セイリオスの逃亡 11
『……マリアは従兄弟を愛していた。……写真を見たことが、ある』
そう。それは確かに、オーリに似た青年の写真だった。
「……眼の色は?」
どうしてだかそこが気になったのか、少女が問う。ほんの僅か、揺れた声だった。
「眼の色は緑。……全然、似ていなかった」
オーリの眼は灰色だ。あまり見る灰色ではなかったが……。
「そう」
何故だか少し満足気に少女はうなずいた。
「話を折ってごめんね。……それで?」
『幼い頃からずっと愛していたそうだ。その従兄弟、一筋。……けれど周りはそれを認めなかった』
従兄弟だ、結婚は出来る―――だがマリアの家族はそれを認めなかった。決して、認めなかった。
『マリアは愛する従兄弟を手に入れられなかった。……その時偶然出会ったのがオーリだった』
似ている、と。
涙を湛え、触れていた女。
初対面の女にいきなりそんなことをされて驚かないわけがない。乱暴に振り払うことも躊躇われ、結果成されるがままになったオーリ。
「ふうん。そう」
少女の眼が薄っすらと細められた。アマンダとそれを見て、内心どうしようかと密かに焦る。
『……マリアはそれからオーリに猛アタックした。猛アタックというより……』
「……あれはもう、狂気染みてたよ」
「……オリヴァーがそんな言い方をするのはめずらしいわね?」
少し驚いたようにアマンダが言った。
「オルティスとは、大学時代―――みんながこの街を出てから知り合ったってことはわかったけど。……私当時、何も聞いてなかったわ」
『正直、何て言ったらいいのかわからなかったんだよ』
困ったようにディアムが言い、同意してオリヴァーもうなずいた。
『俺たち二人はオーリに別れて欲しかった。……マリアのオーリへの執着はね、異常だった。……いや、ミユキ、ストーカーが異常だって言ってるわけじゃないんだ』
「別に何も言ってませんけど」
「……ミカゲ?」
「ですからわたし何も言っていません」
「そ、そうか」
……ストーカーを擁護する派なのだろうか。だとしたら変わっている。
『実際マリアは精神科に通院していた。……本当に、不安定なひとだったんだよ』
あれは鬱の一種だったのだろう。心から愛する、愛し続ける男と結ばれることを誰も望んでくれず、否定しかしてくれず。
絶望の淵にいた女の前に現れた、愛する男とよく似た容姿の男。
―――マリアは、縋った。
全力で縋った。
自分の弱さを、あなたが居てくれなければ私は生きていけないのだという自分の脆さを隠しもせずむしろ見せ付けて、見棄てないでくれと時間をかけて何度も何度も縋った。―――オーリに。
『彼女は自殺未遂もした。……オーリは見放せなかった』
それが残酷なやさしさであることはオーリ自身もよくわかっていただろう。―――それでも、眼の前で血を流し見棄てないでと泣く女を見放すことが、出来なかった。
女運が悪い。―――そんな軽い言葉で片付けてしまえるものではない。けれど、これしか言いようがなかった。
―――あの時のオーリは、本当に、本当に女運が悪かった。
『―――別れを切り出したのは、マリアからだ』
そう。―――マリアからだった。
『二年と少し付き合った頃だった。その間、オーリは従軍していたから、マリアとは遠距離だったけれど……でも戻って来ている時はほとんどの時間をマリアと過ごしていた。……そして』
そして。―――オーリは。
『……君も知っていると思う。PTSDを患って、退役した』
心を病んで―――苦しんで。
ぼろぼろになって、戻って来た。
『自分が不安定だから。マリアをそばに置かないようにした。きちんと説明して、事情を話して……でもマリアは納得しなかった』
―――それが、恋人を想う美しい理由に感じられなかったのは、何故だろう。
『オーリはその当時、不眠症で……薬も服用していた。マリアの心の面倒を見る余裕なんてなかったんだ。だけどマリアはオーリのそばを離れなかった。……そしてある日、マリアが別れを切り出した』
マリアは、
『オーリを棄てて、従兄弟と付き合ったんだ』
―――とん、と、少女の細い指先が、テーブルを叩いた。
「……酷い人間」
……吐き棄てるように、アマンダが言った。
その緑の眼から、……堪え切れなかった涙が、こぼれる。
「……よく、ミユキは……」
今は二階に行った少女を、想う。……表面上はすべてを押し抱いて隠し、現さなかった少女。
―――どうしてよ! ―――先ほどアマンダが叫んだのを、思い出す。
「どうしてよ! ―――どうしてそんな酷いことが出来るのよ!」
テーブルを叩いて―――悲しそうに。
本当に、本当に、悲しそうに。
ぼろぼろと涙をこぼして、友人の不遇を、叫ぶ。
「アマンダ」
そっと、少女がアマンダの手を握った。
「……手が、痛むよ」
「っ……!」
アマンダは、少女を見て。―――表情を変えない、……隠す、少女を見て。
―――本当に、本当に、悲しそうな顔をした。
「ミっ……ユキっ……」
「うん」
「ごめっ……ごめん、ねっ……」
「……どうしてアマンダが謝るの?」
「ミユキが泣けないのにっ……あた、あたしがっ……」
「アマンダはオーリの幼馴染でしょう? ―――泣く権利だって、怒る権利だって悲しむ権利だって、あるよ」
「っ……!」
ぎゅっと強く強く眼を瞑り、アマンダが慟哭を堪えた。
「……っ……ごめ、ディア……つづ、き……」
『……』
「ディー」
少女が、呼んだ。
『……なんだい、ミユキ』
「その従兄弟は、マリアのことをどう思っていたの?」
「あ……」
気付いたように、アマンダが掠れた声を漏らした。
「そう……ね……その、従兄弟は……? 家族に反対される以前の問題として、従兄弟は……従兄弟はマリアのことを……?」
『―――直接話したことは、ないんだ』
それでも―――知って、しまった。
『恐らく従兄弟は―――『付き合ってもいい女』だと思っていた』
「……なに、それ……」
『付き合う人間に不自由しない男だったようでね。……たまたまその時、従兄弟には誰もいなかった。……マリアはそこに付け込んだ』
「……でもそれまで彼女がいなかった時がなかったわけじゃないんでしょう? ……その時マリアを選ばなかった理由は……やっぱり家族?」
少女が問うた。オリヴァーはうなずき、ディアムは言葉で返す。
『そう。家族の反対を押し切ってまで付き合う気にはなれなかったんだ。―――マリアのことを別にそこまで愛してはいなかったんだよ』
それでもマリアは愛していた。―――盲目的に、愛していた。
「……じゃあ、何で……何でその時は、付き合えたのかしら……」
「……ミカゲ?」
ふつりと黙り込んだ少女にそっと声をかけた。軽くうつむいたまま、無言で少女は首を横に振る。
それきり、誰も言葉が継げなくなった。