残痕
女の忍は男の忍と分けてくノ一と呼ばれるのが常だが、凜はくノ一と呼ばれるとどうしようもない劣等感を感じずにはいられない。
くノ一の最大の役割は色事を使った仕事だ。
情報の収集にも暗殺にも欠くことのできないほど重要であり、標的を籠絡するために最も有効な手段の一つだ。
―――女の武器を使うことができない―――
色仕掛けなどというものが一般の倫理観からどれほど蔑まれたものであろうと、忍の長の直系として生まれ生きてきた凜にとっては、この術を武器とすることができないというのはこの上ない屈辱であった。
くノ一は年頃になると閨房術の手解きを受ける。
授業には座学や参観も含まれるが、結局は同じ忍である男によって施される実地訓練が一番重要かつ有効なのだ。
凜も他の同年代のくノ一同様、緊張と高揚をもってその時を迎えていた。
布団を敷いた横で、畏怖と緊張と好奇心とが綯い交ぜになったような奇妙な興奮状態で待っていた凜の前に現れたのは玲瓏だった。
里が誇る希代の忍であり、凜を含めて誰もが憧れ、そしてもしかしたら長の長子である凜が添う相手かもしれない玲瓏の登場に凜は喜びと安堵を感じていた。
緊張する凜の強張りを解くように微笑んだ玲瓏に応えんと、凜はその身を委ねようとし、実際に玲瓏の腕に身を任せた。
玲瓏の指や唇から与えられる刺激に頭の芯を痺れさせながら、肌蹴させられるに任せ、布団の上に仰向けなった。
だが衣服を脱ぎ棄てて鍛え上げられた肉体を晒した玲瓏が凜に圧し掛かった時にそれは起きた。
「うっわぁあああああああああぁぁぁあああぁぁぁぁああああああぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!!!!!」
尋常ではない悲鳴と共に明確な殺気が玲瓏に向かって放たれた。
***
もし運命などというものが決まっているものだとしたら布石は最初からあったのかもしれない。
凜が初めて就いた忍の仕事は、閨房術を用いてとある大名を籠絡し情報を得た後に暗殺する計画の援護役であった。
武器を持ちこめないくノ一に代わり、閨で情報を聞きだしたくノ一の合図を受けて無防備な男の息の根を止めた。
的確な位置にクナイを穿たれて絶命し倒れこんだ男は、下敷きになっていたくノ一に無造作に払い除けられて畳の上に転がった。
手練のくノ一は念願の腹上死を叶えてあげたことを感謝なさいと軽口を叩きながらふふっと艶のある笑みを浮かべていた。
凜自身はといえば、初めて人間を手にかけたこの日のことを生涯忘れないだろうと、身体の震えを必死で抑えこんでいた。
その後もその手の仕事は何度かあったが、決定的に凜の精神を穿った事件が起きたのは忍の里でのことだった。
当時の記憶は少しあやふやで何故そんなところに居たのかは覚えていない。
ただ戸棚の中で目を覚ました時に外から艶めかしい会話が聞こえたために暗く狭いそこから出ることができなくなってしまったのだ。
何が始まるかは分かっていたが、自分が我慢すればいいと思ったのが間違いだったと、今でなら言えるかもしれない。
気配を消して戸棚に隠れていた間にずっと聞いていた。
荒い息、悲鳴のような喘ぎ声、ぶつかり合った時に肉が張られる音。
そんなねっとりとした空気を切り裂くような鋭い殺気が走り、血肉が切り裂かれる音と断末魔にも似た嬌声を聞いた瞬間、凜は戸を微かに開けていた。
裸の男が圧し掛かっているその下で、裸の女が刃物を取り落としたままビクビクとその身を痙攣させていた。
致命傷であることは明らかだった。
強烈な血の臭いにも掻き消されることのない体液の饐えた臭いの中で無残に血に塗れた女がいつも凜が援護していた色の暗殺に就くくノ一達と知らず重なった。
里の中で血生臭い出来事を目の当たりにしたのは初めてだったから何故とは思うものの、経験から女が無謀にも敵の本拠地に乗り込んだ密偵であろうことはぼんやりと読めていた。
こんなこともあるのだと忍としての頭がその状況を飲み込みながらも、凜の鋭い五感はそれらの光景をいくつかの記号に変換して凜の身体に深く刻み込んだ。
それらの記号さえ揃わなければ、その記憶も忍の宿命の一つとして淡々と受け止めるようになれたかもしれなかった。
しかし、数年後、忘れかけてさえいた記憶の戸は抉じ開けられてしまった。
避けることのできない閨房術であっても、指南役が玲瓏でさえなければ扉は開かなかったかもしれない。
もしくは閨で無残に死んでいった女に圧し掛かっていたその人が玲瓏であったと気付きさえしなければ。
***
「いやだいやだいやだっっ!!! 殺さないでっ!! いやだぁああっ!!! 死にたくないぃぃいいいい!!!」
唯一武器として使えそうな簪を、迷うことなく玲瓏の急所に狙いを定めて振りまわした。
突然の豹変に不意をつかれた玲瓏だったが、肉を軽く裂かれるに留めて凜の攻撃から身をかわしていた。
玲瓏だからこそかわせたと言ってもまったく過言ではない。
凜は玲瓏と監視役の忍二人によって三人がかりで押さえつけられたが、恐慌状態はそのまま解けず、その場は薬で眠らされて収められた。
その後、閨房術の訓練は手を変え人を変えて数度に渡って行われることになったが悉く恐慌状態に陥り、最終的に凜は閨房術の不適格者という烙印を押された。
さらにはそれまでもあまり好まなかったのであるが、単に人と接触することすらも軽度の錯乱状態を引き起こし、武器を振りまわすまでになっていた。
以来、凜は制御の利かない自分を恐れて人との接触を避け、くノ一としての諜報が出来ない代わりに暗殺の仕事に没頭する時を送っていた。
時が経つに連れて男に触れる程度のことはできるようにまでなった凜は閨房術のうち、断片だけを伝授されるに至ったが、未だに同衾を果たしたことはない。
半年の時を経て凜を伊道の元に送り込んだのは、普段は一欠片の甘さも持たない玄馬が見せた生涯ただ一回の甘さでもあったのかもしれない。