アウロラの夜明け 10
「―――さあ、着いたよ」
そのやわらかな声にグレンは微笑んだ。ダニエルもまた、声を同じようにやわらかく微笑う。
「ありがとう、ダニエル」
「ダニーだよ、グレン」
「ありがとう、ダニー。……また来てもいい?」
「友人が家を訪ねてくれるのを断る理由なんてどこにもないよ。ただ、付け回して来るうるさそうなのは全部都会で撒いて来てくれ」
「勿論」
笑って大きくうなずくと、愉快そうにダニーも笑った。―――それから。
それから、とてもやさしい眼で後部座席を振り返る。
「―――ミユキ」
「―――うん」
小さな声で、うなずいて。
ヒイラギはドアを開け、外に出た。
「―――ありがとう、ダニー」
「今度は、君が愛するひととおいで」
ヒイラギは答えなかった。
ただ、真っ赤に染まったその眼をまた、今にも泣き出しそうに染めた。
「―――ごめん、約束出来ない」
「そうか。でも待ってる」
「ごめん。ごめんなさい。わたしはもう、嘘も吐けない」
「ああ。でも待ってる」
「嘘でもわかったって、言えたらいいのに。―――昔なら、言えたのに」
「大丈夫。―――ずっとずっと、待ってる」
「待たないで」
乞うような声だった。縋るような声だった。
「待たないで。……わたしのことは、もう、忘れて」
「―――君は友人を忘れられるか?」
静かな声だった。
心の深い深いところから染み出した、声だった。
「かけがえのない友人の幸せであるひとを、大切な友人を。君は忘れることが出来るか? ミユキ」
「……」
「君がもう嘘を吐けなくても。本当のことを認めることが出来なくても。それでも待ってる。―――ミユキが誰になっていようと、待っているよ」
「……」
力なくうな垂れて。
ヒイラギは首を縦に振ることも、横に振ることもしなかった。
ただその頬を、また一筋、新しく涙が零れていっただけだった。
「……さあ、時間だよ」
ダニーが促がした。うなずいて、―――強く強く、握手する。
「必ず、また」
「必ず、また」
手が離れて、
その手をそのまま、ヒイラギを促がす手に変えた。
「行こう」
ヒイラギは無言だった。うつむいたまま―――ダニーと眼を合わすことなく、今にも倒れ込みそうなくらいよろよろと、……それでもまだ、自分の力で歩いていた。
進んでいた。
どこに向かっているのか、ヒイラギ自身もうわからぬままに、それでも。
「ヒイラギ」
「……」
返事のないヒイラギに言葉を重ねた。
「ありがとう」
「……なにもして、ない」
掠れた―――小さな、声。
首を振った。―――横に。
「そうかな。―――こんなに何かをしてもらったこと、俺は今までなかったと思う」
「……」
「いつもそうだったんだ。きっとヒイラギは、いつだってそうなんだ。……過去どのヒイラギを取っても、誰かのことを、……自分のことはあきらめても、誰かのことをあきらめたことはなかったんだ。……それをヒイラギの周りにいる人間はみんな、識ってるんだ」
待ってる。―――君が大丈夫になるのを、いつまでも。
そう言ってもらえる人間が―――果たしてこの世界に、どれだけいるのだろう?
メリットじゃない。
見返りなんかじゃない。
そんなことを望まれずに、ただ君にまた会いたいと―――幸せになった君が見たいのだと、果たしてどれだけの人間が思ってもらえるのだろう?
そう思ってもらえる人間は、どれだけ幸せなのだろう?
「俺はヒイラギに会えて、本当によかったと思う」
心からの言葉に。
返事は―――なかった。
アナウンスが流れる。顔を上げて、ヒイラギを促がそうとして―――微かな声が、した。
「―――さきにいって」
小さな小さな、……こちらを見ない、ヒイラギの声。
「次の便で、いく。……ひとりに、なりたい」
「……そうか」
うなずく。しっかりとうなずいて、―――しっかりと言葉にした。
「待ってる。―――また会おう」
何が変わったわけじゃない。
状況が好転したわけでも、急に自分に自身や能力が上がったわけでも。
でも、大丈夫だ。
今よりも辛い時が来ても、大丈夫だ。
世界に耳を澄まして。自分の声が、想いが、創り上げた世界が―――どんなひとに届くのか、意識して。
指先をぴんとのばすように。背筋を正して、胸を張って、自分の足元から目線の先の遠く遠くまで意識を巡らせるように。
誰に届いているのか。どんなひとに届いているのか。
どんなひとが、どんな想いを抱いてくれたのか。
You See
深く深く息をして、耳を澄ませて、世界を視る。
さらさらと細い、音がする。それは天に立ち昇る白が揺らぐ音か、それとも陸地で不思議な色をした髪が靡く音か。
さあ。敗けないで。―――人生を創って。
そうして行こう。だって。
そうして、往きたいんだ。
時間は過ぎる。いつだって一定の速さで。体感とはまた別のところで。
次に撮ったスポーツドリンクの写真がじわじわと好評を得、契約更新を打診されるのも、それを辞退するのも。
すべてが等しく、けれど愛おしく過ぎてゆく。
時間は過ぎる。一分一秒を尊重したり、無駄にしたり。それでも必死に、必死に、必死に。
過ぎてゆく。過ぎて往く。
佳いものを夢見て、歩いてゆく。
拙いながらに、遠回りしたり、路を逸れたり、転んだり。けれどなにも、あきらめず。
貰った言葉を一欠けらも零さず胸に抱いて。
―――ヒイラギ ミユキが行方不明だということを知るまでは。
〈 アウロラの夜明け アウロラの不明 〉