アウロラの夜明け 5
国境を越える前に少女は眼を開けた。じっと窓の外を見て―――そしてついに、国境を越える。
「……」
一度、何の変哲もなく瞬きをして―――長い睫毛が、揺れた。
「……越えたな」
国境越えに感慨があったわけではなかったが会話のきっかけが欲しくて言うと少女はうなずいた。
「今回は何もなく越えた」
「え?」
「前はテロリストが出たから」
「……え?」
瞬く。少女は窓の外を見つめたままだった。
「……」
冗談だろう。流石に。……のろのろと言葉を探し、無難に口にする。
「このあとどうするんだ?」
大都市というわけではないがある都市の名前を口にした。そこからまた飛行機に乗るらしい。
「飛行機……」
流石にそこまで大移動するとは思っていなかったので少し驚いた。本当どこにでも行くんだな。
「……飛行機に乗る前時間はあるか? 服とかを買いたい」
「わかった」
少女はうなずいた。そして付け足す。
「防寒着も買って」
「え?」
「寒いところに行くから」
「……」
そうか、としか思えずうなずいた。
問題なく列車は都市に到着した。
空港から一度出て、タクシーを使って市街地まで出て適当なショッピングモールに入る。一応正体がばれないようにサングラスにニット帽を装備したが、……近いとはいえ隣国だった。誰も気付いた様子は見せない。いや、気付いていても気にするほどではないと思われているのか。
どちらにせよ買い物はスムーズに進んだ。それだけはほっとする。
「そんなに寒いところに行くのか……というより最終的にはどこに行くんだ」
特に隠しもせず少女は街の名前を口にした。黄金の刃の名を持つ土地の名を。
「……オーロラが見たいのか?」
田舎街だった。なのでそれくらいしか思い付かず訊ねると少女はうなずくわけでもなく横に振るでもなく中途半端に首を動かした。
「半々」
「半々?」
「友人に会いに行く」
「ああ……」
東洋人で住んでいたのも母国らしい少女は、しかし世界のあちこちに友人がいるようだった。素直に少し羨ましい。
「なあ」
「なに?」
「お前、俺と話す気ある?」
「……というと?」
「お前俺に興味ないだろ」
「……あんまりね」
僅かに肩を竦められた。
「……だろうな」
「怒らないんだ」
「怒れないだろ。流石に自分がどれだけ無茶苦茶なことしてるかくらいわかってる」
いきなり現れていきなり意見を押し付けられて行動を共にされて。
少女はお人よしだ。とんでもないレベルの。
「……俺が言うのもなんだが、よく引き受けたな」
「……人生に必死なひとを拒絶出来るほど強い言葉は持ち合わせてないよ」
静かな、何の負い目もない言葉だった。
「そしてそれを笑おうとも思わない」
「……そうか」
少女の眼が深い深い色をしたまま凪いでいたので―――そのことにどこか、ほっとした。
買い物を終え空港に戻りすぐに搭乗手続きへと移る。
本日二度目の飛行機に搭乗しながら―――今回は小型機だったが―――指定された席に座る。
座席にあるモニターを弄り、ついつい映画のページにしてしまい―――その映画リストにグレンが出ている作品を見付け、ついぎくりと手を止めた。グレンが出て、そして叩かれはじめるきっかけになった例の映画だった。
「あ、これ観た?」
斜め前の座席の女が隣にいる女に話しかける。指を差すのは、見慣れた顔の男。
「ああ、すごい叩かれてたやつ? 観てない。そこまで酷いのかと思ったら観る時間が勿体無くて」
「そう? あたし逆に興味が湧いて観ちゃった」
「へえ、どうだった?」
「それ訊いちゃうの?」
―――とん、と、少女の腕が軽くグレンの腕に触れた。
はっとして隣を見る。―――少女はこちらを向いていなかった。―――けれど。
「―――必死だったの?」
「え……?」
「わたしはまだ観てない。批評で避けていたわけじゃなくて、単に恋愛映画自体あまり観ないの。だから観てない。……あなたはこの映画に、この世界に必死だったの?」
シンプルな、問い。
だからこそ、返す言葉も飾ることが出来なかった。
「……必死、だった。……いつだって必死だったん、だ……」
そう。―――必死に、必死で。
自分じゃない誰かの人生を、形にしようとした。
「……必死で、辛かった。……いつだって必死で、いつだって……いつだって苦しかった」
「当たり前だよ」
短く、少女は言った。
「ひとの人生を創るんだから。
苦しくたって仕方ない」
「……」
視線を、落として。……ゆっくりと、その言葉が胸の中に落ちてゆく。
「……そう、だな」
そう。―――そうだ。
生まれて、時を過ごして、成長をして。
出会い、別れ、笑い合い、喧嘩をして、ひとと関わって。
