドから降りると、ふらつきながら窓へ向かった。
カーテンを開ける。
「……っ」
目の前に広がっていたのは、見たことのない世界だった。
青い空。
遠くにそびえる白い城壁。
その向こうには巨大な城が見える。
街には石造りの建物が並び、馬車が大通りを走っている。
しかし、それだけではなかった。
空を飛ぶ小さな光。
建物の屋根を飛び越えていく獣。
そして遠い山の向こうには、巨大な翼を持った生物の影まで見えた。
「……本当に、ゲームの世界……」
紗月は窓に手をついた。
自分が知っている現代日本とは、何もかも違う。
電車もない。
スマートフォンもない。
コンビニもない。
ここには魔法があり、貴族がいて、王子がいる。
そして自分は――
「悪役令嬢、リヴィア・アーデント……」
名前を口にすると、背筋が寒くなった。
しかし、すぐに紗月は顔を上げた。
「……待って」
彼女には、普通の転生者にはないものがある。
この世界の未来を知っている。
ゲームのシナリオを知っている。
誰が主人公なのか。
誰が攻略対象なのか。
どんなイベントが起こるのか。
そして――
リヴィアがどうやって破滅するのか。
「だったら……」
紗月は鏡の中の少女を見つめた。
鏡の中のリヴィアは、不安そうな表情を浮かべている。
だが、その青灰色の瞳には、少しずつ決意が宿り始めていた。
「未来を知っているなら、変えればいい」
ゲームでは、リヴィアは自分から破滅へ向かっていった。
けれど、今の自分は違う。
彼女は前世の神谷紗月としての記憶を持っている。
ならば。
「ヒロインをいじめない」
まず、それだけは絶対に守る。
「攻略対象にも近づかない」
王子にも、その他の攻略対象にも関わらない。
「恋愛もしない」
これも重要だ。
余計なことをしなければいい。
目立たず。
騒ぎを起こさず。
誰とも争わず。
ただ静かに生きる。
それだけでいい。
紗月――いや、リヴィアは小さく拳を握った。
「そうよ」
その口元に、初めて笑みが浮かんだ。
「私は、悪役令嬢になんてならない」
その瞬間。
扉の向こうから、再び侍女の声が聞こえた。
「リヴィアお嬢様。旦那様がお呼びです」
「お父様が?」
「はい。それと……」
侍女が少し困ったように続ける。
「来月から王立セイレーン学院への入学準備を始めるように、と」
「…………」
笑顔が固まった。
王立セイレーン学院。
それは、ゲームの物語が始まる場所だった。
ヒロインと攻略対象たちが出会う場所。
そして――
リヴィアの破滅が始まる場所。
「……そうだった」
リヴィアは額に手を当てた。
いくら未来を変えようとしても。
物語の舞台そのものから逃げることはできない。
それでも。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
「大丈夫」
鏡の中の自分に言い聞かせるように、呟く。
「今度は、私が物語を変える」
それが。
悪役令嬢として生きることになった、神谷紗月――リヴィア・アーデントの最初の決意だった。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます!
『悪役令嬢ですが、攻略対象を全員無視して隣国の王子を奪います』は、ここからリヴィアの運命が大きく変わっていく物語です。
これから彼女は、ゲームでは存在しなかった出会いや出来事に巻き込まれていきます。
そして、彼女が選ぶ「自分自身の恋」とは――?
少しでも「続きが気になる」と思っていただけたら、ぜひ次の話も読んでいただけると嬉しいです。
ブックマークや評価、感想も大きな励みになります!
これから始まるリヴィアの物語を、最後まで一緒に見届けてください。




