セイリオスの逃亡 17
「……どうしてそんな酷いことが言えるのよ」
少女を送り届けたスコット家でアマンダが涙混じりに掠れた声でささやいた。電話越しにその声を聞いたディアムが、鎮痛な声で静かに言う。
『……この世界には悪いことは出来ても酷いことは出来ないひとと、悪いことは出来なくても酷いことは出来るひとがいる。……それを僕らは、マリアから学んだ』
マリアは悪人ではない。―――ただ毒のように、自分も周囲も昏いところへ墜とし込んで行くだけで。
毒自体は悪くない。毒に罪はない。―――それを行使する人間に、悪意があるかないかだ。
マリアの世界は狭く。
彼女と彼女が追い求めていた彼と、それ以外で出来ていた。
「……あんな女に眼を付けられたオーリは運がない。女運悪過ぎよ。……ミユキは別として」
『ミユキは素晴らしい女の子だよ』
同意しそれ以上に訴えるようにディアムは言った。
『ミユキ自身にも問題はある。けれど―――その問題すら、愛おしい』
少女のの一番悪くて一番危ういところは―――少女の一番美しいところなんだなと、胸が苦しくなる思いで、思った。
『……ミユキは?』
「二階で休んでるわ。顔が真っ青で……夕飯もいらないって」
力なくアマンダが言い、電話の向こうでディアムの感情が膨れ上がるのがわかった。
『くそっ……マリア、どうして今さら……オーリはもちろん俺も俺の部下も黙ってないぞ畜生……』
「……部下?」
『俺の優秀な部下だよ。ミユキのことを本当に……まあ、今はまだ確定していないからいい。問題はマリアだ』
「マリアは何が望みなの? オーリの遺産?」
「家を継いだのかとミカゲに訊いていた」
『……確かに家は財産のひとつだ。けど……』
「……古い家よ。あたしたちにとっては特別な家だけど……」
「……資産価値がそれほど高くは、ないんだな」
アマンダが肯定したくなさそうにうなずく。キサラギ祖父母の家に遊びに詰め掛けていた過去。思い出。それらを加味出来るのは自分たちだけで、だからあの家をスコット家が引き継いだのは正しい。そのスコット家が少女にも鍵を渡し、いつでも好きに使えと言ったのも正しい。……マリアだけだ、無関係なのは。
「それにミカゲも、何かをオーリから受け取ったと言っていた」
『……あの封筒の中身か』
少女に封筒を届けたというディアムが言った。
「調べるの? そんなことをするの?」
噛み付くようにアマンダが言った。苦しげに電話の向こうの弟が答える。
『調べたくないよ。だってあいつとあの子の思いだ。二人だけのものだ。……でも、受け取ったものによってはあの子が危険な目に遭うかもしれない。それじゃ本末転倒だ』
「どうすればいいの……」
アマンダも限界のようだった。声は滲み眼も滲んでいる。……今回はこれが潮時じゃないかと、まるでアイコンタクトをするようにスマートフォンを見て、それが見えたわけではないだろうがディアムが空気を読み言葉を紡ぐ。
『……今ここで言っていても仕方ない、か。……少し、休もう。僕らも……思いと感情でいっぱいいっぱいになっている』
「……いいえ」
アマンダが、……その声に遺志を滲ませて、言った。
「休まない。終わらせないわ……行きましょう、オリヴァー」
「行くって……どこに?」
「モーテルよ。そこの近くにその幽霊は現れたんでしょう?」
流石に驚いて絶句した。
『……本気か?』
ほとんど吐息のような、ディアムの掠れた声。弟の声に姉は決意をさらに固くしたようだった。
「ええ。だって今他に出来ることがある? 具体的に」
男二人は―――絶句したまま、黙った。
「……ミカゲには、言わないよ……な?」
「当たり前でしょ。……どんな風に、言えって言うのよ」
その言葉に、力なく、無意味に首を横に振った。―――何も、言えない。
「着いて来て、オリヴァー。これはもう、じっとしていたってはじまらないし、何も終わらないわ」
「……」
電話の向こうで、ディアムが視線で問うているような―――そんな気がした。
「……わかった」
絞り出すように言ったつもりのその声は、オリヴァーが覚悟していたよりも掠れてはいなかった。そのことに驚いてしまう。
電話の向こうで、ディアムが吐息した。
「……行くなら今から行こう。ラルフとモーリーンには口裏を合わせてもらって……」
「ミユキが降りて来た時のためね。あたしは部屋で休んでいることにしておけばいいし。……一応、ベッドの中にクッションを仕込んどくわ」
言い終わるか否か、アマンダは立ち上がって工作をしに行った。電話の向こうとリビング、男二人で残されて―――ディアムが深く一度また、息を吐いた。
『……頼んだ』
それはどちらの女性のことなのだろうと、場違いなほど暢気にそう考えてしまい、オリヴァーは仕草だけでうなずいた。