深海500メートル
「静寂の湖畔」を離れ、鋼鉄のワンルームは大海原へとその進路を取った。
「……もうすぐだ」
男は作業台兼操舵席に座り、無機質な計器類を確認する。
今回の「深海調理」に要する工程は、移動を含めて三日。
だが、備蓄している食料と水、そして循環式の魔力酸素供給装置は、最低でも二ヶ月以上の籠城を可能にしていた。
ワンルームの外装、あの「鉄の箱」に、男はあらかじめ用意しておいた「デコイ」を装填した。
中身は、試作品のスープを詰めただけの無価値な缶詰だ。
万が一、深海の魔物がこのワンルームを特定した際、紛らわせるための偽の餌。
大海原への到着と同時に、潜行開始。
ワンルームが海水を切り裂き、斜め下方へとその艦首を向ける。
モニターに映し出される世界は、劇的にその色を変えていった。
最初は、太陽の光が降り注ぐ「楽園のような青」。
海面付近を回遊する色鮮やかな生命を追い越していく。
大小、様々な生き物が、ワンルームを恐れて動く、目で追いきれない躍動感。
「……これは、綺麗だ」
水深40メートル。
分厚いモニター越しに広がるのは、太陽の残光を極限まで濾過した、濃密なコバルトブルーの静域だ。
視界を埋め尽くすのは、体内に冷光を宿した『水晶鱗』の群れ。
彼らが尾を振るたび、剥がれ落ちた魔力粒子がマリンスノーと混ざり合い、万華鏡のような光彩を撒き散らす。
珊瑚の影からは、極彩色の皮膚を波打たせる海洋の魔物が、毒々しいほど鮮やかな触手を揺らめかせていた。
その幻想的な景色の直下――足元に視線を落とした瞬間、世界は一変する。
そこには、あらゆる色彩と生命を飲み込む「底なしの大穴」が口を開けていた。
水深200メートルを超えると、世界から「色彩」が剥ぎ取られていく。
モニターに映る生物たちは、まるで魂を吸い取られたかのように白濁し、目玉だけが異様に肥大化した、色も温度もない半透明の幽霊へと変わっていく。
その時、機体内に張り巡らされた魔導回路が、獣の唸りにも似た低周波を上げた。
ヌッ――と、巨大な「何か」が、ワンルームと入れ違いになるように真横を通り抜けていく。
それは意思疎通を拒むほどに巨大な、沈黙の質量だった。
「隠蔽機能」の出力を確認する。
当然、最大出力の隠蔽だ。
水深300メートルを超えた、その瞬間だった。
男の背筋を、氷点下の液体を流し込まれたような寒気が駆け抜ける。
完璧なはずのステルス被膜など存在しないかのように、何かがこの鉄の箱を凝視している。
――違和感。いや、生存本能が鳴らす警鐘だ。
モニターに映るカメラの一つが捉えた。
巨体ゆえに、カメラではその全貌を捉えきれない。
モニターを埋め尽くしたのは、不気味に剥き出しになった赤黒い「歯茎」の列と、ギョロギョロと動く大きな四つの目玉だった。
その肉の塊は、地上の理屈など通用しない「深淵の法」を男に突きつけていた。
水深400メートル。
外壁を叩く水圧の音が、これまでの「単調な振動」から「軋み」へと変質する。
性能限界は、水深1000メートル。
だが、この『海』が内包する悪意の前では、その数字すら無意味な気休めに思えた。
モニターに映る巨体に、拳を握り締めた。追跡されている。
「……気付いては、いないはず」
水深500メートル。
目前の暗黒に、海底火山の噴火跡と思しき海底洞窟を見つけた。
男は躊躇なく舵を切り、ワンルームをその地獄の喉奥へと滑り込ませた。
剥き出しの深海に身を晒すのは、もはや自殺行為だ。
この天然のシェルターの陰で、最短時間で「調理」を完遂する。
男の指先は、恐怖を押し殺すように冷たい計器を叩いた。
着陸。
ワンルームが洞窟の底に沈み込み、静寂が訪れる。
だが、それは安息の静寂ではなかった。
モニターが、洞窟の外を巡回する「大きな何か」の影を捉えていた。
何らかの意志を持って、執拗に探し回っている。
すでに下準備は終わっている。
極限まで圧縮された食材を外殻の圧力釜へと流し込む。
調理、開始。
500メートルの水圧が、男の術式を通じて釜の中へと一点集中される。
ワンルーム全体が、聞いたこともないような高周波のうなり声を上げた。
外装の「深海の被膜」が、外部の莫大な圧力を熱と振動に変換し、食材の細胞壁を一瞬で粉砕していく。
男はモニターの数値だけに集中した。
圧力、良し。
温度、良し。
魔力共振、極めて良好。
外壁の向こうでは、相変わらず「巨大な影」が、洞窟の入り口付近を徘徊している。
時折、巨体が岩肌に触れるたびに、ワンルームが激しく揺れた。
一分が、一時間のように感じられる濃密な沈黙。
やがて、調理器具のゲージが「完成」を指した。
そして――。
――ガコンッ
――ガコンッ!
――ガコンッ!!
静寂極まる深海の洞窟に、その硬質な金属音が響き渡った。
缶詰が回収口へと次々と吐き出された、勝利の音。
男が安堵の吐息を吐き出すよりも早く、その結末は訪れた。
――ウォオオォォオン!!
洞窟全体が、悲鳴を上げるような衝撃に包まれた。
あの「巨大な何か」が、今の音を聞き逃さなかった。
モニターに、洞窟の岩肌を容易く粉砕する、巨大な青白い腕が映り込む。
次の瞬間、鋼鉄のワンルームは、飢えた獣に捕まった玩具のように、強引に「安全地帯(洞窟)」から引き摺り出された。
「――ッ!」
全方位から襲いかかる慣性に翻弄され、男は逃げる間もなく硬質な壁面へと打ち付けられた。
それと同時に、男が偏執的に維持してきた秩序が崩壊する。
コレクションの棚からは、世界中から集めた数多の瓶が、抗いようのない重圧によって弾け飛んだ。
鷲掴みにされている。
浸水こそ免れているが、機体全体が悲鳴を上げている。
深度計の針が、男の理性を置き去りにして、光の届かぬ深淵へと一気に加速を始めた。




