アウロラの夜明け 9
つまらないの。―――そう言われたのは、はじめてではなかった。
「―――ヒイラギ」
ゲストルームをノックをして来訪を告げると、ややあって返事があった。ドアを開け中に入る。
ヒイラギはベッドの縁に腰かけていた。ずっと窓の外を見ていたのかもしれない。湖と、その水面に浮ぶ水上飛行機を。
「話をしていいか」
「どうぞ」
向き合うように椅子を置いて、そこに腰かけた。
電気は点いていない。湖のほとりにある投光機から銀色の光が湖に映し出され―――その光が水面から跳ねて、ほんの僅か揺れながら、部屋の中をぼんやりと照らす。
ヒイラギの眼が、その光を吞み込むようにそのまま映して、静かに輝きを増した。
深い深いその眼に見据えられて―――言葉を、失って。
沈黙を作り、そうやって、心がどんどん、凪いでいくようにしんと落ち着いて行って―――再び、言葉が生まれるまで。
ヒイラギはじっと黙っていた。黙って、グレンを見つめていた。
「……ヒイラギの世界は、青い」
「うん」
「……俺は、」
―――つまらないの。そう呟いた、ただたまたまその道を通りかかっただけであろう異国の少女。
批評なんて散々されていた。ヒイラギの言葉に悪意なんて全くないのはわかっていた。だから傷付いたわけではない。もっと酷いことを、悪意をぶつけられたことなんて、数え切れないほどあった。
なのにどうしてか、ショックだった。
傷付いたわけではない。ただショックだった。―――ヒイラギのその眼が、世界のすべてを吞み込みそのまま映すような深い深い色をした眼が、自分の写真を映して―――その眼が見て言われたということに、ショックを受けた。
ヒイラギと言葉を交わす前からうしてか、ヒイラギのその眼に惹かれていた。
「……どうしてかわからないけど、ヒイラギの……ヒイラギのその眼に映って、それで出たのがあの言葉なのかと思ったら……どうしてだか、本当にショックで」
とても遠巻きにヒイラギの後を着けて、ホテルを確認して。……マネージャーに連絡して、どんな手段でもいいのであのホテルにいる東洋人の少女のことを調べてくれと頼んだ。実際どんな手段を使ったのかは知らないがマネージャーは比較的すぐヒイラギの情報を引き出して、そしてグレンはヒイラギはS・Dプログラムの特別賞を獲っていることを知った。すぐさまネットで検索し、S・Dプログラムのサイトに飛んで―――その写真を見て、
心が、言葉を失った。
青い世界。―――青い世界。
青い世界に生まれた、小さな光。
もうとっくの昔に終わった街。ひとびとが去り、その足跡すらももう風に流され消えた街。……青い夜が迫る中、色を失った街にそっと灯った、光。
指先が力を失って。
心が惹かれて―――映りたく、なった。
この青を見出したその眼に、どうしてもどうしても、映りたくなった。
「―――どんな人間なんだろうと、思った」
この青を。―――この青い世界を見出したあの少女は、どんな人間で。
どんな声で、どんな言葉を紡ぐひとなのかと。
「ちゃんと、会ってみたら。……驚いた。何に驚いたのか、俺自身よくわかってないけど……」
―――今にも泣き出しそうな女の子だった。
小さく華奢な身体で。
よろよろと、今にも力尽きそうに、けれど自分の力で歩く。
何とかどこかへ行こうとする。
―――小さな小さな、女の子だった。
「―――はじめて、本気になったんだ」
スカウトされて。きらきらとした世界に飛び込んで。
そのきらめきはライトのきらめきでも人々の羨望の眼差しでもなく、冷たく凍った争いの氷のきらめきなのだとすぐにわかった。みんな必死で、そしてみんな、どうにかして自身を魅力的に高めたいと常に思っていた。
容姿を。能力を。
評価してもらえるように。良くも悪くも、誰かの言葉をもらえるように。
―――それでも、『つまらない』の言葉が一番、辛かった。
『つまらない』の先には何もないのだ。興味を失われ、もう何も、見い出せられなくなる。
「モデルの仕事も、演技の仕事も。はじめて本気になったんだ。生まれてはじめて、楽しいと思った。……昔から周囲に恵まれてた。ひとが途切れることはなかったし、運動だって勉強だってそこそこ出来た。だから全部がつまらなかった。……けど、はじめて―――はじめて夢中になれることに出会えた。もっと早く出会いたかったって、そう思った……もっともっと上手くなりたい。もっともっと先に行きたい。……そう思ってた、のに……」
