スーパーノヴァの幸福 2
絶望や哀しみやさみしさは、生きている限り何度も扉をノックする。コンコン、コンコン、コンコンコンコン。何度でも何度でも。飽きることなく何度でも。
それでも誰かが、あなたの心臓を直接叩く。あなたが生きている限り、何度でも何度でもあきらめることなく。
だからひとはあきらめることが出来ない。どうしてもどうしても、生きている限り、そしてこの世を去ってからもまだ尚、続き続ける。
笑いながら。時折そっと、影を落としながら。
たまにふと、どうしようもなくなるくらいさみしくなる時、それは誰かがあなたを忘れようとして、けれどどうしても忘れられないと涙を流す時だ。
一緒にいられなくても、触れられなくても、それでも忘れられないとあなたを想っている時だ。
―――それが、ミユキの識る愛情のすべてだ。
「―――ほら、行け。―――今度こそ」
「今度は車も大丈夫そうだねえ!」
「ありがと、イジー。サムも」
「どうして僕が付け足しなんだ。……この時間帯、彼は家を出る時間だ。路に立っていれば会えるだろう」
「ありがとうサム。愛してるよ」
「……僕もそれなりには愛している」
「素直じゃないねえ!」
「ほんとにねえ」
「うるさい、さっさと行け。―――今度こそ」
「はあい。―――それじゃあ今度は、近い内に」
「またこっちにも遊びにおいでねえ!」
「うん。本当にありがとう! ―――またね!」
タクシーを降りる。―――痛む身体をおして、歩き出す。
ほとんど暮らしたことのないアパート。度々訪れて―――それでも会わずにやり過ごしていた、避けていた時間。
青年のいる時間。
「……っ……っ……っ……」
走る。走る。ぎこちなく。よろよろとよろめきながら。それでも先へ、先へ、心が求めるひとのところへ。
「っ……」
大通りを挟んだ―――向かい側。
聳え立つアパートメント。
その入り口から―――ひとりの青年が、出て来た。
さらりと揺れる漆黒の髪。―――あの色が、本当に好きだ。
自然と前を向く黒曜の眼。―――あの輝きが、本当に好きだ。
想い出すまでもなくずっとずっと想っていた青年。姿を求めて心が叫ぶ長身痩躯。
名前を呼ぼうと―――した。
「―――」
―――それ、でも。
「 」
声は出なかった。
「―――」
―――そう。そうだ。
「―――……」
だって―――あれからもう、二年以上が経っている。
二年。
二年と、四ヶ月。
―――その間、青年がミユキを待っていてくれるなんて―――どうして思えるだろう?
甘えるだけ甘えて、何も返せずにいて―――それなのにどうして、ずっとずっと青年が待っていてくれているなんて思えるのだろう?
ともり―――ともり。
ともりのところに帰りたい。―――でも。
どうしよう。もう声も出ない。―――もう一歩も動けない。
「……」
このまま何も言わず消えた方が―――忘れられたままでいた方が、ともりにとっては。
このままいなくなった方がきっと、ともりにとっては―――だから。
ともり。
気付かないで。
ここにいることに気付かないで。
全部ぜんぶ、忘れて。
―――幸せに、なって。
だから、気付かないで―――
―――と
その時。
ふわりと髪が揺れる―――誰かに気付いたように。
黒曜の眼が流れる―――呼応したように。
車が行き交う。ひとが行き交う。
音がする。多くが行き交う。遮るように。
―――それでも 青年の 眼が
青年の 抱く あの誰にも消せない 光を
迎え火のように きらきら きらきらきらと その黒曜に映し
まるで青年そのものの 魂の煌めきのような ぎらついて すべてを吞み込む
それが
黒曜のその眼が ミユキを
「―――みーさん」
心の底から
好きだと思った。
「……と……も、り……」
声が震えて、
「とも、り……」
心が震えた。
「ともり……!」
どうして、どうして、どうして気付く。
呼んでいないのに。声に出してもいなかったのに。それでも。
何度でも、何度でも、あなたがわたしを呼ぶ。
ぼろり、と涙が零れた。
終わらない。まだ終わらない。そんな簡単に、終わったりなんかしない。
「ともり……!」
痛む身体を、傷の走る手のひらを、心が零れた想いを、必死に堪えて立って、
呼んだ。大声で泣きじゃくりながら、誰よりも自分の隣にいてくれた、ひとりの愛する青年を。
弱々しく響いたその声は、わんわんと耳鳴る鼓動を、騒音を、大通りを距離を泣きじゃくる声を時間を過去を想いを心を全てすべて抱きしめて響いて行った。
だって聞こえる。大勢の声の中から確かに聞こえる。青年の声が。そこにいる。いてくれる。
大声で泣きじゃくりながら、何度でも何度でも青年を呼んだ。
ここに来て。迎えに来て。とても疲れてしまったの。
わたしの全部を、迎えに来てほしい。
大通りの向こうでともりが微笑った。
「みーさん!」
届く声。青年しか呼ばないあの愛称。
ここに来て。あなたが手を繋げる距離にいてくれると、わたしはとてもうれしい。
「今迎えに行くよ! だから!」
幸せそうに、ともりが笑った。
「安心して、泣いてていいよ!」
この気持ちを何て呼ぼう。
この気持ちをどう描こう。
「みーさん!」
あたたかい手が届き、幸の身体を抱きしめた。抱きしめ返す力はない。なくても灯が埋めてくれた。ありがとう。ありがとう。本当に、ありがとう。
「ともり……」
泣きじゃくりながら笑いかける。ともりは笑っていた。本当に幸せそうに、笑ってくれた。
何度でも伝えよう。
ともりは何度も伝えてくれたのだから。
ミユキだって同じくらい伝えよう。命が続く限り、命が終わっても、伝え続けよう。
「……愛してる」
降って来た感触はあたたかくて、やわらかい。
頰を伝う涙が心地良い。
抱きしめてくれるともりの温度が愛おしい。
あたたかいね、と泣きじゃくりながら微笑むと、零れたように隣でともりも笑った。
手の繋げる距離に君がいる。
この世界に君がいる。
君を愛し、君を損なわせ、君を護り、君を傷付け、それでも君が見つめ続けたこの世界。
向き合って、呑み込んで、戦って、逃げ出して、それでもまた、向き合った世界。
なんて幸せなんだろう。なんて幸福な世界を選んだんだろう。
まっすぐなほど嘘吐きで、碌でもないほど真っ白なこの世界。
嘘と詐欺のあとに、残ったものの話をしようか。
大丈夫。怖がっていていい。
この手をしっかり握っていて。
これは君が逃げた跡であり、君がどんな風に世界を愛していたかという話なんだ。
さあ、願おうか。
君が心から泣いて笑っていますように。
海と空を越えて、君の傷も痛みも痕もすべて抱えて。
君が今隣にいてくれること。君と迎えたこの世界。
大丈夫。これだけは言える
だからきっと覚えていて。お守りのように胸に刻んでいて
君はすべてを失くしたわけじゃないんだ
君といる。君といた。
―――この世界を、愛そう。
〈 スーパーノヴァの幸福 マクデブルクの半球 〉