第12話 キャンプファイヤー
目が覚めると、カーテンの隙間から光の道ができているのが目に入った。私の隣には、マチルダも、ウィリアムもいない。孤独を完全に紛らわせられるものなどこの世に存在しない。
私はゆっくりと上体を起こした。体が重い。いつも通りだ。眠っている間に精神が自由にこの宇宙を飛び回っているから、その反動で起きた時に肉体に縛られているような感覚になるのか。だがもしそうなら、肉体が眠っている間にも精神は起きていることになる。だったら人間の精神は、一体いつ眠るのだろうか。死んだ時か。いや、きっと人間の誇りを捨てた時だ。
トイレに行った後、キッチンに移動してコップ一杯の水を飲んだ。トイレに行ったことなど、小説ではいちいち書かないのが普通なのかもしれない。文字数の無駄になるし、そもそも美しくない。だが排泄とは人間の生の営みにおいて必要不可欠なサイクルの一部分で、それを美しくないからといって切り捨ててしまうのは、人間の生を根本的には認めていないことになるのではないだろうか。とはいっても、私も敢えて書こうとは思わない。
朝食にA6サイズのピザパンを食べた。さっきまで冷蔵庫の中で固くなっていたのに、今はふかふかの布団のように柔らかい。その時ふと思った、もしダンテがこのピザパンを食べたら何を思うのだろうか、と。
科学技術と経済文化の発展で、日本にいながら朝食にピザだって食べられるようになった。そんな社会にあって、ダンテの食リポなんて何の価値もない。大半の人はダンテを知らないまま死んでいくだろうし、それ故にほとんど金にならないからだ。だが、この社会が提供してくれるあらゆるものよりも、その無価値な答えの方が私を満足させてくれるのだ。
現代社会では誰もが、自分たちを本当の意味では満たしてくれないもののために人生の大部分の時間を嫌々消費し、その過程で生じた渇きを、そんな労働が生み出した空虚なプロダクトからどうにか養分を吸い出すことで、かろうじて生きながらえている。誰もが思っていることだろう、この社会、何かが間違っていると。
そんな想いを薬と共に飲み込むのが日課だ。人によってはビールや、好きでもない相手とのキスによって流し込むのだろう。その方法は私には合わない。病を病でないと言い聞かせることは私にはできない。
外出の支度をして、明るい場所に出た。もう上着が必要ない季節になった。気温に意識が引き寄せられない暖かさで、家の中の温度を意図的に外と変える必要もない。もっとも私にとっては一年中、家の中も外とたいして変わらないのだが。私にとって内と外を隔てるものは玄関の扉や窓ではない。この肉体だ。心から見て肉体の向こう側は全て外なのだから、家の中も外なのである。ということはつまり、この世界に心休まる場所などないのである。近くの街路に植えられた桜の木に、たくさんの蕾ができていた。今年こそは、花が咲くといいな。
私は一人で、取り調べを受けるために警察省に行った。私の数少ない友人の数多くがここにいる。今日は私が友を失うか、友が私を失うか。今まで平気で取り調べの場面を描写してきたわけだが、いざ自分が当事者となると、海底にいるような、並々ならない圧力を肌で、心で感じる。私と相対している刑事も、同じような感覚を抱いているのだろうか。焦点が合っているのか合っていないのかわからない目をしているが。眉間に刻まれた皺は、何を見た痕跡か。
「おい張本、聞いてるのか! さっさと白状したらどうなんだ、私がやりましたって!」
「昨日みたいにもう一度見せてやろうか? 自分が人を殺す瞬間を!」
何も答えることができない。0か1でしか物事を認識できない者たちにどう少数や分数を説明できよう。間にも無数の数があることをどうわからせればいい。対話というものは人間にとって必要不可欠なものだが、対話をするにはまず人間にならなければならない。
(……『ただ心こそ大切なれ』ということですね。……。では、お元気で)
泊まっているホテルの一室で二人きりの時に、相手が突然倒れて亡くなった。そんな状況を目の当たりにしたら、誰だってまずは同じ場所にいたもう一人を犯人だと疑うだろう。だが推理小説の飽和した時代を生きる皆さんなら、すぐさまこうも思うはずだ。こんなに簡単に終わるだろうか、本当は別に真犯人がいて、罪を着せられているだけなんじゃないか、と。
そんな推理はこの物語には無用だ。ただ風に揺られどこかに飛んでいくタンポポの綿毛のように、この物語の潮流に身を任せてくれればいい。
さて、それでは、人間である皆さんには真実を掴み取る力があると信じて、先に答えをお教えしよう。犯人は私だ。
*
かろうじて貰えた休憩時間に、私は屋上に行った。桜の花びらが吹雪いている。こうして舞い散る桜の花びらを見るといつも怖くなる。幸せは瞬きする間に終わってしまうのではないか、と。これだけ長遠の苦しみを味わってきたというのに。
柵にもたれ、凍京の街を見下ろした。雨後の筍のように、焼夷弾が降り注いだ街には至る所にビルが建てられている。太さも高さも色も十人十色だ。そしてみんな別々の方向を向いている。整然としているように見えて、実はその場しのぎの継ぎ接ぎだらけで、本当は微妙なバランスで運良く形を保っているにすぎない。こんな不安定な世界で、どうして平然と立っていられよう。凍京スカイツリーが、いつもより傾いているように見える。
私はもっとこの世界のことが知りたい。人間のことが知りたい。だが、それももう叶わない。もはや私にできるのは、ただ皆さんに一方的に問いかけることだけだ。