―――容姿は大事だと思う。自分がスカウトされた理由も見目の良さがきっかけだったのだから。―――でも、中身の伴わない見目は、いずれ飽きられる。
グレンにとって今がその時だった。
勢いで売れていた。それは自分でもわかっていた。―――思い知っては、いなかった。
はじめて躓いて。―――起き上がる前にどんどんどんどん、批評が降って来て。
足掻こうと。もがこうと。―――押し返すには、あまりにも重過ぎるそれに、抗うことすらろくに出来なくて。
深く深く沈められて行くように―――どうしたらいいのか、どうすればいいのかもわからぬまま落ちてゆく。
昏いところへ、沈んでゆく。
「……酒に、逃げて。それがまた、パパラッチされてあげつらわれて。……けどもう、ここ最近はそれすらなくなって来た。……批評もされないん、だ」
どうすれば。どうすれば。―――頼ろうとしたのは最後の砦。グレンを見出した、グレンの価値を一番最初に認めてくれた、グレンをスカウトした人物だった。
思い詰めて、アポイントもなしにふらりと訪れて―――そこで聞いてしまった、その言葉。
「『グレン・ライガはもうつまらない』……もうって、何だよ」
自分の足掻いていた時間は。
必死になってもがいていた時間は。
『もう』のひとことで片付けられてしまうほど、薄く軽いものだった。
他人から見れば取るに足らないものだった。
足元から崩れてゆく感覚―――もう
もうどうやってなにを頑張ればいいのか、わからなくなっていた。
「続けたくても。どうにか、やって行きたくても。……でももうどうすればいいのかわからなくなった。……なあ」
どうすればいいと思う? 溢れ出す涙を止めることも出来ないまま、ヒイラギに問うた。
「ヒイラギ、は。……カメラマンとして成功しつつ、ある。……雑誌の写真、見たよ」
写真雑誌で毎号特集される、カメラマンたちのコラボ作品。
毎月違ったテーマでその時その時によって選ばれるカメラマンたちが一枚、それぞれ写真を寄せる。
そもそもその雑誌に載るということがカメラマンにとってのひとつの成功でもあるのだ。その雑誌にヒイラギの名前と写真が掲載された時、テーマは『音楽』だった。
音楽。―――とても幅広く、どんな色にも染められる言葉。
その時に載った他のカメラマンは、みな楽器を持つ人間や歌う人間を撮った。コンサートホールから街のバーのステージ、ストリートの演奏者まで。様々な『音楽』が寄せられた中、……ヒイラギの写真は、楽器も歌う人間も写っていなかった。
夜が明ける前。薄暗いという言葉よりも濃く昏い、沈んだ、けれど静謐な青に染まる世界。
たった一瞬のその時間、海辺に立つひとりの女性。
その女性は深い青色をした飾り気のない簡素なスリップドレスを身に纏っていた。
裸足の脚を軽く開いて、誰の力も借りず砂浜にひとり、立っていた。
女性の顔はほとんど写っていない。空と海を写したその写真はとてもひろい画格で撮られていて、女性がカメラに対し斜めにほとんど背中を向けて立っているため表情すらままならない。けれど女性が眼を閉じているのだけは、よくわかった。
細い首元には海辺を駆ける空気のような薄手の真っ白なスカーフが捲かれ、それは風に流れ長く長く靡いている。
女性は楽器を持っていなかった。歌ってすら、いなかった。
けれどそれは『音楽』だった。―――どうしようもないくらい、音楽だった。
女性はヴァイオリンを構えるポーズを取っていた。
その手に美しい木目の楽器はない。その手に凛としなやかにのびる弓はない。
それでもその女性がヴァイオリンを演奏していることだけは、はっきりとわかった。
それは彼女にしか聞こえない音楽だった。
それは彼女にしか奏でられない音楽だった。
どんな曲なのか、どんな音なのかもわからない。―――けれど確かに、耳元で音がする。
女性が奏でる、音がする。
耳鳴りのように。幻のように。
想い出のように。これから先、自分が受け取る未来の言葉のように。
まだ出会ったことのない誰かがくれる、言葉のように。
青い世界で―――音が、する。
You See
付けられたタイトル。
あなたが 見る
写真を見た、ひとりひとりが―――その青い世界を眼の前にした、あなたが見る。
あなたが見る世界の、あなたが聞いた音楽。
それを見たら、もう、駄目だった。
この世界を見出した眼に自分は適わなかったのだと思ったら、もう、駄目だった。
悲しいわけではない。悔しいわけではない。
ただ、どうしたらいいのかわからない。
どうすればいいのかわからない。
映りたい。この世界を見出した眼に、映りたい。
