アルデバランの希望
その女性は、その少女に声をかけることを決めた。
「あら、そうねえ、あなた。そう、あなたよ」
「……わたしですか?」
しっかりとした声をかけられ、少女は横を向いた。小柄な少女だ。東洋人のようであるその少女にとってはここは異国の地なのかもしれない。けれど少女の発音にはどこもおかしなところはなく、女性の言葉を正確にヒアリング出来ているようだった。
「ええ、そう、あなた。あなたよ。ねえあなた、私のことはそうね、E・K。E・Kと呼んでちょうだい」
「……はあ」
「それで、あなた。お名前を教えてくれるかしら?」
なるほど、その女性は少女の名前を訊きたかったようだった。名乗るのならば自分からという礼儀を守るひとではあるようだが―――それが明らかな偽名、もしくは略称であっても、名前は名前だ―――唐突なひとでは、あるようだった。スクランブル交差点の信号待ち、一日の時間にしてみればほんの些細な時間。その僅かな時間を突くように奇妙な婦人に声をかけられた少女は一瞬間を置いたものの、すぐに「ユキ・ヒイラギです」と丁寧に名乗り返した。通る声ではないが、やわらかい声だった。
「そう、ユキ・ヒイラギ。いい名前ね。あなた、日本人?」
「はい」
「そう、ということはヒイラギというのは柊ね。……いい名前だわ、本当」
「ありがとうございます」
奇妙な婦人に少女は丁寧に言葉を返し続ける。十代半ば、あるいは後半ぐらいの少女と四十代ぐらいの女性。親子ほどの歳の差だったが、人種が違うので血の繋がりは見えない。
「ユキ、あなた今日一日私に付き合ってくださるかしら?」
「え?」
「ありがとう、お礼はするわ! あなたはいいひとだって聞いているの。お願いされたら断れないってね! ―――さあ、楽しみましょう! 行くわよ!」
婦人はまだ答えを持たない少女の細い腕を取り、『進め』になったスクランブル交差点を勢いよく渡りはじめた。つんのめるようにして少女があとに続き―――否、引き摺られ―――その髪が、ふわりと靡いて不思議な色に染まる。擦れ違うひとが皆、思わず心が惹かれるように、その髪の軌跡を眼の端で追う。
「ちょ……ミセス!」
「あら、名前は教えたはずだわ?」
「ミセス・E・K!」
「ミセスはいらないわ!」
「E・K! いきなりなんです? 付き合うって―――どこに?」
「そう、そうね。目的地。どうしようかしら?」
「え?」
「そうねえ……ええ、女性二人と来れば決まっているわね! そう、ショッピングよ!」
「ショッピング?」
「ええ! ユキ、あなたの髪、とっても不思議な色をしているわね! ぴったりな服を探しましょう! あのお店なんかよさそうね!」
「え、わたしの服なの!」
ぎょっと驚いたように少女の言葉が乱れる。それを全く気にもせず、むしろうれしげに婦人は受け止めて、うろたえる少女の腕を組みぐいぐい引っ張ってショップへと入ってゆく。高級そうなブティックへ。
「いらっしゃいませ、ミセス―――」
「ああ、今日はE・Kと呼んで頂戴! お忍びなのよ!」
ブティックの男性店員に堂々とそう宣言した婦人は、茶目っ気たっぷりにそう言ってぐい、と店員の前に少女を突き出す。
「この子に似合う、ぴったりの服を探しに来たのよ!」
「それはそれは。かわいらしいお嬢さんですね、E・K」
上品な笑みに悪戯っぽさを乗せ、店員は失礼にならない程度に楽しげに笑った。少女を、不躾にならない程度にそっと見る。静かに歩み寄った女性店員が婦人と少女のコートを脱がせ、預かった。
「不思議な髪の色をしていらっしゃいますね。その髪の色は、生まれつきですか?」
「……父の色です。父からもらいました」
高級そうなブティックに連れ込まれ、流されるまま流されていた少女は、しかし髪の色についてきちんとそう答えた。それを聞いて店員が微笑む。
「お父上の髪の色なのですね。とても素敵な色です」
「ありがとうございます」
「では、そうですね。この色に似合う色と言いますと―――」
「え、あ、やっぱそういう話になるの?」
逃げ出そうか否か、と思案するような顔になった少女は、自身の格好を見下ろす。シャツにジャケットに細身のジーンズによく履き込まれたワークブーツ。街を歩くのに恥ずかしい格好ではないが、高級ブティックに入る服装ではなかった。―――否、もう入ってしまっているけれど。
「この子には赤とか青とか原色が似合いそうね! 白や黒のモノトーンでもいいわ!」
「そうですね。タイプはまずどれに致しましょう?」
「やっぱりワンピースね! 素敵なのをいくつか見繕って頂戴」
「畏まりました」
恭しくうなずいた店員が足音もなくその場をあとにする。少し呆然とする少女とご機嫌な婦人を残して。婦人はうきうきと壁にかかる服を自ら選びはじめる。
「どれが似合うかしら? フリル? 重たくなければありね。マーメイド? 素敵ね!」