皆さんは、一体どんな世界に住んでいる。
どんな人間で、どんな生き方をしている。
どんな希望を持っている。
何に苦しんでいる。
友は、師は、愛する人はいるか。
何を信じて生きている。
近くの雲がみんないなくなった。そろそろ刑事たちが、私が戻らないことに慌て始める頃だろう。別に人々を困らせたかったわけじゃない。だが、ここまで相容れないとは。
「張本さん……。やっぱり……」
さて、私という災いを鎮める巫女のお出ましだ。
*
彼ら、園常寺と遠藤さんがどうやってここまで来たのか、知りたいのではないだろうか。私はその全てを知っている。それは何も、私が神だからではない。その理由は後で話そう。経緯が先だ。
昨日の朝に遡る。場所はいつもの倉庫室B。内装はキッチンバージョン。ホットケーキを作っているところだ。二人仲良くエプロンを着けて。
「せんぱ~い、あの全自動泡立て機使わせてくださいよ~」
「あれは生体認証で俺しか使われへんようになってるんや~」
「ただの泡立て機にそこまでのセキュリティ要ります〜?」
園常寺はフライパンを温め、遠藤さんがボウルにホットケーキミックスと卵と牛乳を入れてお玉でかき混ぜている。料理で面倒な工程をさりげなく理不尽に押し付けるのが定番になっているようだ。まったく園常寺という奴は。不思議な愛嬌がなければとっくの昔に刺されていたんじゃないだろうか。
「お玉二杯分ぐらいでお願~い」
「初めてだけどできるかな」
「できるできる~。フライパンを的だと思って狙い撃ちしてごら~ん」
「なんで急にお料理教室の先生みたいになってるんですか~? 先輩にヘッドショット決めますよ~! よし、こんな感じでどうでしょう」
傾けたお玉から生地が流された。開戦の法螺貝のように生地の焼ける音が鳴り始めた。生地はフライパンの上を同心円状に広がっていった。
「うんうんいい感じ~。今度は馬に乗った状態でやってみよっか~」
「さすがにホットケーキで流鏑馬はできませんよ。ふざけたこと言ってないで、ちゃんと焼け具合見ててください」
園常寺が時々フライ返しで底面の焼き色を確認している間、遠藤さんは完膚なきまでにダマを取り除いていた。この二人はなかなかいいコンビなのかもしれない。
生地の下側がいい小麦色になったところで、園常寺は音も立てずひっくり返した。小麦色が上になった。その時に起きた風で、抱きしめられるような感覚にさせる甘い香りが二人の顔まで届いた。
「めっちゃ何事もなかったかのようにひっくり返すじゃないですか」
「はい、次交代。俺が注ぐから、自分がひっくり返して」
「今度はスポーツチームのキャプテンみたいですね。今日はどうしたんですか?」
「一回一回集中して大事にしてこ~」
「この人が一番ふざけてるんだけどな……」
最終的に、ストックを二枚、すぐに食べる分を一枚ずつ、計四枚を焼き上げた。ストックはラップに包んで冷ますらしい。二人はエプロンを脱いで、テーブルにバターとケーキシロップとナイフとフォークを運び、席についた。
「それじゃあいただきます!」
「いただきま~す!」
二人とも、切り方に随分個性が出ているようだ。園常寺はケーキやピザを切るように、中心から外側に向かって均等に八等分していた。遠藤さんは……、中心に向かって渦巻きを描くようにナイフを入れていった。
「先輩の切り方変わってますね~」
「そっちこそ切り方だけでホットケーキを不気味な物体にできるのすごいな」
「ひどいな~。こうやって持ち上げたらほら、綺麗に剥けた時のりんごの皮みたいでいいじゃないですか~」
「食べ物の食べない部分やんか、そこって」
もしかすると皆さんの中には、最初から完成した状態のホットケーキを冷蔵庫から取り出せばいいだろうと思った方もいるのではないだろうか。確かにこの部屋はそういうことができる。彼らのやっていることは無駄な、ただの自己満足に過ぎない。だが考えてみてほしい。本来、人間の営み自体がそういうものなのではないかと。
二人ともホットケーキを食べ終え、片付けをして、部屋中に甘い匂いを充満させたまま捜査会議を始めた。二人ともタブレットに表示された捜査資料を見ながら話している。
「今回の被害者は真鍋健太さん。アルバイト生活の売れない小説家だったみたいですね。家族構成は二人兄弟の次男で、長男は医者、被害者自身は両親から勘当され、兄とも疎遠だったと」
「勘当の理由は、稼いでなくてみっともないから。なんでこういうのが親になれるんやろな。善人ほど独りやのに」
「悪人は動物の本能が強いからでしょうね。その上悪には結束しやすいっていう特徴があります。逆に善は集まりにくい」
「なんか善人用のマッチングアプリとかあったらいいのにな」
運命がその役目を果たすんだがな。
「いいですねそれ。私は誰とマッチングするんだろ〜」
「コモドドラゴンとかちゃう?」
「なんで人間じゃないのが混じってるんですか! そんなことより、問題はここからですよ。真鍋さんの死の瞬間に、張本さんが立ち会っていた、というか、張本さんが泊まっていたホテルの部屋で亡くなったということで。どう思いますか?」
「その時偶然家からそんなに遠くないホテルに泊まってたっていうのがよくわからんよな。密会? にしては室内にも防犯カメラ付いてるぐらいセキュリティ強いホテルやからな。張本が。う〜ん」