少しでもいいから近付きたい。
どうしたらいいのか、どうすればいいのかもわからないけれど。
それでも少しでも、この世界に近付きたいと、どうしようもなく想った。
「―――俺は、ヒイラギみたいになりたかった」
頬を濡らし続けながら、掠れた熱い声で―――告げた。
沈黙。
静寂。
―――永遠のような、時間が流れて。
「……―――」
うつむいていた顔を上げる―――ヒイラギ、は。
今にも叫び出しそうな顔をしていた。
大き過ぎる感情を怒鳴り出しそうな―――大き過ぎて言葉にならないような、そんな顔をしていた。
「……っ……」
小さな唇が、もがくように息を吐いて、
「っ……勝手な、こと、を!」
上手く呼吸も出来ないように言葉を詰まらせて、叫んだ。
「勝手なこと、を! 言わないで!」
今にも泣き出しそうな、そんな声で。
「……ッ!」
呆然とするグレンに、勢いよく立ち上がったヒイラギが大きく手を振りかぶった。どうして打たれるのかわからないまま、避けるということも思い付かないまま呆然とその様を見つめて―――その小さな平手が振り下ろされようとして、けれど振り上げたまま、ヒイラギは固まった。
ぐっと自身を抑えるように、堪えるように奇妙に動いて―――振りかざした手が、身体が震えた。
「ッ……!」
そして結局、その手はグレンに振り下ろされず。
ばっと身を翻したヒイラギは部屋を飛び出して行った。
「……え……」
残されたまま呆然として。ダイニングからダニエルの驚いたような声と、ばたん! というドアが開け放たれる強い音がして。―――漸く何かに蹴飛ばされたようにグレンの意識が今に追い付いた。弾かれたように立ち上がり開いたままのドアを抜けダイニングに走る。驚いたような顔のダニエルがヒイラギに貸した防寒着を手に外に出ようとしているところだった。
「ごめん、俺が行く!」
その防寒着を受け取りグレン自身も防寒着を着た。外に飛び出す。
ヒイラギの小さな身体は既にもっと小さくなっていた。怒りの―――恐らく―――まま飛び出して、そのままずんずんと湖沿いに進んで行ってしまっているらしい。雪に足を取られつつ必死に走る。追いつかなければヒイラギが凍死するし、そもそもどうしてこんなことになったのか、
「っ、ヒイラギ……! ヒイラギ!」
声は届いているはずだった。いくらヒイラギが怒って歩調が早まっているからといって、やはり体格差があるためグレンの方が早い。徐々にだが距離は縮まってゆき、そして、
「っ……ヒイラギッ!」
「ッ!」
掴まえた手を、ヒイラギは痛みが走るほど強く振り払った。
ばっと振り返ったその表情は感情が爆発していた。怒っている。悲しんでいる。嘆いている。そのどれも、違っている。
「どうし、て。なんでいきなりっ……」
「うるさい!」
「俺の言葉の何に怒ったんだよ!」
「怒ってない!」
「怒ってるだろ!」
「うるさい!」
ここまで会話にならないのははじめてだった。ヒイラギは答えないことはあってもそれは『答えない』という選択の故だ。はぐらかしたりはしない。理知的で言葉が通じている相手だった。―――それなのに。
それなのに今は何も通じていなかった。感情が高ぶり我慢出来なくなった子供のように叫び怒鳴って、その深い深い眼がグレンを睨み付けていた。
「勝手なこと言わないでって、何が勝手なことなんだよ!」
「あなたが勝手にわたしに憧憬を抱いて、勝手にあきらめてるところ!」
「はあっ? それの何が悪いんだよ!」
「それを勝手だと思うことの何が悪いの!」
「っ! そう、だけど! 何でそれが勝手だと思うんだよ!」
「わたしはっ、わたしはカメラマンになるのをあきらめた人間なんだよ! そんな―――そんな人間みたいになりたかったなんて言って、その上それすらもあきらめてどうするのッ!」
想像もしていなかった言葉に眼を見開いた。―――だって。だって、ヒイラギはS・Dプログラムでカメラマンとして参加していて―――
「大学を受験する前! 高校時代、わたしは映画のカメラマンになりたかった! 世界を自分で映してみたかった! けどっ、大学に入ってしばらく経って、わかった……!」
ヒイラギが叫ぶ。もどかしそうに。どうしてわかってくれないのと、どうして伝わらないのと嘆くように。
「わたしはカメラマンに向いていなかった!」
自分で気付いた―――気付いてしまった、事実。
「カメラの知識を得て、技術を得て! でもわたしは、向いていなかった! 駄目だったんだよ!」
