第1話:神様はバグを踏む
「――マジで言ってんのかよ、これ」
夜更けの静まり返った大学の研究室で、俺――天羽陸は、モニターの青白い光に顔を照らされながら乾いた笑いを漏らした。
指先がキーボードの上で一瞬止まる。目の前のディスプレイに映し出されているのは、今まさに俺が侵入し、解析を進めていた国内最大手インフラ企業の基幹サーバーのソースコードだ。通常、どれほど高度なセキュリティシステムであっても、人間が作ったものである以上、そこには必ず「設計者の癖」や「構造上の論理」が存在する。
だが、今回の解析はいつものハッキングとは決定的に違っていた。コードの深層――システムの根幹を成す「カーネル」と呼ばれる最深部に刻まれていたのは、プログラミング言語の常識すら超えた、あまりにも不自然な記述だった。
「物理法則の限界値を固定化……? いや、違う。これ、世界そのものの動きを制御するための『パラメータ』か……?」
画面を流れる何百万行もの文字列を追いかけるにつれ、背筋が寒くなった。まるでこの現実世界そのものが、巨大なサーバー上で動いている一つのプログラムであるかのような記述。そして何より異質だったのは、そのコードの端々に散りばめられた、あまりにもお粗末な「エラーログ」の山だった。
「誰だか知らねぇが、このシステムを書いた奴……設計が雑すぎる。こんな初歩的なバグを放置して稼働させてるなんて、正気の沙汰じゃねぇぞ」
情報工学科の異端児として、探究心と裏社会で「孤高のホワイトハッカー・リュウ」と呼ばれたプログラマー魂に火がついた。俺は缶コーヒーを飲み干すと、カタカタと猛烈な勢いでキーボードを叩き、システムの最深部――書き込み権限を持つ中枢アドレスへと最後の割り込みパケットを送信した。
その瞬間。
――【警告:世界システム基幹への不正アクセスを検知しました。対象ユーザー:アマハ リク】
血のように真っ赤な警告ウィンドウが画面全体を埋め尽くした。
一瞬にして部屋の空気が凍りつく。壁掛け時計の秒針がピタリと止まり、遠くの幹線道路を走るトラックの走行音も消えた。空間そのものが静止し、色を失っていく。
「っ……!? おい、なんだこれ、身体が……!」
立ち上がろうとしたが、指一本動かない。視界がぐにゃりと歪み、研究室の壁や天井が巨大なデータストリームの光の束となって崩壊していく。その光の濁流の中で、巨大なホログラムのように現れたのは、豪奢な椅子に深く腰掛けた白髪の老紳士の姿だった。
老紳士は愉悦に満ちた笑みを浮かべ、俺を優雅に見下ろした。
『やあやあ、見事な腕前だ人間よ。まさか我が管理する「世界システム」のソースコードにまで辿り着く者が現れるとはな。実に面白い』
「あんた……誰だ!? これは何の冗談だ!」
『冗談ではないさ。我は自らを「神」と呼ぶ者。そしてお前が踏み込んだのは、我々が管理する世界の基盤だ。……ふむ、本来ならセキュリティ違反として消去するところだが、お前のような異質な思考回路を持つ存在を消すのは惜しい』
老紳士はパチンと指を鳴らした。
『お前を、我が実験場である「もう一つの異世界」へ転生させてやろう。お詫びと言ってはなんだが、その世界をダイレクトに認識・解析できる『構造視認』の閲覧権限を付与してやる。せいぜい、バグだらけのあの世界を、お前の大好きな論理でハックしてみせるがいい』
「おい、待て! 勝手なことを言うな――っ!」
俺の抗議は、老紳士の豪快な哄笑にかき消された。視界が真っ白な光に包まれ、俺の意識は無限の加速感とともに断絶した――。
「――おい! 起きねぇか、このガラクタが!」
バチン! という猛烈な衝撃と激痛が肩に走り、俺は跳ね起きるように目を覚ました。
「がふっ……! 痛っ……!?」
視界に入ってきたのは、大学の研究室の天井ではない。湿った石造りの壁と、鉄格子。そして、汚れた革の腹当てをつけ、手に棘付きの鞭を持った巨漢の男だった。
鼻を突くのは、生臭い血と汗、排泄物、そして湿った土の混ざり合った耐えがたい悪臭だ。周囲を見渡せば、破れた布切れのような服を着た人々が、何十人も手枷や首輪で繋がれ、恐怖に震えながら身を寄せ合っている。
