セントエルモの光跡
霞んで、鈍くぶれて。そしてそのまま、消えてしまいそうな。
白い大理石の輝くその格調高いホテルに、その日支配人はいなかった。
新しいホテルを建設するため、視察に行っているとのことだった。
「……そうですか」
うなずいて、礼を言ってそのホテルをあとにする。そのホテルのラウンジにある喫茶店でハーブティーを楽しむ母親も、そのすぐ隣でオレンジジュースをおいしそうに飲む少年も、いなかった。
ホテルのタクシー乗り場の黄色い群れの中に、太陽のように溌剌とした女性ドライバーはいなかった。
「……車を貸して欲しいんです」
フェリーで海を渡った先の港近くにある車庫の店員にそう言うと、激しい重低音が巨大なスピーカーから吐き出されるその中、店員は楽し気にうなずいた。書類にいくつかサインして、お金を渡してキーを受け取る。
立ち去ろうとして、そして訊ねた。
「……以前いた、タトゥーのある店員さんはいらっしゃいますか」
店員は答えた。その店員は、もう辞めたと。
海を渡って行ったのだと。
左ハンドル。
ルートに出てしまえば、あとはもう道なりのまっすぐな路。
あの時のようにクラシックカーに乗っているわけでも、ミユキが助手席に座っているわけでもない。
わたしが運転して、ミユキひとりで、向かっている。
路も世界も青くはない。そうなる前に、街に着くだろう。このまま行けば。
このまま順調に行けば。
「……」
徐々に徐々に大きくなる―――ぷすんぷすんという鈍い籠もった音。
やがて限界が来たようにばふんっと音がして、ボンネットから細い煙が立ち昇りはじめる。
「……ふふ」
そうだね。
そうだ。
歩いて行こう。
ずっとずっと、歩いて来たんだから。
世界が薄青色に包まれている。耳鳴りのない無音の音が耳元で響き、誰かが何百年も前にささやいた声を拾い上げて空気に溶かす。……言葉はいつだって、空気に溶けてゆく。
どこまでも続く道。地平線の向こうに消える道路。
うしろを振り返ると、時間が見えた。歩いて来た路。先ほどまで歩いていた路。通り過ぎた路。……どこまでも続いていて、もうその全ては見えない。青色に溶けて、空と大地の境目はただの曖昧な線になる。帰れない。……どれだけ願っても、もう戻ることは出来ない。
前を向くと、時間が見えた。これから歩く路。今から少し先の未来歩く路。これから辿り着く路。……どこまでも続いていて、まだ先全ては見えない。青色に溶けて、空と大地の境目はただの曖昧な線になる。止まらない。……どれだけ願っても、止めることは出来ない。
路の上に、ミユキは立っている。空と路しかない、子供がただ一直線に線を引いただけのような青い世界。その世界にミユキはいる。たったひとり、歩いている。……無意識の内に足は止まっていた。
数歩前を歩く長身痩躯の赤みがかった茶髪の青年。煙草を吸おうと右ポケットに手を入れて、それから左ポケットに入れていたことを思い出す。
そしてふと思い出したように、隣に自分がいないことに気付く。煙草を止め、灰色とそのおくの青色の瞳が振り返り、真っ直ぐにこちらを向いて、……笑った。
「ミユキ」
呼ばれる。名前を。
胸がいっぱいになって、息を止めた。
何度でも、何度でも、心が彼に向かう。
おいで、とのばされたその手を見てミユキも微笑んだ。そのまま笑顔で手をのばす。触れた指先が絡め取られ、オーリの大きな手がミユキの小さな手を握った。
「……」
―――かつて在った、その時間を、
―――今はもうない、その時間を、
―――唇を、噛みしめて、
ひとりで、歩いた。