誤算
計算違いだった。
男は、モニターに映し出される光景を見て、忌々しく椅子に背を預けた。
翌日、王都は「謎の241番」の話題で持ち切りだった。
領収書の裏に書かれた衝撃的なレシピ、そして空から降ってきた「ゴミ袋の襲撃」。
正体不明の料理人を探ろうと、場末の運河沿いには野次馬と記者が溢れ返っている。
男は徹底したステルスを駆使して「家」を風景に溶け込ませていたが、特定は時間の問題だった。
静寂を愛する男にとって、この狂騒は水圧よりも耐え難い状況だった。
――コツン、コツン、コツン!
静寂の湖畔。
男が応募用紙に記載した偽りの住所。
ついに、扉が叩かれた。
「241番! 頼む、出てきてくれ! 審査員団だ! 君を公式に優勝者として認定し、その栄誉を讃えたいんだ!」
男は鋼鉄の扉を開かない。
「景品を渡せ」
男はマイク越しに感情の失せた声で伝えた。
モニターには、昨日涙を流していた老審査員と、山のような契約書を抱えた事務局員たちが、血眼になって立っていた。
豪華な衣装を纏った彼らの姿は、この錆びついた「鉄屑」の前では、滑稽なほど浮いている。
「待ってくれ! 君の店を作りたいんだ! 国賓として迎えたい。協業でも、出資でも、君の望む条件をすべて飲む!
君のスープは、この国の美食の歴史を、一晩で数百年分も進めてしまったのだ!」
「断る」
「な、なぜ!? 望みは探求か? 後進育成か……!? なんでもいい、全て叶えるからまずは出てきてくれ!
君のその『魔法』を、世界が求めているんだ!」
老審査員が必死に叫んだ。
「景品を寄こせ」
拒絶。
事務局員たちは絶句した。
景品に特別な意味は込めていなかった。
ただ、コンテストを成立させるために、話題性のある景品を掲げたに過ぎなかった。
まさか、歴史を覆すような男が、景品のためだけに現れるとは、到底想像もできなかった。
「せめて……せめて、作り方だけは教えてくれ! あの味を、どうやって、どこで生み出したんだ!
どんな禁忌の魔法を使えば、あんな……自分こそが食材になるような錯覚を見せられる!」
男は不機嫌を極めた声で吐き捨てた。
「……深海だ。1700メートルで煮込んだ。理解したなら、早く『景品』を渡せ」
その場にいた全員が、再び絶句した。
深海1700メートル。
そこは魔物が蠢き、人類が未だかつて最奥まで踏み込んだことのない「未踏の絶望」。
光さえもが圧死するその場所に、この男は、ただスープを煮込んでいたというのか。
彼らはようやく理解した。
この狂人は、料理を作っていたのではない。
人知を超えた地獄で、命を削って、狂気を封じて持ち帰って来ただけなのだ。
震える手で、ついに郵便受けに押し込まれたのは、高級な木箱。
男は郵便受けから木箱を奪うように掴むと、背後の喧騒を無視して急ぎ足で作業台に向かった。
木箱を開けると、モノクルを嵌め、即座に鑑定を開始した。
『空詠みの絹糸』。
それは春の微風のような淡い水色から、荒野を裂く疾風の鋭い翠、そして嵐の奔流を称える深い藍色まで。
相反するはずの無数の気流が、一本一本の極細の繊維となり、奇跡的な調和を保って艶やかな絹の束を成していた。
絹糸が、男の指先で生き物のように波打つ。
それは大気の流れそのものを操作する力を持っている。
例えば、この絹糸で刺繡を施した外套を纏えば、空を飛ぶことなど簡単だろう。
『世界のレプリカ』。
循環の一柱、淀まぬ風として、間違いなく機能する。
男は手際よくその絹糸を小さくすると、コレクション棚の中央、「円卓の台座」へと封じ込めた。
その瞬間。
これまでずっと男の神経を逆撫でし続けていたカタカタと震える床の振動が、ピタリと止まった。
予備動力に依存していた飛行性能を『空詠み』が全て代替した。
室内を満たしていた臭いや、動力炉の不快な排熱さえもが、清涼な風によって一瞬で洗い流される。
モニターには、立ち去ろうとしない審査員団が扉を叩き続けていた。
男は不敵に口角を上げると、ステルス機能を最大出力で固定した。
湖畔に鎮座していたはずの「鉄屑」が、一瞬で風景から消え失せた。
予備動力の不快な騒音も、燃料の残量を気にするストレスも、もう必要なかった。
絹糸から溢れ出す無尽蔵の風が、機体を優しく、かつ力強く空へと押し上げる。
男は、重力を嘲笑うような速度で、大空へと羽ばたいた。
「……自由だ」
突き抜けていく。
人間を、鳥を、雲を超えていく。
高度2,000メートル。
かつては時速5キロで喘いでいた鈍亀は、今は淀まぬ風を纏い、軽やかさで滑空している。
男はモニターに映る、どこまでも続く青い地平線を眺めた。
もはや、誰も彼を追えない。
満足そうに操舵輪を固定した。
鉄屑のワンルームは、伝説を置き去りにしたまま、自由の大空へと溶けていった。
第1章を見届けていただき、ありがとうございました。
男が最初の柱を手にして、物語の幕は一度、閉じます。
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