「けっ、死んでねぇならさっさと立て! 今日はオズワルド侯爵家から雑用奴隷の大量注文が入ってんだ。一頭でも欠けたら俺の首が飛ぶんだよ!」
(……奴隷市場、か)
自分の首元に触れると、ズシリと重い金属の感触があった。冷たい鉄の首輪だ。
現代日本でハッカーとして生きていた俺――天羽陸は、神の戯れによって異世界へと放り込まれ、あろうことか「売買される最低辺の奴隷」として第二の人生をスタートさせる羽目になったのだ。
だが、絶望して頭を抱える俺の視界に、突如として不思議な「文字」が浮かび上がった。
首元の鉄輪を見つめた瞬間、網膜に緑色の透過UIが展開されたのだ。
【システムログ:汎用・奴隷拘束魔導具】
* 所有権: オズワルド・フォン・グラハム侯爵
* セキュリティ等級: Level 3(低級魔術回路)
* 物理状態: 正常稼働
* 構造欠陥: 内部の魔力パルス変換部に、処理漏れによるバックドア(例外処理エラー)が存在。
(……マジかよ。本当に見えてやがる)
俺は心の中で乾いた息を漏らした。
この世界では「魔法」と呼ばれる現象も、神が構築したシステムの上で動くプログラミングコードに過ぎない。そしてそのコードは、俺が研究室で見たシステムと同様、隙だらけでバグに満ちあふれていた。
「ふん、手枷の魔法回路の第4パルスに干渉を入れれば、いつでもこの首輪を一時停止できるな。……まあ、今ここで首輪を外して逃げ出したところで、無一文の俺じゃ餓死するか衛兵に射殺されるのがオチだ」
俺は冷静に現状を分析した。人権すら存在しない最底辺の奴隷。だが俺には、この世界全体のプログラム構造を解読し、書き換えることができる最強の「デバッグ能力」がある。
まずは身を潜め、この世界のルールと構造を完全に把握する。それが俺の最初のミッションだった。
それから数日後。俺は「ルク」という短い奴隷名を与えられ、帝国屈指の大貴族・オズワルド・フォン・グラハム侯爵の豪奢な大邸宅へと買い取られた。
雑用奴隷としての毎日は過酷そのものだった。明け方から日没まで、広大な庭園の雑草抜きや、泥まみれになりながらの廊下の雑巾がけ。少しでも手を休めれば、監督役に鞭で殴打された。
「おいルク! 手を動かせ! 今日の午後からは最高執政院からお偉い一等検察官様が視察にいらっしゃるんだ! 落ち葉一枚でも残してたら、その首輪に電流を流して黒焦げにしてやるからな!」
「はいはい、分かってますよ……」
俺はやれやれと肩をすくめ、竹ほうきで落ち葉を掃き集めた。
だが、その日の午後。平穏(とは言い難い劣悪な日常)は、館の奥から響き渡った悲鳴と怒号によって破られた。
「――事件だ! 執務室で殺人事件だぁぁぁっ!」
「悲鳴を聞いて駆けつけたら、ゲストの伯爵様が血を流して倒れていた!」
「ドアの魔導鍵も窓の防犯結界も完璧だった! 誰も出入りできるはずがない……悪魔の呪いだ! 悪魔の仕業だ!」
館中が大パニックに陥った。武装した警備兵や、派手な法衣を着た魔導院の調査官たちが、蒼白な顔で廊下を走り回っている。
庭の隅でほうきを手に持ったまま、俺はその騒ぎを冷ややかな目で見つめていた。
視線を開放すると、2階の執務室の方向から、空間のデータが途切れる「赤いノイズ(エラーシグナル)」が空中に漏れ出しているのが見えた。
「呪い? 悪魔の仕業? ……呆れたな。魔法を過信しすぎなんだよ。あんなの、ただのエラー隠蔽工作に決まってんだろ」
俺が呆れたようにボソッと呟いた、その時だった。
「――おい、そこの底辺奴隷」
背後から掛けられた、氷のように冷たく、しかし若々しい男の声。
振り返った俺の視界に入ってきたのは、漆黒の軍服を隙なく着こなし、腰に重厚な魔導剣を差した一人の青年だった。鋭い鷹のような瞳と、整った顔立ち。だがその表情には、色濃い焦燥と苛立ちが刻まれていた。
帝国のエリート中のエリート――最高執政院の一等検察官、レイヴァルト・フォン・ルグランだった。
レイヴァルトは激昂した様子で俺に詰め寄ると、手袋をはめた手で、俺の胸倉と首輪の金属枠を容赦なく掴み上げた。