知り合いの関与する事件にもかかわらず、数学の問題を考えるように、感情に飲まれていない顔で思考している。園常寺という人間はどんな立場の人間にも肩入れしない。憎いが、そういう点で奴は善人の要件を満たしている。
「とりあえず、その時の防犯カメラの映像を見てみましょうか」
遠藤さんは資料に埋め込まれた映像を空間に映し出し、珍しく立体的に再生した。映像は、真鍋くんが亡くなる少し前、椅子から立ち上がって二人で窓越しに凍京の街を眺めている場面から始まった。真鍋くんはまだ二十代だが、頭髪にはかなりの本数白髪が混じっている。苦労した人全員に若白髪が現れるというわけではないだろうが、苦労していない人間に現れることはないはずだ。
(凍京の街、夜でも明るいですね)
(そうだな。これが多様性の証ということなのか)
(そうかもしれませんが、夜にネガティブな側面を押し付けているだけのように思います)
(同感だ。自分たちに都合の悪いことは全て暗闇の中に追いやり、その暗闇ごと浅慮なだけの完全な無へと葬り去ろうとする。文明が起こって以来、これほど愚鈍で高慢な社会が他にあっただろうか)
(ないでしょうね。力を行使する時だけは自分たちを最も優れた存在であるとし、道徳など、力を縛るものに対しては、自分たちは下等な畜生と変わらないとして無効化しようとする。どうしてここまで支離滅裂になれるのか、またその状態でいられるのか、全く理解ができない)
(誰も自分を顧みないからだろうな。一切はここに通じると思う)
(『ただ心こそ大切なれ』ということですね。最後に直接お話が出来て良かった。では、お元気で)
真鍋くんはそのままその場に崩れ落ちるように倒れて亡くなった。いや正確に言えば、倒れた時に亡くなっていたのかはわからない。というのも、私が彼に駆け寄ろうとした瞬間、彼の肉体は消えてなくなり、骨だけになってしまったのだ。だから、司法解剖などで確かめることなどできない。
彼は本当に人間的な小説家だった。世相を正しく認識し、真に人間としてあるべき姿を独自に確立された筆致で描いていた。にもかかわらず、群衆は彼を認めなかった。現代は価値観が逆さまになっている。誰もが逆立ちで歩いているのだ。
捜査会議の後、二人は事件現場に向かった。部屋は一人部屋で、ベッドルームの隣に洋室があり、最後に真鍋くんと話していたのは洋室の大きな窓の前になる。
二人は空間把握装置と改良した物質的非物質検出装置で真鍋くんの痕跡を探そうと試みていたようだ。園常寺は物質的非物質の検知と回収の両方ができる装置を開発できたらしい。見た目はスマートフォンと変わらない。画面で対象物の位置を検知し、UFOが牛を誘拐するようにカメラ部分から光を発して回収する。まあ今回それは何の役にも立たないが。
「空間把握装置も駄目ですね。髪の毛一本すら見つかりません」
「ナノマシンがやったことは、肉体を完全に消し去るっていうことなんかもな」
「そうですね。(では、お元気で)。さようなら。私は骨を残して完全に消えます。今更ですけど、言葉って何でもありですね」
「そうやな。各々の固定観念に縛られるとはいえ、言葉が持つ柔軟性はとんでもないわ。ただ、言葉が示そうとしてる対象は人それぞれ無秩序で流動的、って感じじゃない気がするな。対象は人が違えど共通やから理解し合えるんやと思うわ」
「確かに。真鍋さんが骨だけ残したのもそういうことなのかもしれませんね。柔軟な領域の中心には堅固な芯があるってことを、柔らかい肉と硬い骨で表そうとしたんじゃ」
遠藤さんの顔が途中からもやの晴れたような顔に変わった。その様子を見る園常寺は全然表情が変わらない。こいつはいつもそうだ。笑いを取るためだけにしか感情的な振る舞いをしない。
「なるほど。言葉の性質を、身をもって体現したってことか。やるやん」
「ここはもうちょっと褒めときましょうか」
「何アドバイザーなん? まあ骨だけ残したっていうのが、言葉の奥にある共通の基盤を見ろっていうことを訴えてるとこまで言えたらもっと褒めてたかな〜」
「それは次言おうと思ってたんです〜。だから褒めてください」
「残念ながらパラレルワールドのことは採点対象外なんですよ〜」
「ちっ、器の小さか男ばい。次行きますよ〜」
「君は態度がでかすぎる」
遠藤さんの先導で、次は真鍋くんの自宅に足を運んだ。真鍋くんは都内の狭くて古いアパートの一階に住んでおり、その立地が入り組んだ路地の先だったため、二人ははじめ場所がわからず、シミュレーションマップを駆使してようやく辿り着いた。入り口までの道も隣の家の壁と石塀で狭くなっており、一人ずつしか通れないほどだった。
赤土のような色のドアは、ドアノブの根本が回るようになってしまっている。鍵穴に刺さっている関係者識別装置に、遠藤さんが自身の警察手帳をタッチした。
「なんですかここ。シミュレーションマップを探検ゲームみたいにして使ったの初めてですよ」
「わざわざ高コストで三次元の地図をつくった甲斐があったな。つくったのは俺じゃないけど」
「高感度感情移入ですね。それじゃあ入りましょうか」
二人は砂壁と焦茶色の木材の床に迎えられ、開けられたすりガラスのガラス戸の奥に畳の部屋が広がっているのを見た。といっても、床は荷物でほとんど隠れてしまっている。
「うわ、見た目通りの中身やな」
「この辺りだけ昭和のままみたいですね」
「ていうか結構散らかってるな。足の踏み場はあるけど足跡みたいになってるわ」
二人は真鍋くんの足跡を辿って中に入った。遠藤さんはまずはキッチンに、園常寺は奥の部屋に進んだ。
