エピローグ
大学に戻った千夏は、いつも通りの、日常を過ごしていた。あの夏の出来事は、時折、思い出す程度の、遠い記憶になりつつあった。
ある夜、一人暮らしの部屋で、鏡の前に座り、髪を整えていた時のことだった。
ふと、鏡に映る自分の背後に――誰かが、立っているような、そんな気配を感じた。
「――え」
慌てて、振り返る。だが、そこには、誰もいなかった。
(また、気のせい……よね)
そう自分に言い聞かせながら、千夏は、もう一度、鏡を見つめた。鏡の中には、いつも通りの、自分の姿だけが、映っている。
だが――
鏡の中の自分の口元が、ほんの一瞬、千夏自身の意思とは関係なく、微かに、笑ったように見えた気がした。
千夏は、それが、単なる、見間違いなのか、それとも――あの夏、鏡の間で触れた、何かの、僅かな"名残"なのか。今の自分には、まだ、判断がつかずにいる。
ただ一つ、確かなことがあった。
それ以来、千夏は、深夜、鏡の前に立つことを、なんとなく、避けるようになっていた。
数ヶ月後、大学の友人から、思いがけない話を聞いた。
「そういえば、千夏、去年の夏、山奥の旅館で、バイトしてたんだよね。あそこ、今年も、夏だけのバイト募集してるみたいだよ」
「……そうなんだ」
「一緒に、応募してみない? なんか、賄いも美味しいらしいし」
友人の何気ない誘いに、千夏は、少し、複雑な気持ちになった。あの旅館での日々は、恐ろしい記憶であると同時に、佐伯や、女将との、かけがえのない繋がりを、感じられた時間でもあった。
(また、行ってみようかな)
そう思う一方で、千夏の脳裏には、ふと、あの日、図書館で読んだ、もう一つの記事が、よぎった。
『行方不明になった宿泊客の、その後』についての、短い続報記事だった。曖昧にしか覚えていなかったが、確か、そこには、こう記されていた。
『件の宿泊客は、後日、遠く離れた土地で、目撃されたとの情報がある。だが、本人だと、確認するには至らなかった』
(もし、また、あの部屋に、近づいたら――)
千夏は、小さく、頭を振った。今は、深く、考えないようにしよう。ただ、もし、また、あの旅館を訪れることがあれば、今度こそ、決まりを、しっかりと、守ろう。そう、心に決めていた。
友人の誘いに、千夏は、曖昧に、頷いた。
「……考えて、おくね」
窓の外、夕暮れの空を見上げながら、千夏は、あの、山間の旅館の、静かな夜を、ふと、思い出していた。あの鏡の間には、今夜もまた、変わらず、誰かの"想い"が、静かに、宿り続けているのだろう。
そして、その"想い"は――もしかしたら、まだ、完全には、鎮まりきっていないのかもしれない。
数日後、千夏は、思い切って、女将に、一本の電話をかけてみることにした。
「もしもし、女将さん。夏休み中、また、お世話になっても、よろしいでしょうか」
電話越しに、女将の、穏やかな声が、返ってきた。
「あら、千夏さん。もちろん、大歓迎よ」
「あの……鏡の間の、その後は、いかがですか」
千夏の問いに、女将は、少し、間を置いてから、答えた。
「供養をしてから、今のところは、静かなものよ。ただ」
「ただ?」
「佐伯さんが、時々、あの部屋の前で、姉さんに、話しかけているのを、見かけるの。もう、怖がる様子もなく、まるで、家族に、近況を報告するみたいにね」
その言葉に、千夏は、少し、心が、温かくなるのを感じた。
「それは、良かったです」
「今年の夏も、色々と、あるかもしれないけれど。千夏さんが、また、来てくれるなら、心強いわ」
「はい、よろしくお願いします」
「ああ、それと」
女将は、思い出したように、付け加えた。
「今年は、もう一人、新しいアルバイトの子も、来る予定なの。千夏さんより、少し、年下の子だけど。仲良くしてあげてね」
「はい、もちろんです」
「その子にも、いずれ、鏡の間のことを、伝えることになると思うわ。その時は、千夏さんの経験も、きっと、役に立つはずよ」
その言葉に、千夏は、少し、身が引き締まる思いがした。自分もまた、いつか、あの決まりごとを、次の誰かに、伝えていく立場になるのかもしれない。
電話を切った後、千夏は、窓の外の空を、見上げた。あの旅館での日々は、確かに、恐ろしい経験ではあった。だが、それ以上に、佐伯や、女将との、かけがえのない繋がりを、思い出させてくれるものでもあった。
(今年の夏も、あの場所で、何が待っているんだろう)
一抹の不安を抱えながらも、千夏は、静かに、次の夏を、待つことにした。あの、山間の月白旅館で、また、新しい"言えない事情"に、出会うことになるのかもしれない。そう思うと、恐怖と共に、不思議な、期待のようなものも、胸の中に、静かに芽生えていた。
深夜、鏡を見るたびに、千夏は、今でも、ほんの一瞬、身構えてしまう。だが、それもまた、あの夏が、確かに、自分の中に、残した爪痕の一つなのだろう。
いつか、この、小さな恐怖と、うまく付き合っていけるようになる日が、来るのだろうか。今の千夏には、まだ、分からない。
(了)




