2.幽霊爺さん
シャワシャワというクマゼミの鳴き声が、近くの山から大合唱となってこの住宅街に響き渡る。朝だというのに、既に気温は三十度近くまで上がっているらしい。朝の天気予報で出ていた今日の最高気温の数字が、頭の中にチラついてげんなりする。歩いているだけなのに、額から背中から汗が滲み出てきて鬱陶しい。俺は額の汗を手の甲で拭いながら、頭上に向かって声を発した。
「何で付いてきてんの?」
俺は住宅街の路地裏を歩き、いつものように学校へと向かっていたのだが――。
チュンはなぜか俺の頭の上に乗り、そのまま付いてきていたのだ。ちなみに見た目ほど重さは感じないので、今のところ肩こりなどの症状は出ていない。
「当たりめえじゃろ。わし、おめぇに取り憑いたんじゃけん」
「ええっ!?」
俺が思わず洩らしてしまった声に、前を歩いていた同じ学校の女子二人が驚いた顔でこちらを振り返る。
あ……。し、しまった……。
俺は咳払いをしながら、慌てて視線を下に逸らした。
どうやらチュンの姿は俺にしか見えないらしい。漫画や小説で何度か見たことがある設定だが、まさか自分がそれを体験することになろうとは……。いや、こんなでかい雀が見えていたらそれはそれで騒がれそうだから、これでいいのかもしれないけどさ。
俺は先ほどより、若干声を潜めながら続けた。
「で、取り憑いてどうすんの!? 俺のことを呪い殺すの!?」
「何でそうなるんなら!? そんなことせんわ。言ったじゃろうが。わしは別に怒っとらんって」
チュンはそう言うが、どうも俺は納得できない。怒っていないのなら、なぜ俺に取り憑くのだろうか。やはり殺されたことを根に持っているからではないのか?
しかし正面からそれを聞いたところで、チュンの答えは変わりそうにない。まぁ、その辺りのことは追々聞いてみることにしようか。
「じゃあ、いつまでとか期限はあるの?」
「そこまで考えとらんわ。そうじゃなぁ。おめぇのわしに対する罪悪感が、もっと薄れるまでかのう」
「そ、そんなこと言ってもさ! 俺って雀の姿を見るたびに思い出して憂鬱になっていた人間だよ!? 今さらそんなことを言われても――」
「なら、雀の姿じゃなかったらええんじゃな?」
「へ?」
そう言うとチュンは俺の頭から離れ、近くのブロック塀の上にピョンと飛び乗った。少しバランスを崩したらしく、大きな体が斜めになる。が、ぱたぱたと羽を動かし、何とか事なきをえた。
ちくしょう。雀は苦手だけれど、今の一連の動作はちょっと可愛かったかもしれない。
などと思った次の瞬間。
チュンの全身から、まるでドライアイスのように濛々とした煙が発生し始める。
え。何なのこの、『今からイリュージョンが始まりますよ』的な煙は!? いきなりすぎてちょっと俺ついていけないんだけど!?
そんな放心する俺を置いて、白い煙は一層濃さを増していく。そして何の脈絡もなく、急に小さな光が弾けた。
「――!?」
カメラのフラッシュみたいな閃光に、俺は思わず瞼を閉じる。一体何だ!?
恐る恐る目を開いたその先には――。
青い竹柄の着物を身に着けた、十歳くらいの女の子が塀の上に腰掛けていた。
肩のところで真っ直ぐに切り揃えられた髪は、チョコレートの如く濃い茶色。そして何より特徴的なのは、その目だった。まるでブラックホールを彷彿とさせる、ずっと見つめていたら吸い込まれてしまいそうな夜の闇より濃い瞳。思わずぞくりとしたものが背中を走る。が、その大きな瞳に、俺は同時に神秘的なものも感じていた。
瞳こそじっくり見ると少し恐怖を感じるものの、その姿自体は小さくて可愛いらしい。
ちなみに、この場合の『可愛い』は異性に対するそういうものではなくて、愛らしい子供って意味だ。俺はロリコンではない。
「この姿なら、大丈夫じゃろ?」
小首を傾げながら軽く微笑むチュンを見て、俺の脳と心に電流が走る。
何てことだ。俺、今まで全く気付かなかった……。
「チュン……お前……」
「何じゃ? 頑張って人間の姿を真似てみたんじゃが、どこか変かのう?」
「雌だったんだ……」
「なっ!? あれだけわしの裸を見ておきながら、わかっとらんかったんか!?」
「いや、わかんないから!」
「だっておめぇ、糞する時とかわしの尻ガン見しとったろうが!」
「それでも雀の雄と雌の区別なんて、普通できないから! 無理だから!」
もしかしたらひよこの鑑定士ならわかるのかもしれないが、もちろん、俺はそんな資格など持ってはいない。
「それに自分のことを『わし』って言っているし、てっきり雄なのかと……」
そこまで言いかけて、頭の隅に置いていたままにしていたある疑問を俺は口にした。
「あのさ、ずっと気になっていたのだけれど。どうしてそんなに訛ってんの?」
「え? この喋り方、おかしいんか?」
「いや、おかしいってわけじゃないけれど。この辺りではあまり聞かない喋り方だからさ」
「そうなんか。その変をウロウロしとった爺さんに、人間の言葉を教えてもろうたんじゃがのぅ……」
おいおい。その変をウロウロしていたって……。
ていうか、ちょっと待て。雀に言葉を教えてあげるなんて、どう考えても普通じゃないだろその爺さん!?
