セイリオスの逃亡 24
愛情に縋ることの何がいけないのだろうか。
答えは否だ。なにも悪くない。
子供が両親に手をのばすように。
望んだ相手を愛し、愛されることは―――それを生きる糧にすることは、なにも悪くない。
愛されたいと願うことは罪ではない。
けれど、それが罰のように誰かを苦しめることがある。―――そんなことは、人間が繰り返す、遺伝子に刻み込まれたルートのように、存在している。
マリア・オルティスは弱い人間だった。
愛情を常に求めている人間だった。
そしてその反面、それを諦めている人間だった。
従兄弟を愛している(けれどそれは、誰にも祝福されない)。
従兄弟を愛している(けれど従兄弟は、自分のことを愛さない)。
一方的。一方通行。―――じゃあ、それが通うようになるには、どうしたらいいだろう? 何が必要だろう?
マリア・オルティスは常に不幸を纏っていた。自分に触れる空気、言葉、思いやり。……それらすべてに不幸を見出し身に纏う、そんな人間だった。
―――とてもとても不幸になれば、自分を見てもらえるのではないだろうか。
同情から、愛情が生まれないだろうか。
このひとには自分がいなければと―――そんな風に、思うようにならないだろうか。
―――かつて、オーリ・キサラギが自分に対してそうであったように。
「そう。―――だからあなたは、オーリを利用した」
現れたマリアに、少女が言う。
オーリが愛した、少女が言う。
「オーリは言ってた。……昔付き合ってた彼女も、首を絞めてしまったって」
「―――」
首を。……絞めた? ―――オーリが?
「PTSDを患ったオーリは、誰かと一緒に眠れなくなった。……それをオーリ自身、わかっていた。だから……あなたとも距離を置こうとしたはず。理由を話して、距離を置こうと。……発症したばかりでオーリは自分に警戒していたと思う。用心していたと思う……だからその話を聞いた時、わたしはおかしいと思った。……どうしてそんなことが起きてしまったんだろうって」
話に付いて行けなかった。確かにオーリはPTSDを患い退役した―――そしてその直後、マリアと別れた。
精神的に不安定になるということは聞いていたが、首を絞めるという話は聞いていなかった。
「誰かと眠らない限りそれは発症しない。……夜ひとりで眠れば済む話。なのにオーリはマリアの首を絞めた。……あなた、オーリに自分の首を絞めさせようとわざとオーリと一緒に寝たでしょう。オーリが眠ったあと、家に忍び込んで―――オーリの隣に、横になったんでしょう。……ひとの気配に気付いて起きたオーリが、混乱して、わけがわからなくなって―――あなたの首を絞めるように」
「ッ……」
振り返る。マリアはまだ、あの曖昧な笑みで微笑み続けていた。
「痕が残る。明らかに、首を絞められた痕が。……あなたはそれを手土産に従兄弟の元へ行った。助けてと逃げ込むことくらいやったでしょう。不幸を全部背負って、愛したひとに裏切られたと、そんな風にして従兄弟の同情を惹いたんでしょう」
言葉は断言だった。恋人に傷付けられたと不幸を背負い、自分を頼り身ひとつで助けを求め縋って来る女を―――拒絶出来る人間が、どこにいるだろうか。
従兄弟はアマンダのことを身内の反対を振り切ってまで付き合う女ではないと考えていたようだが。だが、そんな風にして縋られて―――マリアの齎す、不幸に酔って。
自分はここまで必要とされているのだと思って―――満たされて。
同情の先に愛情を繋げて。……マリアを愛し出すのは、果たして偶然だったのだろうか。必然だったのだろうか。―――どちらにしても。
マリアはずっとずっと願っていた―――従兄弟との愛を、手に入れた。
オーリの心を、犠牲にして。
「オーリは避けていたはず。あなたを傷付けないように、注意していたはず……けれどあなたの首を絞めて、我に返って……ぜんぶ、気付いたんだ。利用されたこと。結局自分のして来たことはあなたにとってほんの少し自尊心を満たすだけのもので、最愛のものではなかったことを」
それでもオーリは。何も。
マリアへの恨み言なんて、何ひとつとして。
オリヴァーにもディアムにも、言わなかった。
すべてを吞み込んで―――別れた、振られたと、ただそれだけを。
「どこでわたしのことを知ったのかは知らない。けど、わたしのことをあなたは知った。どうせあなた、結局従兄弟に振られたんでしょう。そしてオーリのところに戻ろうとした」
その時はじめてマリアから表情が消えた。従兄弟と別れた。―――振られた。その言葉だけに反応し、じっと少女を見据える。
「その時にオーリがもうこの世にいないことを知ったんだ。……つい最近でしょう?」
少女が鼻で嗤った。少女が零した、少女らしくない仕草。―――紛れもない怒り。
「ねえ。―――あなたはオーリのことを残酷に傷付けて棄てたのに、どうしてオーリはあなたのことをずっとずっと想っているなんて思うの」
だってオーリは私のことを愛していたもの
私にだって何か遺してくれているはずだわ―――そんな薄情なひとでは、ないもの
―――絶句、した。―――本当に? 本当にそんなことを考えて?
