セイリオスの逃亡 16
たった一瞬のことだった、ようだ。
アマンダが知人に行き会い、あいさつを交わしていたその瞬間―――ふらりと現れたマリアが、少女を〈ジミー・ディーズ〉に連れ込んだ。
たまたまパトロール中、少女の小さな身体が強引に引かれ店内に吸い込まれたのを見、店の前に車を停め運転席から飛び出た。騒々しくベルを鳴らし店内に飛び込む。
マリアは薄っすらと笑っていた。少女の手を握ったまま、笑っていた。
「お話をしましょう? ずっとずっと、探していたの」
「―――わたしが楽しいお話を出来るとは、思いません」
微笑んではいない。けれど、剣のない顔で少女はふるりと首を横に振り、拒否を示した。
「そんなことないわ。それに、楽しくなくったっていいの。時間は取らせないわ」
「いえ、遠慮します」
「―――いいわ。じゃあここでする。オーリの話よ」
カウンターの中にいたポーラが息を吞んだ。幸いなことに客の少ない時間だったが―――その、客でさえも。
「聞いたわ。あなた、オーリと付き合っていたんでしょう?」
「いいえ」
躊躇わず少女は答えた。マリアが眉を顰める。
「……『いいえ』?」
「別れていませんから」
表情を変えないまま少女は続けた。
「だから『付き合っていた』は違います」
それが意味することを悟って。
ぎり、と、少女の細い手首を掴む手に力が籠もったのが、わかった。
「マリア」
漸く口を挟んで、マリアの手を掴んだ。
「離せ。それ以上は暴力になる」
「……」
「マリア」
「……」
ややあって、マリアは少女から手を離した。……視線は、少女から離れない。
「……オーリから、家をもらったの?」
「いいえ」
「嘘。だって鍵を持っていた」
「いいえ。もらっていません」
「じゃあ、何か他のものをもらったの?」
その問いに、オリヴァーも思わず少女を見た。
少女はまっすぐにマリアを見つめていた―――深い深い眼が、マリアどころか世界そのものを吞み込むかのように。
「はい」
―――時間が、止まった気がした。
「……なに、を……?」
「言いません」
きっぱりと少女は答えた。眼を見て、はっきりと。
「あなたには、絶対、言わない」
……マリアを落ち着かせ送り出した。店を出たところで―――マリアが、眼を真っ赤に染めて、言う。
「……オリヴァーやディアムが、私とオーリが付き合ってることをよく思っていないって、知ってたわ」
「……」
「受け入れて欲しかった。歓迎して欲しかった」
……そうはならなかったけれど、とマリアが呟く。
「あなたたちも私のことが嫌いだった」
「……俺たちは君のことが嫌いだったわけじゃない。ただ」
ただ。
「―――君がオーリを傷付けるから、嫌だったんだ」
近付いて欲しくなかった。
触れて欲しくなかった。
その手が、その眼が、その空気が、選ぶ言葉が行動が―――すべてがオーリを、沈めてゆくから。
昏い場所へと、墜とすから。
「だから俺たちは、君のことが憎いんだ」
どうして。どうして。
どうしてそんな風にしか、オーリに固執してくれなかったのかと。
「……それでも私は」
ぽつりと、……墜とすように、マリアは言った。
「それでも私は、オーリに愛されていたわ」
マリアが店の角を折れるのを見て―――止めていた息を、深く深く、吐いた。……魂が削り取られていくような時間だった。
〈ジミー・ディーズ〉をちらりと見る。一度少女と話してから保安官事務所へ帰ろうと、二、三段の階段を上り今度は穏やかにベルを鳴らして中に入って―――その空気に、はっとした。
少女が眼を見開いていた。
信じられないものを聞いたような―――そんな顔を、していた。
「……ミカゲ?」
恐る恐る声をかける―――イーモンが、申し訳なさそうな―――やってしまったという顔で少女に謝った。
「ご、ごめん。知ってると思ってたんだ……」
「っ、イーモン! だとしても、していい話じゃないだろう……!」
ポーラが怒鳴る。そのポーラの怒りようを見て、イーモンが少女に何を言ってしまったのかわかった。
―――オーリの幽霊。
かしゃんと何かが割れる硬質な音がして、ぱっとテーブルの上に赤い液体が広がる。……立ち尽くしていた少女がぐらりと揺れて、テーブルにぶつかったようだった。その華奢な手にまだ湯気の上る熱い紅茶が浸る。
「ミカゲッ……!」
その手を取ろうとした瞬間、少女はびくりと身を震わせた。触れる寸前で手を止める。
浅い呼吸だった。
深い深い眼を見開いて―――浅く呼吸を、繰り返していた。
「―――私に会いに来たかしら」
からんという場違いなほど穏やかなベルと共に声がして―――振り返った。
「マリ、ア……」
「大きな音がしたものだから」
悪びれもせずマリアが言って、のんびりと続ける。
「私に会いに来たのかもしれないわ。だって、オーリはやさしいひとだから。……私が苦しんでいると思って、来てくれたのかも」
「マリア……!」
あと一歩で怒鳴り声だった。なってもよかったくらいだった。
マリアは空気が読めない。状況だって読めない。……マリア、そんなことを言ったら駄目だ。相手が傷付くとオーリが言えば、そう、私って本当に駄目ね、今までずっと彼しか見て来なかったからと悲しげに微笑っていた。
一言一言に毒を含み。
一言一言で不幸を選ぶ。
嘘はないのだろう―――相手の気持ちを考えることもせず、本当のことだけを言って。
隠しごとはないのだろう―――知りたくなかったであろうオーリの気持ちですら、見ることもせず。
「どうしたの? オリヴァー。……オーリが私にとってもやさしかったこと、あなたも知っているでしょう?」
「マリア! いい加減に……!」
「カーター」
静かな声。
制止する―――少女の声。
「ミユキ。……確かにオーリの最後のひとはあなたかもしれない。……けど、彼と長くいたのは、私だわ」
「……その名前で呼ばないでください」
青褪めた顔で―――それでも少女は、そう言った。
「あなたにだけは、呼んで欲しくない」