「……そんな、こと……」
呆然と。しかし徐々に徐々に我に返って、その言葉を否定する。何度も首を横に振った。
「そんなこと、ないだろ。だって……だって俺はあの写真を見て心を奪われたんだ」
「グレンが見たのは海辺の写真と廃墟の街の写真でしょ!」
「そうだよ。それのなにが―――」
「ほとんど風景写真だ! ―――それ以外、何も見てないでしょ!」
「―――確かにそうだよ。でもそれの何が―――」
「わたしは『識っている人間』しか撮れないんだよ!」
ヒイラギのその言葉に―――絶句した。
「『よく識っている人間』しか撮れないんだ! 最初は、自分でも気付かなかった! 自主制作で映画を撮って、カメラを回して! 作品を作って、評価されて! ―――どれも悪くなかった! コンテストの候補に残る時だってあった! 同じキャストでいろんな作品を何本も撮った! 本数を重ねれば重ねるほど上手くなっていった! ―――けど違ったんだ。『そのひと』をよく見ているから―――『その人物』をよく識って、そのひとが一番よく映える瞬間を識ったからそう見えてただけなんだ! 初対面の、『どんなひと』でも良さを引き出して撮るのがカメラマンなのに、わたしはそれが出来ない人間だった!」
コミュニケーションを取って。言葉を交わして、その人物をよく識って。
そうして見えてくる空気。ひとりひとりの個性。
それが光るように。それが映えるように。
丁寧に丁寧に撮ることには、長けていたのかもしれない。―――けれど。
カメラマンは、仕事だ。被写体と撮影日にはじめて会いすぐに仕事に移ることだってめずらしくはない。
仮に打ち合わせで何度か会うことがあったとしても、友人のように親しくなるにはまだまだ時間が必要だろう。
名の売れた有名なカメラマンになれば、被写体を指定することも可能かもしれない。―――けれど、そこに及ぶまで仕事を選んでなんていられない。地位を確立するまでそんなことは出来ない。
ヒイラギ ミユキは、そこまで辿り着ける人間ではないと、ヒイラギ ミユキ自身が気付いてしまった。
「照明部に逃げたわけじゃない。ひとが撮れないのなら、光で演出しようと思った! 光で照らして、影で描いて! そのひとが美しく、そのひとが荒々しく! シーンによって、カットによって映えるように! そんな仕事がしたくて、照明部になった! けど……!」
ヒイラギが右手に手を落とす。―――手のひらを横切る、ケロイド状の肉の色をした大きな傷。
「この手じゃもう、重たいライトは運べない。握力が落ちて、もう駄目なんだ。……後悔はしていない。けど、わたしはもう照明部にはなれない」
照明部には、なれるはずだった。
時間をかければ、少しずつ学んで経験を積んでいけば―――いつかはなれると、ヒイラギ自身思えていたのだろう。
けれど、そんな未来は、来なかった。
「それなの、に。―――わたしはなににも、成れてない、のに! ―――どうしてそんな風に言うの!」
それは本当に身勝手な叫びだった。
憧憬を抱かれて、どうして憧憬なんて抱くのと叫ぶ、わけのわからない絶叫だった。
―――それでも、ヒイラギが―――この少女がこんな風に身勝手を叫ぶことなんて今までに一度もなかったのであろうことだけは、はっきりとわかった。
揺らいでいる。どうしようもなく、自分を保てずに揺らいでいる。
傾いで。よろめいて。必死に、バランスを取って。
どうにかどうにか、ここまで来て。
いつ倒れてもおかしくなかった。
いつ倒れていてもおかしくなかった。
「こんな、わたしですら大嫌いなわたしに―――わたしの面倒すら見れない、わたしに! 憧れたりなんか、しないでよ!」
「―――でもお前は、それでもここまで来たんだろ! ぎこちなくしか動かなくなった手で、カメラを握ったんだろ!」
「うるさい!」
「俺の話をちゃんと聞いて、俺が本当に言葉を必要とした時は絶対に答えたじゃないか! あんたについては口を閉ざしたけど、俺に関しては答えたじゃないか!」
「うるさい!」
「俺がもうどうしようもなくなってるのを感じて、言葉を返したじゃないか!」
「それはあなたが見当違いだったからだ! どうでもいいものと戦おうとしていたからだ! 世界の悪意なんてどうだっていいんだよ! 戦う価値のあるものと戦え!」
「俺が何を言おうと、あんたは遮ったりしなかった! 俺を無視しなかったし、なかったことにもしなかった!」