いや、もしかしたら認知症の徘徊老人という線も!? もしそうだった場合、警察に通報してあげた方がいいのかな……。と俺がそんなことを心配していると、チュンが塀に腰掛けたまま学校の方角を指差した。
「ほれ、あの爺さんじゃ」
何というタイミング。噂をすれば何とやらだな、と考えながら目線をそちらにやる。俺から約十五メートル離れた十階建てのマンションの入り口前で、その爺さんの姿を捉えた。捉えたのだが――。俺は爺さんを見た瞬間、絶句してしまった。
短く刈りあげた真っ白な髪に、堀の深い顔立ち。百七十センチある俺よりも上回っているだろう背は、この年代の人にしては高めの身長だと思う。爺さんはこちらに横顔を晒している状態なのだが、少し離れたここからでも目付きの鋭さがわかった。
だが俺は、爺さんのそんな風貌に驚いたわけではない。
「なぁ、チュン。あの爺さん、どう見ても透けているんだけれど……」
「そうじゃな。まぁ幽霊じゃけんな」
さらりと言ったそのチュンのセリフに、俺の顔からサッと血の気が引いていくのがわかった。
俺、霊感なんてものとは全く無縁の人生を送っていたはずなのですが……。当然、今までの人生で幽霊なんぞ見たことはない。
俺の青い顔を見て何やら察したチュンが、塀からピョンっと飛び降りて俺の顔を下から覗き見る。
「もしかして悠護、今まで霊を見たことなかったんか?」
「ないよ!」
「そうなんか。見えるようになったのは、わしが取り憑いたからじゃろうな。十中八九」
「ええええっ!?」
それってとんでもないことじゃないの!? これからこんなのが嫌でも目に入ってくることだよな!?
慄いている俺を置いて、チュンはその爺さんの方へ駆け出してしまった。
「おーい! 爺!」
やけにフレンドリーなチュンの呼びかけに、マンションの入り口をじっと眺めていた爺さんは驚愕しながら振り返った。
「なんじゃ? ……もしかしてその声、おめぇ雀か?」
「そうじゃ。悠護が雀を見るのが苦痛じゃって言うけん」
いや、確かにそういう意味合いのことを言ったかもしれないけどさ。でも姿を変えろとまでは言ってはいないし。それにそんな言い方をされたら、何だか俺がいじめたみたいじゃん……。
正直、爺さんに近付くのは抵抗があったのだが、大変残念なことに学校は爺さんのいる方角だ。まぁチュンに人間の言葉を教えてあげた人みたいだから、とりあえず人を襲うような悪い幽霊とかではないだろう。
楽観的にそう判断した俺は、とりあえず二人の側まで近寄った。
「そうけぇ。えれぇ可愛い姿になったもんじゃのう」
「そうか? 照れるのう。それより爺、今日はこの辺りを探すんか?」
「あぁ。まずはこのマンションから行ってみよう思うてのう」
幽霊爺さんはチュンに答えた後、再びマンションの入り口へと視線を戻した。
二人の会話から察するに、爺さんは誰かを探しているらしい。しかし幽霊が人探しって……。それってつまり、呪いをかけに行こうとか、チュンみたいに誰かに取り憑こうとしているってことなのでは――。
と少し不吉なことを考えている俺に、ニッと笑いながら爺さんが話しかけてきた。
「おお。おめぇさんが悠護か。雀から話は聞いとるでぇ」
「ど、どうも」
俺は軽く頭を下げながらチュンに視線を送る。チュンは俺のことをどういうふうに爺さんに喋っていたのだろうか。俺の視線に気付いたチュンが、そこで振り返った。
「おお、そうじゃ。悠護は『えり』って名前の女の子を知っとるか? ちょうどおめぇと同じくれえの年齢じゃと思うんじゃが」
「えり?」
「あぁ。もし知っとったら、教えてくれんじゃろうか?」
答えたのは爺さんだ。俺は脳をフル回転させて、記憶の中から『えり』という名前の女の子の情報を引き出そうと試みた。が――。
「すみません……。そういう名前の子とは、会ったことがないです」
「そうか。変なことを聞いてすまんかったの。じゃあの、雀。またな」
爺さんは一方的に俺達に別れの言葉を告げると、マンションのエントランスの中へと入って行ってしまった。爺さんとすれ違うように、マンションの中からOLっぽい女性が出て来た。爺さんの肩が女性に当たるのが見えたが、その女性は爺さんには目もくれなかった。本当に、見えていないんだなぁ……。
「またのー」
笑顔でひらひらと爺さんに手を振るチュン。かなりチュンはあの爺さんに懐いているみたいだ。
「チュン。あの爺さん、人探しをしているのか?」
「あぁ。孫を探しとるんじゃと」
「孫、か」
孫を探している理由はわからないが、それだと呪いとか復讐のために探しているとう可能性は極めて低そうだ。何せ、孫は目の中に入れても痛くないって言うくらいだしな。
思い描いていた不吉な事態になりそうにはなかったので、ひとまず俺は安堵したのだった。