セイリオスの逃亡 9
どうして。どうしてマリアがここにいる。どうしてマリアが知っている―――。
いや、と、脳裏が勝手に否定した。知っている? 訊けばいい。狭い街だ、キサラギ家のことは皆知っている。問われれば答えたはずだ。彼らはそこに含む理由など何も知らないのだから。
「……やあ、マリア」
ちらりと車のデジタル時計を確認する。―――少女を家に残してから約一時間経っていた。いつ少女が出て来てもおかしくない。
「少し思い出に浸っていたんだ。……でも、中には入れないぞ」
「やっぱり鍵がかかっているの?」
「ああ。今はもう別のひとの家だ」
「そうなの……誰かが住んでいるの?」
「住んではいない」
住んでいる、と答えた方が簡単だった。だがどうせすぐにばれてしまう。玄関先までは普通に行けてしまうのだ。誰も住んでいないことぐらいわかるだろう。
「管理しているひとがいるよ」
「そう……どなたか知っている?」
「……どうして?」
「事情を説明したら、中を見るくらいはさせてくれるかと思って……」
……させ、ないだろう。スコット夫妻はこのことに関しては今ディアムとアマンダに託している―――あの姉弟は、絶対に許さない。
オリヴァー自身も、マリアにオーリの家に入って欲しく、なかった。
「……不動産会社が管理しているんだ。支店はこの街にない。いちいちこの街にひとを寄越してくれるほど時間があるとは思えないな」
「……そうなの」
残念だわ、と、マリアは眼を伏せた。―――そう。この顔だ。
いつもこんな、曖昧な―――ぼやけるような、悲しげな顔をしていた。
「……」
「……庭だけでも、見て来るわ」
「……この家でオーリが育ったわけじゃないぞ」
半分、嘘だ。……確かにオーリは両親が亡くなる前まで少し離れた別の場所にある家に住んでいたが、昔からよくこの家に来て遊んでいた。それはディアムもそうで、途中からはオリヴァーもそうだ。
「でも、オーリに全く関係していないわけではないでしょう? ……少しくらいは、見たいわ」
「……マリア、非番とはいえ俺は保安官なんだ」
困ったように小さく笑って見せる。ベルトに付けてあるバッジを見せた。
「眼の前で無断で私有地に侵入するのは、見過ごせない」
「そんな。……何もしないわ。少し家を覗くだけよ。ほんの少し」
「マリア。駄目だ」
「そんな……オリヴァー、お願い。昔の好でしょう?」
昔の好。……それが皮肉に聞こえてしまったのが、悲しかった。―――君は。
君は今だって、あの時だって―――オリヴァーのことも、ディアムのことも、オーリのことですら―――考えてなんて、いなかったのに。
「ねえ、お願い、オリヴァー……」
「……悪いね、マリア。見過ごせない。……メインストリートまで送るから乗ってくれ」
「……」
少女にはこっそりメッセージを送っておこう。あとで迎えに来るから、家にいるように……それで今この瞬間は済むはずだった。―――が。
「……あら?」
黙っていたマリアがふと、声を上げた。
「……どうした?」
「オリヴァー、家からひとが出て来たわ」
「―――」
―――く、そ。
「……あの子、昨日お店で……」
独り言のようにマリアが呟く。どうにか回避出来ないか―――あともう少しマリアを早く説得出来ていれば、
「……ユキ?」
「……オルティスさん」
近くまで歩み寄って来た少女は、マリアの名字を口にした。
「……こんにちは。……どうしてあなたがここに?」
「……キサラギさんには昔、お世話になったので」
「キサラギ―――どの、キサラギさん?」
「リザです」
「リザ……?」
「……オーリの祖母だよ」
口を、挟んだ。……少女はまっすぐにマリアを見て話していた。少女がリザに世話になったというのは事実だ―――この場合の返答としては不適切なのは、少女自身よくわかっての上での選択だろう。隠すのが上手い、というディアムの言葉を思い出す。……事実ではある。真実でも。求められた答えを巧妙に隠し、瞬時に対応する。……その思考の跳躍力に内心舌を捲いた。どんな修羅場を潜ったらこんな瞬時に言葉を繰ることが出来るのだろう。
「そう……リザ……でもどうして、あなたは家から出て来たの?」
管理会社云々というのは当然ながらマリアをあきらめさせる嘘だ。流石にそこまで少女が察することは出来ないと口を挟みかけたが、少女は特に悩むことも躊躇うこともなく、
「事前に話を通して鍵を借りていたんです。条件として、保証人―――保安官の監視の元ならばというお話だったんですけどね」
―――上手い。本当、鳥肌が立つレベルで。
先ほど吐いたオリヴァーの嘘も知らないのに、よくもここまで―――この答え方なら『管理会社』にでも『持ち主に』でもどちらでも対応が出来る。何故オリヴァーがここにいるのかという説明にも。
「……その保証人はお仕事をしていないのね」
ちらりとマリアが視線をやり、ちくりとした針を刺した。これはまあ致し方がない。つい先ほどまで『見逃せない』と言い張っていたのにその傍ら職務放棄をしていたのだから。しかし少女は申し訳無さそうに小さく微笑ってみせ、
「……わたしが、無理を言った、から。……少し放っておいて欲しい、って」
「……」
じっと、マリアが少女を見て黙って―――す、と、手を少女に差し出した。
「―――私にも、鍵を貸して頂戴?」
「いえ、それは出来ません」
「どうして? 確かに私は自ら管理会社に話を通していないけれど、でも、それ以外はあなたと同じよ」
「『入るのは自分と保証人だけ』と約束してしまったんです。わたしはこの国にとって異国人だから、一度約束が反故にされたことを知られると困るんです」
「誰も知らないわ」
「あなたが知っているでしょう?」
困ったように小さく少女が微笑み、それからするりと助手席に乗り込んだ。
「私、絶対に言わないわ。だから鍵を貸して頂戴?」
「ごめんなさい。でも、出会ったばかりのあなたをそこまで信用出来ないんです」
「私はオーリの恋人よ。オーリのことは知っている?」
ひゅ、と、音もなく呼吸が漏れた。―――オリヴァーの。
「……ええ」
少女の眼が―――
深い深い色をした眼が、……マリアをまっすぐに、見つめる。
「識っています」
時間が―――過ぎた。
「……マリア」
―――沈黙を破ったのは、オリヴァーだった。
「……どちみち、『保安官の立会い』が必要なんだ。……それは俺ということになっている」
保安官はまだいるので密かにそれを付け足した。
「今回の担当者ってやつだよ。……仮にこの子がオーケイしても、俺がノーと言う」
「どうして……」
「俺だって辛いんだ。何度も来たくはないんだよ。……わかってくれ」
絞り出すように言ったのは、奇しくもマリアに対して苦い思いを抱いているからだった。
―――これ以上、オーリも少女も傷付けないでくれ。
「マリア。……送ろう。乗ってくれ」
「……」
マリアはじっと、少女を見ていた。……そしてあきらめたように無言で、後部座席に乗り込んだ。