3.捕らわれの鼠
コンビニから俺と手を繋いだまま、ちょこちょこと歩き続けるチュン。この姿、俺にしか見えないのがもったいない。ちょこちょこ歩きをみんなに見せびらかしたい、とつい思ってしまうほど可愛かった。さらに目が合う度に嬉しそうにはにかむものだから、これがまた本当に心を直撃するというか。
妹か……。いいもんだな。
歩く速度を少し落としてチュンに合わせてあげるのも、自分が気が利く兄っぽくて少し誇らしい気分になる。
そんな胸がくすぐったくなるような兄気分を満喫していたのだが、突然チュンは足を止める。手を握っていたので、思わず後ろにつんのめりそうになる俺。何だ? びっくりしたぞ。
「急にどうした? 疲れたの?」
「違う。またあの鼠じゃ」
眉間に皺を寄せたチュンは俺から手を離し、ふわりと空に浮かぶ。それまでの笑顔が嘘のようにフッと消え、顔から感情がなくなる。光を宿さない漆黒の目は、より濃さを増したように見えた。それを見て、思わず背筋に冷たいものが走る。
確かにチュンの仕草は可愛いけれど、あの目だけはどうしても怖いな……。
チュンは浮いたままゆっくりと前進して――と思ったら、なんとそこでいきなり急降下!
「おおっ!?」
腕を伸ばした状態で、アスファルトの『何か』を掴んだチュン。それはまるで、獲物を狙う鷹のような鋭い動きだった。元は雀なのに……。幼女の姿をしていても、やはりそこは妖怪ということか。
俺は小走りでチュンに近寄る。一体チュンは何を捕まえたんだ?
近付いた俺は思わず息を呑んでしまった。チュンは行く時に見た、ハムスター妖怪の首根っこを掴んでいたのだ。
妖怪が妖怪を狩ることなんてあるのか? と疑問に思ったところで、チュンはハムスター妖怪を自分の眼前まで持ち上げる。漆黒の目に見つめられたハムスター妖怪が、そこで小さく震えたように見えたのはたぶん気のせいではない。
「また悠護に接触しに来たんか? 悠護はわしがとり憑いとるけん、あまり周りをちょろちょろせんで欲しいんじゃけどな」
眉間の皺を消すことなくハムスター妖怪に言うチュン。心なしか声が低い。
「まあ、おめぇは妖怪になったばかりみたいじゃけん、今回は大目に見てやるわ。特別サービスじゃ。聞いて欲しいことがあったら聞いてもらえ。ほれ」
『ほれ』と同時にチュンはハムスター妖怪を俺に付き出してきた。いや、そんな勝手に決められても困るんですけど……。そもそも俺にどうしろと?
ハムスター妖怪は歯をむき出しにすることもなく、チュンに首根っこを掴まれたままだ。
「ええと?」
チュンの意図がわからないので、ヘルプ視線を彼女に送ってみた。
「この前の猫の時みてえに『見て』やれ。たぶん、触ったら見えるはずじゃ」
「それって、このハムスターが妖怪になった理由を俺が『見る』ってこと?」
「そうじゃ。とりあえず悠護が理解だけでもしてやれば、周りをチョロチョロすることはねえじゃろ」
いやいやいや。それだと逆に付きまとわれる気がするんですが。それに簡単に言うけどさ、俺が『見る』ってことはまた『死』を体験するってことだろ。
でもチュンの様子がちょっぴり怖いので、俺は何も言い返さずそれに従うことにした。下手に逆らったら、首を狩られかねない雰囲気が漂っていたのだ……。そんなことはないとはわかってはいるのだが、空気に呑まれたってやつです、はい。
しかし、妖怪にも縄張り争いみたいな感情ってあるみたいだな。その対象が土地ではなく俺っていうのが、何だか複雑な気分になってしまうけれど。
まあハムスターだし、トラの時ほどの激しい苦痛はないだろう。……たぶん。
無理やり自分を納得させた俺は、ハムスター妖怪の頭に恐る恐る手を近づける。ハムスター妖怪はあの鋭い歯を見せることなく、おとなしくぶら下がっているばかり。俺は勇気を出して、小さな頭にそっと指で触れる。
瞬間、目の前で激しい閃光が弾けた。
目を開けると、だだっ広い空間が広がっていた。それが見知らぬ家の部屋の中だということを認識するまで、しばらく時間がかかってしまった。
トラの時よりもさらに視線が低く、床がすぐそこにあるからだ。耳に伝わってくる心臓の鼓動音がめちゃくちゃ速い。自分が小さな存在になってしまったことを全身で感じとる。
『俺』が後ろを振り返ると、そこには金属製の檻があった。出入口は半開きになっている。間違いなく『俺』はここから出てきたのだろう。その檻の中を見て、少なからず俺は動揺した。
プラスチック製の黄緑色の滑車は汚れきっており、くすんだ色になっている。おがくずが敷かれた床は掃除をしていないのか、いたるところに糞が散らばっていた。餌箱の中は空。水入れの中にも、ほとんど水は入っていなかった。俺はハムスターを飼ったことなどないが、この環境が良くないものだということは瞬時に理解できた。
『俺』はふんふんと鼻を鳴らしながら壁際に移動する。飼い主は留守なのか、それとも昼寝でもしているのか。家からは物音一つ聞こえてはこない。無音の部屋の隅を移動し続けた『俺』は、開いたままだったドアから廊下へと飛び出した。
天井が見えないほど高い空間に放り込まれた気分は、何とも形容し難いものだった。風船のように心がふわふわして落ち着かない。小さな生き物達は常にこんな世界を見ているんだ……。