どうしてそんなことを考えられるのか。どうしてそんな風に思えるのか。
利用して。手酷く傷付けて。棄てて。―――それでどうして、死に際に自分のことを想ってもらえると、思うのか。
「オーリが自分以外の人間を愛するのを認めないとでも? あなたは他の人間を愛しているのに?」
勝手だね。―――少女はもう、笑っていなかった。
ただただその眼を―――マリアを、眼の前を、残酷な世界すべてを吞み込みそのまま映すように、その眼が深く深く色を濃くする。
「自分に何も遺されていないのが納得いかなかった。愛情が遺されていないことが理解出来なかった。……どうして自分に何も遺されていないんだろう。そうか、自分が貰うはずだった愛情を奪った女がいる」
は、と息を吞んだ。愕然として少女を見つめる。
価値? 財産? ―――違う。マリアはそんなものを気にしていなかった。そんなものじゃ、なかった。
オーリ・キサラギの愛情。
遺された、愛のあるもの。
何でもいい。何だっていい。愛が感じられるものならば。自分にとって価値があるものならば、なんだって。
少女が持っているであろうそれ。
持っているであろうなにか。
どうすれば手放す? どうすればいい?
「―――幽霊になってオーリが現れたと知ったら。気味悪がってそれを手放すんじゃないかなんて、本気でそう思ったの?」
―――今度こそ、本気で愕然として―――絶句した。
「嘘……だろ……?」
信じられなくて。―――理解、出来なくて。
無表情に少女を見据えるマリアに、問うという形すら取らず―――言う。
「そんな馬鹿な話……あるわけ、ないだろ……? どうして……どうして、そんな風に考えられるんだ……? 本当に……ほんとうに愛する人間が、幽霊になったとして……どうしてをそれを、気味が悪いから手放そうとか、そんな風に思うと……思えるんだ……?」
―――愛する故人の霊が、自分に危害を加えるのならば別として。
愛するひとが霊となって眼の前に現れたとして―――驚くだろう。恐れも感じるだろう。
でも、それがずっと? 会話出来て、今眼の前に居て、また会えたのならば―――愛おしいひとを前にして抱く感情が、恐怖と嫌悪だけだと?
他にまずないかと、思い付きもしなかったのか?
「……っ……じゃ、じゃあ、あの幽霊、は……」
「従兄弟では、なさそうだね。協力する理由もないだろうし。けど、その従兄弟の兄弟ならどうだろう。遺産が手に入ればお金になるとか適当に言い包めてこっそりこの街に来させて、夜中にちょっと姿を目撃させることぐらいしてくれたかもしれないね」
そもそもことの発端は、オーリと従兄弟が似ているというものだった。その従兄弟の兄弟ならばまた、オーリに似ていてもおかしくはない。―――夜、遠目に見て思わず間違えてしまう程度には。
「……オーリはあなたに、何を遺したの」
ぞっとする声だった。―――ぞっとするくらい、何も含まれていない声だった。
「返して。―――それは私が貰う愛情だったのよ」
「マリア……」
理解が出来ない。理解が及ばない。どうして。―――どうして。
どうしてそんな風に、考えられる。
「あなた、本当にひとを愛したことが、ないでしょう」
静かに少女が言った。―――本当に、心底マリアのことをどうでもいいと思っている眼だった。
それでも世界を映し吞み込み続ける眼だった。
「従兄弟のことだって本当はどこまで愛しているのだか。……あなたが愛だと思っているものは、恐らく愛じゃないよ」
「そんなことないわ! あなたに何がわかるのよ!」
マリアが叫ぶのを聞くのははじめてだった。いつも静かに、いつも抑えた声で話していたマリアが眼を見開き血が滲むほどの強さで絶叫しているその姿を見るのははじめてだった。―――その狂気染みた姿を、はじめて眼にした。
「私はケニスを愛している! ずっとずっと愛している! 誰も理解してくれないだけで愛してる!」
「嘘だ」
「嘘じゃないッ! ケニスを愛してる、ケニスを愛してるケニスを愛してる! 私はケニスを愛してる!」
「そのためならオーリを利用してもいいと? オーリを傷付けて棄てていいと? ―――わたしが欲しくて欲しくてたまらない時間を、紙屑みたいに棄てていいと?」
「だってケニスを愛してるんだもの! ケニス、ケニス、ケニス、ケニスッ! ケニスのためなら誰だって殺せる!」
狂気に音を付けたらきっと、こんな声になるだろう。