「あの、だから……え? あ、はい」
女性店員は二人、上品に微笑みながら少女を囲み、両腕を広げるように指示をする。思わず流されて両腕を広げた少女は、メジャーをのばした女性二人に身体のサイズを測られてゆく。
「こ、個人情報が次々と。悪いことが出来なくなる」
「そうね、でもとりあえず今日一日は足首にあるその拳銃は使わないわよ。もし誰か悪いひとが来ても私が絶対に盾になってあげるわ」
「ばれている」
特に隠すことなく少女は肯定し、店員二人もそれについては触れなかった。何のフォローにもならないがないよりかはましかと、少女は「ちゃんと資格は持っていますよ」と告げる。
「だからまあ、悪いことではないです。―――悪いことをしなければ」
「そうねえ。だったら問題ないでしょう! あなた本当に細いのねえ! 胸のサイズはいくつだったかしら?」
「今こそ銃を使うべきかな」
少女がぼんやりとぼやく。広げっぱなしの両手を、楽しそうに微笑みながら女性スタッフが下ろさせる。
「ふうん、そうね、体格の割にはある方、じゃないのかしら?」
「あれ、意外と好印象?」
「けど、胸元が大きく開いたのだとちょっとさみしいかもねえ」
「怒りとかじゃなく悲しみが湧いて来た」
「まあ盛る方法はいくらでもあるわ! あきらめないで!」
「すみません、ハンカチ貸して頂けます?」
真顔で少女が女性店員に問うて、女性店員はくすくすと微笑った。
「お待たせ致しました」
男性店員が戻って来た。女性陣の楽しげな、少女ひとりだけが真顔の空間におや、と微笑み、婦人と少女を奥へと誘う。
「奥に用意させて頂きました。こちらへどうぞ」
「ええ、さあ、ほら、行きましょう!」
るんるんと楽しそうに婦人は少女の手を引き、何だか遠い眼をした少女はそれに連れられ奥へと歩む。ひとつの大きな部屋―――明るく、高そうな調度品が揃う部屋―――にずらりと服が並んでいて、その中から婦人が少女に似合いそうな服を次々に選んでゆく。
「これと、これと、これとこれ。あとこれもいいわね。これも……あとこれとこれとこれかしら? ええ、とりあえずこれね。さあ、まずはこれから着てみて?」
「ゲシュタルト崩壊って知ってます?」
「何を言っているの、ベルリンの壁が崩壊された時あなたはまだ生まれていないでしょう?」
「個人情報」
ぼそりと少女が呟く。
「代的にはその代ですけどね。早生まれだから」
「そうね。さあ、早く着てみて!」
試着室へ背中を押された少女はひとり、嘆息する。またややこしいのかそもそもそれすらわからないことになったなと思いながら、ジャケットを脱いでハンガーにかけた。
それからしばらくはただひたすら、脱いでは着て、脱いでは着ての動作が続いた。
着ては試着室を出て、
「いいわね!」
「素晴らしい」
着替えては試着室を出て、
「うーん、これはいまいち。色が微妙に合ってないわね」
「もう少し明るいお色味でしたらよかったかもしれませんね」
着替えては試着室を出て、
「なかなかね! これはいいわ!」
「見事に着こなしていらっしゃいますね」
着替えては試着室を出て、
「これもいいわ! 他に何色があるのかしら?」
「これの他に緑、黒がございます」
「黒も着てみて頂戴!」
着替えては試着室を出ながら、ああかつて自分も親友と共に妹にこういうことをしたなと、まるで前世のように少女は思い出していた。かわいい妹と最強の親友に胸中で、わたしは今異国で服をとっかえひっかえしています、少しお腹が空いてきましたと、そんな風に報告をする。
婦人が一番歓声を上げたのは、最後の服を着て試着室を出た時だった。
「これは……一番素敵ね!」
それは赤いワンピースだった。鮮烈な赤ではなく、少し黒味がかった、ワインレッドのワンピース。同色の布で作られた細いベルトが付いていて、穴がないタイプの金具調整なそれは、身体の一番細いところできゅっと締められる。すると胸下から下にすらりとドレープが流れ落ち、少女が少し動くとそれがふわりと広がって弧を描き、するっとなめらかに脚に絡んで落ち着く。
大人っぽいそのワンピースは、少女にとてもよく似合っていた。
「これにしましょう」
満足そうに婦人は微笑った。少女は少し不思議そうに自分の格好を見下ろし、それからはにかむように微笑った。
「ありがとう」
微笑みと微笑みが合う。―――穏やかな瞬間。
その瞬間は、婦人が眼をそっと細めた―――そのほんの一瞬で、終わった。
「さあ次は靴よ!」
「え?」
「そのあとはアクセサリー! ヘアメイクもするわ!」
「ちょっ、」
「こちらへどうぞ」
その有能な男性スタッフは上品な笑みを浮かべたまま、いつの間にかにずらりと並んだヒールを示して見せた。
あけましておめでとうございます。
今年もどうか、よろしくお願い致します。