「真鍋さん自身が通ってた道ってことでしょうね。キッチンは、……洗い物は溜まってるけど、生ゴミの臭いはない」
「うわ〜奥の部屋もぐちゃぐちゃや〜。服とか段ボールとか本とか。ん? 何これ。ああ、まち針が、十四本刺さった針山か。なんか気持ち悪いな、ダンゴムシの腹みたい」
遠藤さんが奥の部屋に入り、真ん中の机によって二分された通路の、園常寺と反対の方に進んだ。
「ほんとにぐちゃぐちゃですね。あ、ここには小さなホワイトボードが。求める数をtと置く。(tは実数)。数学にも造詣があったと」
「部屋が綺麗過ぎるのと汚過ぎるのは心が疲れてる証拠でもあるから、被害者はかなり限界やったんかもしれんな」
「自分の作品を多くの人に理解してもらえないまま、こんな入り組んだ狭くて古臭い場所で独り小説を書いていた……。誰だって病みますね」
「そうやな〜。今の社会のシステムやと、どうしてもそういう人が出てしまうんやな〜。一回仲間外れになると、なかなか社会の輪には戻られへん」
「そうですね。だからみんな他人を蹴落としてでも必死にしがみつこうとしている。ある意味で、全員が病んでいるのかもしれません」
「病み繋がりで、次は被害者のバイト先行くか。ここからちょっと行ったところのレンタルビデオ屋やったよな」
遠藤さんはバックトラックするように数歩戻った。そしてなぜかそこで立ち止まった。
「ええ。非正規雇用。あからさまな人権侵害ですね。社会の闇だ」
「あの、それはいいねんけど、先行ってくれへん? 足場の位置的に自分が動いてくれないと俺進まれへんねんけど」
「ああ、なるほど」
「いやなるほどじゃなくて。言っとくけど、自分も出られへんからね?」
「仕方ない、戻るとしましょう」
「いや上半身まで逆再生せんでいいから」
真鍋くんの家から自転車で十五分ほどの道のりを、車で五分かけて店に行った。店は駅の近くの、ビルやマンションや飲食店やカラオケや病院などで混み行ったエリアにある、年季の入ったマンションの一階にあった。
車は隣接している五台ほどの容量の駐車場にかろうじて停められたが、二人は隣の車に傷を付けないように気をつけながら降りなければならなかった。そして片方だけの自動ドアを開け、店内に入った。
「とりあえずざっと店内見てみますか」
「そうやな」
左にはレジ、右には新作コーナーの棚があった。そこで肩から大きな鞄を提げたスーツ姿の中年の男が、パッケージからディスクの入ったケースを取り出していた。横幅は十メートルほどだが、縦幅はその倍以上ある。二人は、上から下までDVDのパッケージがびっしり詰まった身長以上の高さの棚の間を奥に進んでいった。
「なんか、ギュウギュウですね」
「洞窟みたいな圧迫感があるな」
「あ、R18のコーナーだ」
「グロいのがいっぱいあるんやろ。こわ〜」
「グロじゃなくてエロの方だと思います、多分」
「ちょっと覗くか。……なるほど」
園常寺は(18)の文字の上に禁止マークが描かれた黒いのれんを手でよけて、上半身だけで中を覗き込んだ。中は三面が他と同じ棚で囲まれた、縦二メートル横一メートルの空間だった。園常寺は案外ニヤけた顔をしていない。パッケージの方は見えないし、背表紙に書かれた文字は、特有の長いタイトルのせいで、パッと見では読めないからだろう。
「どうでした?」
「これでもかっていうぐらいAVがあって、ある意味グロかったわ」
「そうですか、っていうか先輩はじめから知ってましたよね? 知ってて覗きましたよね?」
「うん」
「うんって」
「ほんなら別ルートで戻ろか。俺は右の方から行くから、自分は左から行って?」
「わかりました」
ちょうど閉じたハサミのような形になっている通路の外側をそれぞれ通り、入り口近くのレジの前に戻った。フレームの太い眼鏡をかけた女子高生ぐらいの年代の店員に事情を聞こうとしたら、店長を呼んでくると言い、奥の部屋に入っていった。するとすぐに細長い体と顔に細いフレームの眼鏡をかけた男がのれんを分けて出てきた。
「警察の? 真鍋くんのことで?」
「お仕事中すいません。真鍋健太さんがこちらで働いていたと伺いまして」
「ああはい。彼は最近辞めましたけど。どうかしたんですか?」
「先日亡くなりまして、そのことで情報を集めてまして」
「ああそうだったんだ。いやいつも夜勤入ってくれてたから助かってたんだけど、彼亡くなっちゃったんだ」
「ええ。真鍋さんがどんな方だったかお聞きしてもよろしいでしょうか」
「う〜ん。彼が働いてた時間は僕もいない時間帯が多かったからあんまり詳しくはわからないけど、まあ真面目にやってたと思いますよ。特にトラブルとかもなかったし。ねえねえ、真鍋くん、どんな子だったか覚えてる?」
店長は両手を自分の腰にあて、顔だけ女子店員の方を向いて言った。女子店員は別の方を向きながら顔だけ店長の方に向けて答えた。
「う〜ん、私とはあんまりシフト被ってなかったので、よく分からないです」
「彼大体一人でやってたから。こんな感じでいいですか?」
「わかりました。ありがとうございました」
二人は手ぶらで店を出て、車に戻った。来た時と同じように、ドアをほんの少ししか開けられず、狭い洞窟に入るようにして乗車した。
「なんにもわかりませんでしたね」
「誰も悪くないけどほんま酷い世界やな」
「そうですね。不健康で非文化的な最低限度の生活って感じです」
「よう耐えてたと思うわ。凄惨や」