ケニス、ケニスと叫び続ける女。枯れ葉のようだと言っていた髪を振り乱し、掻き毟り、叫び続ける女。
それを破ったのは少女だった。
「嘘だ。だってケニスのためにオーリは犠牲に出来ても、ケニスのために自分を殺すことは出来ないんだから」
女が。
マリアがぴたりと―――黙った。
見開かれた眼が―――信じられないものを見るような眼で、少女を、見る。
「ケニスに振られたんでしょう? 棄てられたんでしょう? ―――そしてまた、オーリを利用してケニスのところに戻ろうとしていたんでしょう? ―――ねえ、ケニスのために自分が身を引くことは出来ないの? あなたのことを要らないと判断したケニスの思いを、決断を、自分の心を押し殺して吞み込むことが出来ないの?」
マリアは。―――言葉を失ったかのように絶句して。
―――そして何も、言い返せなかった。
「愛情は、心の全部が動くんだ」
識っていることを辿るように。
「全部、ぜんぶだよ。ぜんぶ持って行かれて、返って来なくなる。……心って、そういうものだ。愛情って、そういうものだ……誰かの心を利用して手に入れた時点で、それは全然、違うものなんだ」
堪えるように心臓を押さえて。掻き毟るように、押さえて。
少女が云う。
「オーリは心の全部をわたしにくれた。……オーリの心は、わたしが持ってる」
愛しむように。本当に、ほんとうに大切に、後生大事に抱え込んだ少女が。
今にも崩れ落ちそうな少女が、それでも。
それでも自分の脚で立って―――言葉を、紡ぐ。
「あなたには、あげない。……これは一生、わたしのもの」
―――マリアの腕を、現れたその人物が―――掴んだ。
「―――帰ろう、マリア。―――これ以上は無理だ」
「……シド……」
掠れた声でマリアがささやいた。―――長身痩躯の、茶色い髪を持つ青年に向かって。
よく似た背格好だった。
顔立ちも、どこか似ていた。
けれどそれは、全くの別人だった。
「……あんたのその盲目的なところを恐れて、誰もあんたの想いを認めなかったんだ。……いつかそれがわかる日が来るかと思っていたけど……」
「……」
「……行こう。……ここは俺たちがいるべき場所じゃない」
だらんと落ちた、腕を引いて。
その青年は一瞬オリヴァーを見て、それから少女を見た。
少女も黙ってその青年を見ていた。
愛する男に似た、その男を―――幽霊を、見ていた。
その眼にあたたかさはなかった。
ただ本当、その場にその男がいる、ただそれだけを認めているだけの眼だった。
ふ、と男が眼を逸らす。もう抗う力もなくただ脱力するマリアの腕を引き、森を抜けるため歩き出す。
すぐにその姿は見えなくなった。……すべてが去ったかのように、静かだった。
「……」
少女を、見る。……少女は二人が去った方をじっと見つめていた。しかし、特に力むこともなく自然に視線を移し―――オリヴァーと、視線が合った。
「……なあ」
「なあに?」
「どうしてわかった?」
「なにが?」
わかっている、癖に。
だから躊躇わず、言葉にした。
「どうして幽霊がオーリじゃないってわかったんだ?」
少女は眼を逸らさなかった。
その眼が―――世界を吞み込みそのまま映す、海の底の光を宿した深い深い眼が―――まっすぐに、オリヴァーを見据えた。
「お墓に行った時、わかったんだ」
「なにが?」
「ああ、本当にオーリは死んでいるんだなって」
その言葉は、本当にまっすぐで。
「死んでいて―――もう二度と、触れることが出来ないんだなって」
まっすぐで―――折れることが、なくて。
悲しいくらい、美しかった。
「……馬鹿だって、笑う?」
「……笑わないよ」
その眼を見つめたまま、答えた。―――首を横に振って。
「だって、世界には……そういうことが、山ほどあるんだ」
思い知る。想い識る。
悲しいくらい。悲しいことを。
受け入れ難い事実を。
どうしようもない現実を。
足掻いて。もがいて。苦しんで。軋む心を砕かれて。泣き喚いて。血反吐を吐き散らしながら叫んで。どうしようもなく、どうしようもなく激痛を纏って。
―――そうして世界が廻っていることを、どうして笑えようか?
「オリヴァー」
胸いっぱいに想いを抱えたら、きっとこんな声になる。
少女の持つやわらかい声が、……微笑った。
「ありがとう。……オリヴァーがオーリの友達で、よかった」
微笑う。微笑い合う。
世界の片隅で、ほんの一瞬だけ、明かりを灯すように。
「最高の褒め言葉だよ」