そういう風に。当たり前に。
グレンが演じた人物にも、歴史がある。人生がある。
グレンはそのたった一瞬に関わっただけなのだ。
その人物だって、父親と母親が出会って―――それから、人生がはじまって。
辿り出したらきりがない。
終わりなんて、どこにもない。はじまりがどこにもないのと同じように。
「……ヒイラギは。国では何をしていたんだ」
「……大学を卒業して」
「大学では何を学んでいたんだ?」
「映画」
流石に驚いて、小さく息を吞んだ。
「映画?」
「そう。卒業して、少し経ってから映画の照明部になった」
「照明部……」
撮影部―――では、なくて。
「……その怪我は、仕事中に?」
少女の手のひらを二つに分けるように走る大きな傷。ケロイド状のその傷はそこだけ赤く肉の色をしていて、大怪我だったことははっきりとわかった。
少女がゆるりと首を横に振る。
「違う」
「……」
「これは個人的」
「……」
どんな個人的だよと、茶化すことは出来なかった。
「……後遺症はないのか?」
「あるよ。握力は左手より下がった。文字は書けるようになったけどぎこちない。時折痛むし、神経も少し痛めたから咄嗟の時に動かない。日常生活を送る上ではそこまで極端に困らないけど、仕事は選ぶ」
「カメラは―――」
「握れないわけじゃないから。左手で上手く支えれば構えられる。長時間構え続けるのは難しいけど、休み休みなら」
「……そうか……」
個人的に負った怪我。……まるで、ナイフを掴んだような。
「……後悔してるか?」
残酷な問いだと、わかっていた。
けれどどうしても、訊かずにはいられなかった。
くすりと微笑って―――少女が首を横に振る。
「ううん。―――反省はしてるけど、後悔はしてない。次同じことが起こっても同じことをする」
満足そうな、そんな声で。
「……そうか」
すとん、と。胸の中に落ちた思いは、……羨ましい、という思いだった。
―――そんな風に。そんな風に思えるようなことが、今までグレンにあっただろうか? ―――否。
あるのだ。あったのだ。……だからグレンは今、どうしようも出来ず立ち尽くしてしまったのだ。
「……俺の出た映画、他にも少しあるけど。……観たことある?」
「あるよ」
「……どれ?」
少女はすぐさまタイトルを言った。ミステリーものの映画。
俳優としてもデビューして、二本目の作品だった。
「……」
どうだった、とは訊けず。
ただ、そうか、とだけ答えた。
「……ヒイラギの撮る写真は、青い」
「……それが多いね」
「どうして」
「それが一番、わたしにとって描き易いから」
「……何がきっかけで?」
真剣に訊ねた。どうしたらそんな世界を―――自分の世界を持てるのか、それが何のきっかけだったのか、……ひょっとしてきっかけすらないのか、何もはっきりしていないのか―――すべてが謎だった。すべてが未知だった。
「いつから写真を撮るようになったんだ?」
「……写真を撮るのは昔から好きだったよ。それこそ子供の頃から。青色は好きだったからそういう写真は多かったかもしれないけど、でもここまで極端ではなかった」
「じゃあいつから、何がきっかけで?」
「……青い写真ばかり撮るようになったのは、この国に来てからだよ。別に特に目的があったわけじゃなかった。ただ言った通り、写真を撮るのが好きだったから。この国のあちこちをふらふらしていたから、行く先行く先で撮りたいものを撮って行った。……それが青い写真ばかりだった」
「じゃあどうして青い写真ばかり撮り出したんだと思う?」
どうしてだか、少女はその答えを自身で識っている気がした。
「……」
ほんの僅か、首を横に振られる。
「答えない」
はっきりと―――線を引かれた。
「……そうか」
「うん」
「……」
ありがとうと礼を言うのも、悪かったと謝るのも何か、違う気がして。
言葉がなくなって―――けれど、黙ってしまうことも避けたくて。
「……窓際、寒くないか?」
苦し紛れのように、訊ねる。……先ほどもそうだったが、少女は今回も窓際だった。チケットを取る時窓際を指定しているようだ。
「窓際が好きなのか」
まあ飛行機だしめずらしい話ではない。けれど、少女はまた曖昧な仕草を見せた。……答えたくないけれど無視もしたくない。そんな問いをグレンはまたしてしまったようだった。
「……前の時はわたしが通路側だったんだ」
「……」
「だから」
「……そうか」
『前』の時はわたし『が』通路側だった。
その時は―――誰が窓際にいたのか。
誰が少女の隣にいたのか。
問いが続くことが怖かったのかもしれない。少女は早々に眼を閉じて、飛行機が飛び立ち目的地で着陸態勢に入るまで眼を開けることはなかった。