「データや数字だけではわからないものが壊滅的になっている気がします。今の社会の上にいる人たちは、1っていう数字にも一人の人生があるっていう事実を知らないんでしょうか」
「現実主義の割に現実が見えてないんやわ。とりあえず一旦お昼休憩挟んで、次はあいつの家行こか」
「張本さんの……。まさか被疑者になっちゃうなんて」
「今まではナノマシンを所有してないっていうので容疑が晴れる人が多かったけど、この前ばら撒かれちゃったからな〜。関係者はみんな被疑者や。それに、現場に居合わせてるわけやからな」
「先輩はどう思ってますか? 白か黒か」
「ショッキングピンク」
「これは心をR18の間に置いてきてますね」
私の家に行く途中、日の丸の赤い領域が多いマークの、ファミリーレストラン(ラスト)に立ち寄った。平日なので駐車場は空いていて、彼らはバックで駐車すれば直進して出られる場所に停めた。
二人は窓際のカウンター席に並んで座った。そして各々目の前に置かれているタッチパネルで注文し、料理の到着を待った。その間も前の道路では、大型トラック、建材を乗せた小型トラック、無数の乗用車が通り過ぎていった。
「ふと思ってんけどファミリーレストランやのにカウンター席って、よくわからんよな」
「確かに。ていうか私たちファミリーじゃないですけど入ってよかったんでしょうか」
「今だけファミリーってことにしたらええねん」
「そうですね。じゃあ私がお母さんで、先輩が網戸ってことにしましょうか」
「網戸がなんでお母さんとファミレス来てんねん、あ、ありがとうございま〜す」
細身の男子大学生のような店員がステーキ皿を持って後ろからやってきた。園常寺は料理を受け取ろうと手を出した。
「こちら、肉盛り合わせプレートになりま〜す」
「はいどうも〜」
「冷めるんで先食べてください」
「じゃあ遠慮なく、いただきま〜す。……ん〜、ハンバーグジューシーやわ〜。肉汁が泉のように湧き出てくるわ~」
「見せつけるような食リポやめてください、あ、ありがとうございま~す」
同じ店員が、今度は丼を持ってやってきた。遠藤さんは既に、右手にスプーンを握っている。
「こちら、まぐろたたき丼になりま~す」
「はいどうも~」
「冷めるからはよ食べや」
「言うまでもありまいただきま~す」
「いただきますがフライングしてるで」
「……ん~、まぐろの旨味がクチの中で大爆発を起こしてルワ~。わさびが脳天を突き抜けて行くワ~」
「関西弁が変過ぎて日本語勉強中の外国人留学生みたいになってるやん」
「先輩よく喋りますね。ご飯中なのに」
「……すいません」
食事を終えた二人は十数分車を走らせ、とうとう私の家にたどり着いた。園常寺がインターホンを押し、私のいる時間と繋がった。
「はい。張本です」
「園常寺や。悪いな」
数十秒後に私が出てきた。今回は園常寺が前に立っている、両手を後ろで組んで。知人兼被疑者の家に捜査に来ているにもかかわらず、この男はいつも通りちょっかいを出しに来ているような物腰だ。
「今日は何の用だ」
「お前はいつの張本や?」
「不躾だな。人に生きている時間を尋ねるならまずは自分から名乗るのが礼儀だろう」
「俺らとこの世界は、2027年3月31日や」
「……そうか」
「ちゃんと言ったぞ」
「私は2026年4月1日にいる」
「一年前か」
「じゃあ、まだ私のことを知らない?」
「いや、知っているよ。さあ、入り給え」
私は二人をリビングに招き、お茶を取りにキッチンへ向かおうとした。
「あ、別にもてなさんでいいで」
「どうしてだ?」
「今日はこの家を調べに来たからや」
「……そうか。なら好きに調べるといい」
園常寺は不安をぶら下げたまま遠藤さんと、家の中を一部屋一部屋確認し始めた。まずは玄関から見てリビングと反対側にある和室に入った。
「壺とか掛け軸とか置いてないねんな」
「置く意味がわからないからな」
園常寺が物質的非物質検出装置を使い、部屋全体をスキャンした。光が一瞬部屋全体に広がっていったが、すぐに何事もなかったように元通りになった。
「一体何を探してるんだ?」
「お前の記憶と感情や。特に殺意とか」
「私を疑っているようだな」
「容疑を晴らすためでもある」
次に奥の脱衣所、トイレ、浴室でも同じように装置を使った。
「何気に浴槽デカいな。ちょっと入ってみていい?」
「お前は何を調べに来たんだ」
家の中央にある階段で二階に上がった。二階は三部屋ある。はじめに右端の書斎に入った。ここは本棚と机があるだけだ。
「ここが書斎か~。大量の本に囲まれながら本書く小説家って、産婦人科の助産師さんみたいな感じなん?」
「かなりアクの強い例えだが、まあ似ているかもしれないな」
「この本棚って裏側に隠し部屋とかありますか?」
「いや、そんな古典的な仕掛けはない」
次に書斎の隣の、衣類や荷物を仕舞う部屋に移動した。中にはクローゼットが二つと、自分でもいくつあるのかわからない段ボールの山がある。
「なんやこの部屋。引っ越したてみたいやん」
「仕事で何かしらを貰う機会が多くてな。まあそれだけじゃないが」
「他には何があるんですか?」
「趣味だ。小説の参考にする目的もある」
「どんな趣味?」
「それは言えない」
「まあどうせわかるんやけど」
園常寺は何の躊躇もなく空間把握装置を使った。飼い犬に手を噛まれるとはこのことだ。装置の画面を二人して食い入るように覗き込んでいる。
「なんかいろんなもん入ってるやん。ガラスの靴に、金の延べ棒に、リバーシの台に、鎖が注がれたビールジョッキに、ピーラーに、金でできた真実の口に……」