俺がそんな感想を抱いている間にも『俺』はずんずんと廊下を移動していた。気付いたら玄関らしきドアが目の前にある。
そこは玄関の段差がほとんどないという、変わった造りの家だった。玄関のドアには靴が挟まっており、隙間が開いている。そこから生暖かい風が室内に入り込んできた。どうやら換気をしているらしい。そういえば部屋もエアコンを付けていないのか、家の中は暑かった。玄関が開いていたおかげで、『俺』は靴を乗り越えて難なく外に出ることができた。
外に対する好奇心や恐怖より『俺』の全身を支配していたのは、激しい空腹感だった。
あの狭いケージの中より、外にはきっと食べる物があるはず――。『俺』はそう信じていた。
土の匂いを感じながら雑草を掻き分けて進むと、道路に出た。時おり通り過ぎる車におびえながらも、そろそろと壁沿いを進んでいく『俺』。人間には何てことのない町の景色も、この小さな生き物にとっては脅威だらけなのだと実感する。
「ハムスターだ」
突然、上から子供の声が降ってきた。見上げると小さな女の子がいた。いや『俺』からしてみれば、それでも巨人のように大きく見えるのだけれども。驚いた『俺』は壁伝いに走り、どこかの家の植え込みの中に身を隠す。
「あっ、待って」
身体を極限まで小さくして、じっと息を潜める『俺』。女の子は植え込みの少し手前でしばらく立ち止まっていたが、「あ、ちょっと待っててね」と言い残し、近くの家の中に入って行ったようだ。時間にして三分ほど経っただろうか。ドアを開ける音とバタバタという足音と共に、また女の子は『俺』の潜む植え込みの前に戻ってきた。
「ご飯もらってきたの。あげるよ。出ておいで」
そう言って茂みの前に何かが置かれた。空腹感を刺激する良い匂いを嗅ぎ取った『俺』は、姿勢を低くしておそるおそるそれを見る。
置いてあったのは、ピーナッツだった。半分に割れた物からそのままの形の物まで、五つほどある。『俺』から見ると結構な大きさだ。美味しそうな食べ物を見た瞬間、『俺』の警戒心が幾分か解かれたのを俺は感じた。
ちょこちょこと日の下に出る。『俺』の姿を見た女の子が「出てきた」と小さな声で喜んだ。
一心不乱にピーナッツを食べ始める『俺』。腹の中が満たされていく満足感がこちらにも伝わってくる。
「かわいいー」
女の子が黄色い声を上げた。前足を器用に使ってピーナッツを持っていたから、その姿を見てのものだろう。
「ねえ、どこから来たの? 迷子になっちゃったのかな。おうちが見つかるまでうちへおいでよ」
無邪気に『俺』に話しかけながら、そこで女の子は手を出してきた。人間にとっては小さなその手も、『俺』にとっては象の足にも匹敵するほどの圧迫感があった。驚いた『俺』は反射的に植え込みへと逃げ込んだ。
「ああ、逃げちゃった」
女の子が植え込みの中を下から覗きこんでくる。『俺』はさっきより深く下がっていたので、おそらく女の子からは見えていないだろう。
しばらく女の子は植え込みの前で待っていたが、その間『俺』は微動だにしなかった。やがて諦めたのか、女の子が立ち去る気配がした。
腹が満たされたからか、幸福感と同時に睡魔が『俺』を襲ってきた。その欲求に抗うことなく、『俺』は一晩をそのまま植え込みの中で過ごすことにした。
それが誤った選択だったとも知らずに。
太陽が姿を消してから、あの暑さが嘘のように気温が下がっていったのだ。俺は初めて知った。土の表面は日に当たっていないと冷たくなる、ということを。
目を覚ました時には、既に『俺』は自身の身体を空中から見下ろしていた。苦痛もなく、呆気なく逝ってしまったらしい。そういえば中学の時のクラスメイトの女子が、飼っていたハムスターが死んでしまったと落ち込んでいたことがあったっけ。その時に、ハムスターは暑さにも寒さにも弱いから、ということをポツリと言っていた気がする。
しばらくの間、『俺』は横たわる自身の身体を見つめていた。仲間が倒れているが、動かない。大丈夫なのだろうか、と考えていた。どうやらこの身体が自分のものだと理解できていないらしい。ハムスターの世界には鏡なんて存在も概念もないだろうから、普通は自分の姿なんてわからないもんな。
自分の周囲をぐるぐるしていると、茂みの外から足音がした。
「ハムちゃん、ハムちゃん、出ておいで」
昨日の女の子の声だった。
「いないのかな。どこかに行っちゃったのかな」
いくら待っても反応がないからか、次第に声が沈んでいく。そこでガサガサと音が鳴った。植え込みを掻き分けようとしているらしい。だが植え込みの硬さに負けたのか、すぐに音はしなくなった。
「もしかして、死んじゃったのかな。他の動物に食べられちゃったのかな。どうしよう。私が昨日おうちに連れて帰っていたら……」
――チガウ。チガウヨ。ボクハココニイルヨ。ゴハンオイシカッタ。タクサンタベタノハジメテ。ウレシカッタ。ダカラ――。
『俺』は必死で呼びかけるが、その声は当然、泣き続ける女の子には届かない。
宙に浮いたように、『俺』の視線が徐々に上がっていく。もしかしたら本当に浮いていたのかもしれない。そこで初めて、俺は女の子の顔をはっきりと認識することができた。
――カナシマナイデ。
届かない声を発し続ける『俺』。
視界が白濁したのは、その直後だった。