「だってあなたは人生の続け方を知りたかったんじゃない! 気付いていないだけで人生のはじめ方を識りたかったんでしょう! 見当違いのものに憧れてはいるけれど、でも何とかしようと必死だった! そんな人間を無視なんかしない!」
「ああ、そうだよ! そうだったんだ! そんなことすら俺は気付けてなかったんだよ! なのにお前はちゃんと気付いて、それで―――俺が気付けるように何度も言葉をくれたじゃないか!」
「わたしはっ! わたしはわたしの心の面倒すら見れてないんだ! そんな人間に憧れるんじゃない! いい迷惑だ!」
「死んだ恋人のことが忘れられないだけだろ! それの何が悪いんだよ!」
「悪いに決まってるでしょ! いつまでもいつまでも―――生きてる人間がもう死んでいる人間のために生き続けて、死んだ人間が生きている人間のために在り続けるなんてことが続いていちゃいけないんだ! 死者は眠らせてあげないといけない! それなのにいつまで経ってもわたしは、わたしはそれが出来ない!」
「それはきっとあんたがまだその死に納得出来ていないだけなんだよ! 死が伝わる速度なんてひとそれぞれだ! そいつが納得出来るまで、理解が出来るまで! 飲み込めるまで! ―――どれだけ時間がかかったって、それがすべてなんだよ!」
「うるさい!」
「認めてやれよ! ―――少しくらい、あんたをあんた自身が赦してやれよ!」
「うるさい!」
ヒイラギが耳を塞いだ。そのまま蹲ろうとして―――許さず、その細い腕を握った。
「あの家に、あんたの家に住んでる男は! あんたを愛する男なんだろ! ―――あんたが愛する男なんだろ!」
振り解こうともがくヒイラギが―――動きを、止めた。
「それがあんたがあんたを赦せない一番の理由、なんだろ! 愛して、喪って―――そのあとに他の人間を愛せたのに、どうしてもオーリ・キサラギのことが忘れられないのが、あんたがあんたを赦せない理由なんだろ!」
深い深い眼がばっと上げられ、グレンを睨む。―――その眼、から。
ぼろぼろと涙が、零れた。
「……オーリ、は……過去のわたしに会いに行くって言ってた。……未来のわたしに会いに行くとは、言わなかった。一生気を付けろ。頼むから無事でいて。あんまり怪我しないでって、それしか。……それが意味することがわかる? 最期にその言葉を選んだ意味が、わかる?
わたしがこの先、オーリ以外のひとを愛せるように。愛して、愛して、愛されるように。……わたしがオーリじゃなきゃ嫌だって言ったから。……最期の最後まで、オーリはわたしのことを考えて言葉を選んでくれた。……選んで、たんだ。自分のことだけで手一杯だったはずのあの時に」
「あんたがそんなあんただからオーリ・キサラギはそう言葉を選んだんだ、ろ。……ひとのことに必死になるあんただから、愛したんだろ。……そういう男が、そういうところを大切にする男があんたを愛したんだ。……アパートにいる男だって、それを識ってるよ」
「ともりは、オーリのことを知らない!」
「お前を通してそいつを見たんだろ。お前がそこまでそいつを愛してるってわかったんだろ! あんたがひとのために必死になるところを、そういうところを大切にする男があんたを愛して、そんな男をあんたが愛しているって識ってるんだ! だからだ! だからあの部屋で、だから異国の地まであんたを追いかけて来たんだろ! 愛する女がいつでも帰って来れるようにあそこであんたを待ち続けてるんだろ!」
「なんにも、知らない癖に! 本当になんにも知らない癖に! それ、なのに! なのに……!
―――ともりはわたしを愛してくれた。……オーリのことを愛するわたしを、愛してくれた」
震える声が―――涙を流す。
「―――忘れて、置いていってくれてよかったんだ、……こんな面倒臭い女」
よろめいて、疲れ果てて、……それでもまだ、自分の脚で立つ女を―――見下ろす。
「……愛する人間が増えた、ところで。
例えば弟や妹が増えたところで。愛情は減ったりしないよ。今まで存在していなかった誰かも『愛情』の部屋に入れることは、裏切りじゃない。残酷じゃない。……あんたの愛する男があんたの未来についてなにも言わなかったのは、きっとあんたが幸せになるってわかってたからだ。自分が見守らなくても、そばにいなくても。……きっと誰かを愛し愛される幸せな人生を送れるってわかったからだ。……きっと、
『そういう女を自分は愛した』って、自信があったんじゃないのか」
嗚咽が朝を濡らす。
やって来た夜明け―――闇の夜の終わり。
昇って来た朝日は美しかった。
きらきら、きらきらと遠くまでを照らしていた。