「それはメッキだ」
「これは温度計かな。テプラ?懐かし~。蝶々が竜巻に巻き込まれた絵だ。葉っぱの上にミニチュアの街ができてる。あ、これは普通のダンベルだ。折れ曲がる鉛筆もあるじゃないですか~、ってこれきりがないですね」
「これ趣味っていうかゴミやんな?」
「そんなことはない。インスピレーションの源泉だ」
「将来ゴミ屋敷みたいになるなよ~?」
「それは絶対にない」
「なんでそんなん言い切れんねん。絶対は絶対にないねんぞ」
「いや、ないこともない」
「終わりそうもないので次行きましょうか」
左端の最後の部屋に来た。この部屋はただの部屋だ。
「何もないやん」
「物が透明になってるんじゃ……、ってほんとに何もないですね」
「そんなファンタジーな仕掛けもないからな」
「念の為装置で確認しとくか。……。……。うん、何もないわ」
「どうだ? 何も無かっただろ?」
「無……かったな」
園常寺がそう言い切った途端、こいつのスマートフォンに電話が鳴った。とうとうクライマックスに入る合図が出たようだ。
「(はいもしもし。……え? 張本がおらんくなった? ああわかった。こっちでも探すわ)。…………未来のお前はどこ行ったんや、って過去のお前に聞いてもしゃあないか」
「どこに行っちゃったんでしょう。せっかく容疑が晴れたのに」
園常寺の顔は晴れていない。下を向いている。暁の寸前が最も暗いということらしい。
「容疑、晴れたな……。証拠が、無かったもんな。無い……、証拠が……。…………。……そういうことか……」
「どうしたんですか?」
「……そうか。全部の謎が解けたわ」
そう言う園常寺はスカッとした顔をしていない。こいつは人命よりも犯人を見つけることに関心がある推理マニアではないということだ。まあそんな推理マニアが真実に辿り着くことは決してないのだが。
「ほんとですか?」
「やっぱり犯人はお前やったんやな、張本」
「証拠は無かったんじゃないのか?」
「そこや。普通の人やったら証拠が無かったらそれで終わりや。やけどお前は違うやん。お前の思想は無いところから始まるのが特徴やろ? 証拠が無い、はい終わりじゃなくて、証拠が無いのが証拠やったんや」
過去の私は全く動じていない。何もない部屋の中で静かに突っ立った三人。窓も開けていないから、風も外の音も入ってこない。ミステリー小説の種明かしにしては画が地味だと思った人もいるだろう。これは仕方のないことなのだ。崖も刑事の家も、最初の事件現場も最後の犯行現場もクライマックスの舞台には適さない。
「……その通りだ。だがそれを、物語が始まる前の私に言ってどうなるんだ?」
「確かにそうやな。あいつ、どこ行ったんや」
「あの、それなら、心当たりがあります」
「ほんまに? どこなん?」
「警察省の中です。それも、多分屋上……」
「なんでや?」
「まず張本さんがただ逃げるためだけにいなくなるとは思えません。そんなことに意味がないことを誰より知っている人だからです。きっと、何か意味のある行動をする。張本さんは自己矛盾を嫌い、いつも自分を顧みている。だから……」
「まあそれで外に逃げるフリして中におるっていうのはわかるわ。やけどなんで敢えて屋上なんや? ナノマシンでどこでも行けるんやから、それこそ倉庫室とかの方が顧みてることの表現になるんちゃうんか?」
「これは多分なんですけど、風を感じたいのかもって」
「なんやそれ。……まあええわ。とりあえず警察省っていうのはほぼ間違いないやろうから、二手に分かれよ」
「わかりました。じゃあ戻りましょう」
「玄関の鍵は開けたままだ」
「ご親切にどうも!」
二人は部屋も家も飛び出すように出ていき、家の前に停めていた車に乗って光速道路を使い、すぐさま警察省に戻った。
即席の作戦通り、園常寺は倉庫室へ、遠藤さんは屋上へ向かった。エレベーターを先に降りた園常寺は走って倉庫室の前まで来て、慌てながら鍵を差して扉を開けたが、残念、そこには私はいない。
そのままエレベーターで最上階まで上がった遠藤さんも、ドアが開いたのと同時に走り出し、屋上へと続く階段に出る扉の前まで来た。だが、その扉の鍵にはロックをかけておいた。遠藤さんに解けるだろうか。
「四桁の暗証番号? なんだ? 張本さん……。誕生日、はわからない。あそうだ、先輩に聞こう。(……、正解はこっちでした! 早く最上階まで来てください! あと屋上に出られるドアにロックがかかってて、四桁の暗証番号が必要なんですけど、わかりますか?)(元々のセキュリティのやつ?)(これは違うと思います。鍵穴に見たことない機械が刺さってて)(じゃあ張本のやな)(張本さんの誕生日とかわかりますか?)(いや、なんも知らん。っていうかこの期に及んでそんなプロフィールを暗証番号にせえへんやろ)(確かにそうですね。何か意味のある数字……。無! 0000はどうだ! ……違う)(それやったら、何も入力せずにEnter押してみたら? そういうシステムやったらやけど)(確かにその方が無ですね。……あ! 開きました!)(やったな。ちょっと待って、俺ももうす」
皆さんに最初にお見せした通り、遠藤さんが一番乗りだ。
「張本さん……。やっぱり……」
「お見事だ。やはり、この物語の主人公は君だな」
「どうして、こんなことを……」
「それはこうすることが私の生きる意味だからだ。にしても、思ったより冷静だな。両親を死に追いやった張本人が目の前にいるというのに」
「怒ってますよ。場合によっては殺す覚悟もできてます」
「それでいい。それが君の生きる意味なのだから」
園常寺も来たか。私の初めての友。まあ出会った時からこうなることは決まっていたのだが。
「張本、やっぱりおったか……」
「お見事だ、二人とも。私を犯人だと見抜き、この場所も探し当てるとは」
「この桜の花びら。建物の屋上で、しかも桜の木なんか一本も植えられていないのにこんなに舞ってる。これがナノマシンの生みの親の持てる力というわけですか」
「……」
「これも小説家の演出か? 張本、全部ひっくるめてなんでこんなことしたんや?」
「それは、大いなる動機のことか? それなら既にお前たちはいいところまで行っていたが」
「ナノマシンとか事件の話はしても、その話をお前にした記憶はないねんけどな。まあ一旦ええわ。じゃあ動機は、人々に言葉を正しく使えるようにさせるためってことでええんやな?」
「動機なんていうものも一意的じゃない。だからひとまずそういうことにしておこう」
「私の両親も含めて、亡くなった十四人とはどうやって知り合ったんですか?」
「彼らは私の小説を読んで手紙を送ってくれた者たちだ。皆、悲劇的な現実を生きていた」
「悲劇的……。私の両親も?」
「そうだ。君のお母さんは亡くなる頃には癌が全身に転移していて、余命幾許もなかった。お父さんも、同じ頃に全身が少しずつ動かなくなっていく指定難病だとわかった。だから当時は、一家で心中するか死亡保険で娘と養育費だけを残すかという選択に迫られていた」
「……知らなかった」
遠藤さんの表情が暗くなった。伝えた事実が、これからどう影響するだろう。
「そうだろうな。そんなこと、小さい子供に言えるはずがない」
「……それなら、ナノマシンで病気を治してくれたら……」
「ナノマシンは人々に言葉を正しく使えるようになってもらうために生み出したものだ。だから気付かなかったかもしれないが、ナノマシンはその目的に適うことしか叶えてくれない」
「……」
「だからか。ナノマシンが全世界に拡散されてからのこの一ヶ月、予想に反して何も起きてないんは」
「それは違うな。なんであれ最も優秀な学習方法は実践だ。だから使わせた方がゴールへの近道となるだろう」
「じゃあなんで……。ああそうか、ナノマシンは心の奥深くから発した言葉を具現化するから、みんな心を閉ざしとって使えてないってことか」
「その通りだ。ナノマシンは心を解放していなければ使うことができない。現代は心を閉ざすことを推奨すらしているような世の中だ。だからまず、心と向き合ってもらわねばならない。そのために、亡くなった者たちが命懸けで託した言葉がある」
遠藤さんの顔が曇ったままだ。それでも、きっといつか晴れるだろう。
「言葉ってなんや?」
「君たち二人が捜査中に出会った言葉のことだ。忘れたか?
『何があっても、考えることだけはやめないように』
『信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である』
『君の中には、君に必要なすべてがある。「太陽」もある。「星」もある。「月」もある。君の求める光は、君自身の内にあるのだ。』
『あなた方の仕事、あなた方の意志こそ、あなた方の最も近い「隣人」なのだ』
『どこまでも弱く、移ろいやすく、醜いのも人間の心。しかし、どこまでも強く、揺るがず、崇高になれるのもまた人間の心なのです』
『愛の中にあるものは神の中にあり、神もまた、その人の中にある。なぜなら神は愛であるから』
『全ての物事は、その人の心によって成り立つ』
『一貫したものは環境においてでなく、自分みずからのうちに求めよ』
『自然は互いに模倣する。よい土地に蒔かれた種は、実を結ぶ。よい精神に蒔かれた原理は、実を結ぶ』
『海より広いものがある。それは空だ。空より広いものがある。それは人の心だ』
『汝自身を知れ』
『ただ心こそ大切なれ』
この十二の言葉は人を心の中へと導く。いわば、ナノマシンを起動するための合言葉だ」
「それはわかった。けど、それをナノマシンが使える俺らに言ってもしょうがないんちゃうんか? ほんまに伝えるべきは群衆やろ」
「それは、ナノマシンができた経緯を知れば納得できるだろう。まあその経緯というものを理解できればの話だがな」
「経緯か。確かに、お前はナノマシンをどうやって生み出したんや?」
「言葉を具現化するナノマシン。実はな園常寺、この世にそんなものは存在しないんだ」
二人とも困惑しているな。だが、君たちなら理解できるはずだ。
「……なんやて? どういう意味やねん。実際今もこうやってありえへん場所で桜が散ってるやないか」
「ここは、小説の中の世界なんだ」
「なんや急にファンタジーな」
「心の中に入っていくことで、作者の本懐に辿り着ける。実を言うと作者の本懐と登場人物の本懐は同じわけだが、とにかく心の中に入っていけば、そのことに気付くことができる」
「……」
「それは作者の世界でも同じことが言える。心の中に入っていくことで、創造主の本懐、その世界が存在する意味、真実の真理に辿り着ける。作者たち人間の本懐と創造主の本懐が全く変わらないところも同じだ」
「……それやったら、俺らの本懐と作者の世界の創造主の本懐も同じになってまうやないか。……ああ、そうか」
さすがは園常寺だ。真実を明らかにするために存在する男。この物語の真実がわかっても、目を閉じて小さく呟くだけ。謎が解けた時の快楽のためにではなく、真実の真理のためにそれを追い求める。私も同じだ。
「そうだ。全員根源は同じ。だからある意味では登場人物も作者も創造主も違いはない」
「それに気付いたら運命と自分の本心は全く同じになって思い通りに、ってことか」
「その通りだ。ナノマシンはそれをわかりやすく可視化したものに過ぎない。読者に伝わるようにな」
「読者っていうのは……」
「この世界と作者の世界の人間だ」
「この世界で起きてる超常現象は、その本懐に気付いた人間が起こしてるってことなんか?」
「半分ぐらいはそうだ」
「なんやそれ。じゃあ残り半分はなんやねん」
「それはまた別の作品で話す予定だ」
お前がな。
「あの、作者の本懐と登場人物の本懐って、本当に同じなんですか? 悪事をすることが生きる目的になってるキャラだったり、善く生きることは愚かで不幸なことだって暗に揶揄したような小説とかもあります」
「作者だろうと登場人物だろうと、悪人は本懐に生きられない。全身全霊に生きているように見えても空転しているんだ。逆に本懐に生きれば、悪人には書くことのできない物語を生きることができるとも言えるな」
「……」
遠藤さんは、まだ全てを理解できていないようだ。そしてこの小説の読者である皆さんも、きっと同じ状態だろう。今すぐに結論を出すのではなく、自分の心と対話する中で少しずつ答えを出していってほしい。
「さあ、この物語もクライマックスだ。園常寺、この物語を、私の遺作として出版することを頼んでいいか?」
「なんやねん遺作って。お前が普通に自分で出版したらいいやないか」
「私の人生はこの物語のクライマックスと共に終わる」
「なんでそんなことが言えんねん」
「すぐわかるさ」
私は右手をこめかみの横まで持っていった。とあるものを握った状態の形で。その隙間を埋めるように、(ナノマシン)が集まって拳銃が現れた。
「何の真似や、それは」
「私は罪を償わねばならない。そして、ナノマシンが方便であるように、この物語自体も方便であると証明するために」
「そんなもん理由になるかいな」
「二人とも、出演料が払われていないと憤慨していたな。私が支払おう、私の遺産で」
「おい張本っ!」
*
張本が書いてた小説はここまでやった。あいつがその先を敢えて書かへんかったんか書かれへんかったんかは知らんけど、ここからは生まれながらの文才の持ち主、園常寺くんが筆を取ることにします。きっとあいつにとっても必要なことやから。
場所は病室。真っ白なベッドの上で、真っ白……、よりは多少血の気のある遠藤が寝てる。窓から入る風がレースのカーテンを揺らめかし、日光が温かい照明になってる、そんな絶好の看病日和。遠藤はとうとう重そうに瞼を開いた。
「おお! 目ぇ覚ましたか!」
「……先輩。あれ、私、どうして……」
「何があったか忘れたんか? あの時、」
*
張本さんが倒れた……。私、とうとう人を撃ったんだ……。
「自分、なに握ってるんや……、それ……」
先輩が本気で呆然としてる。……あれ? そんなことよりなんだか、体が熱い……。……熱い。すごく熱い!
「あ、熱い……。体が……」
「おいどうしたんや! もうどっちを助けたらええねん!」
あれ? 先輩が壁に立ってる。また変なことして……。変わらないな……、変人なのは……。
「おい遠藤! 遠藤! しっかりせい! 遠藤!」
*
「……そうだ、私、急に体が熱くなって、それで……」
「自分のお父さんのナノマシンが罪悪感を具現化したんや。今は俺の、じゃなくて自分のお母さんのナノマシンでうまいこと中和させてるから大丈夫やと思う」
「……ありがとうございます。……そうだ、張本さんは?」
「あいつはまだ生死の境を彷徨ってる。自分のお陰で自殺は阻止できたけど、自分の撃った弾丸が心臓に留まってて、それを取り出したら張本の体の時間が止まってしまうねん。時計の電池みたいなもんやな。そんなわけやけど、そのまま心臓に残し続けてたらどんどん弱って死んでしまうから、今は外したまま体の時を止めてある」
「そうですか……。救いましょう、いつか必ず。張本さんも、亡くなった人たちも」
「そうやな……」
「お! やっぱりちょうどいいタイミングだったね! 良かったよ遠藤さん、目が覚めて!」
天野がドアを開けるのと同時に喋ってきよった。隣には先輩も……。ん、先輩なに持ってるんや? その顔ぐらいのサイズの黒い物体は。二人は遠藤の枕元に移動した。
「ご無事でなによりです。こちら、お見舞いの品です」
「天野さんにマスター。あ、ありがとうございます。……これは?」
「ドラゴンの卵です。体が熱くなっていると聞きまして、これならほとんど無尽蔵に熱を吸収してくれるでしょうから」
「……やっぱり超常的な人ですね」
この文章はドキュメンタリーであり脚本であり小説でもある。それはなにもこの文章だけじゃない。これを読んでくれてるみんなの人生自体が、
「先輩……」
「何? 今いいところやってんけど」
「先輩あの時、焦って私のこと遠藤って呼んでましたよね? もしかして、ほんとは(自分)じゃなくて、そう呼びたいんじゃないですか?」
「全然そんなことないけど? ほんまは遥ちゃんの方がそう呼んでほしいんちゃうん?」
「……」「……」「……」
その時、どこかの星が超新星爆発を起こす音が聞こえた気がした。
「……拳銃になれ」
「ちょっと待って! 俺の時間を止めないで! それでなくてもギャグが滑ってちょっと時間止まったのに!」




