弁当消失事件
軽く咳払いをしながら、数学の滝本先生が教卓の上の教材をトントンと揃える。既に職員室へと戻る気満々だ。二十代後半の滝本先生は、まるで体育教師のような良い身体つきをしている。きっと先生の頭の中は、もう昼飯のことしかないのだろう。先生が時計を見ると、それに釣られて何人かの視線が時計へと集中する。
直後、四時間目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。チャイムが鳴り終わる前に、早々と教室を後にする先生。そして教室の中は、瞬く間に喧騒で包まれた。
「波崎ー。一緒に食おうぜ」
前の席の仲安が、自分の机を百八十度向きを変え、俺の机にくっ付ける。仲安の無造作ヘアーに決められた髪をぼんやりと見つめながら、俺は小さく頷いた。
出席番号が前後している、という理由だけで仲良くなった俺達だが、今のところ良い友人関係を続けていると思う。必要以上に干渉してこないし、こちらもしない。こうやって昼休みに一緒に弁当を食べて、ゲームや漫画の話をして盛り上がったり、バカ話で笑ったり。そんな気軽な関係だ。
弁当を広げていると、全開に開かれた窓から心地良い風が入ってきた。窓の外は、清々しいほど澄みきった青空が広がっている。
「夏だなぁ」
「突然どうしたんだ」
しみじみと呟くと、仲安に怪訝な顔で見られてしまった。
「いや、最近すげえ暑いし」
「まぁ、夏だからな」
そんな生産性のない会話を繰り広げながら、弁当を頬張る俺達。
何となく再び窓の外へと目をやると、向かいの校舎の屋上に、二羽の雀が飛んできて止まった。俺は慌てて雀達から目を逸らす。胸の奥の疼きを誤魔化すように、マヨネーズで和えられたブロッコリーを一口で食べた。
高校生活最初の一学期が、もうすぐ終わろうとしている。一学期を総括すると、可もなく不可もなく、といった感じだった。
そう、特に大きな事件などもなく――。
「ええええっ!?」
突然、女子の誰かが教室中に響く大声を上げた。驚いた皆が一斉に、その声の主へと振り返る。思考を中断された俺も、反射的にそちらへと顔を向けていた。
いきなり大声を上げるなよ。びくっとしちゃったじゃん。
視線の中心人物は、矢松という女子だった。先生に注意されない程度に茶色に染められた、肩まで伸びた髪が激しく左右に揺れている。
「今、あたしの鮭が消えた! 何で!? 何コレ!?」
「ゆりっぺ落ち着きなよ。どうしたの? 消えたって?」
「だからぁ! 鮭を食べようと箸を伸ばした瞬間に、鮭が消えちゃったのよ! 私食べていないのに!」
「…………」
胡乱げな目で矢松を見る、友達の女子。
もしかしてあんたが食べたの? まさか、食べてないよ、の応酬を繰り返す彼女らを呆然と眺めていると、今度は別のところから声が上がった。
「あぁっ!? 俺のしらすも消えた!?」
「僕の鯖の煮付けが!」
みんな結構渋い物を弁当に入れているんだな、と変なところに感心している間に、教室の中は蜂の巣をつついたように騒がしくなっていく。その喧騒に耐えかねたのか、「弁当の中身が消えた奴挙手ー」と、学級委員の女子が立ち上がり、その場を仕切り始めた。彼女の声の後、数本の手が上がった。
中身がなくなったのは、どうやら五人。そして五人とも、消えたのは魚らしい。しかし、この不可思議な現象の共通項を見つけることはできたものの、それで事態が解決するわけでもなく――。再び教室の中は、喧騒で包まれることになるのだった。
事の次第を黙って見守っていた俺達だったが、やがて仲安がどこかわくわくした様子で俺に話しかけてきた。瞳の中にいくつもの星が宿っている。
「これって何だろう? もしかして、超常現象ってやつかな?」
「うーん。よくわからん超常現象だな」
弁当の中身、しかも魚だけが消えるって何なんだよ一体。テレビでも見たことがないぞ、そんな現象!?
「猫の幽霊の仕業とか?」
頭にポッと浮かんだだけの安直な俺の予想に、仲安が食いついてきた。
「おぉっ!? 案外それかもしれないな! 腹が減ってみんなの弁当をつまみ食いしたんだよ、きっと。猫って長生きすると、妖怪になるって言うし」
「妖怪になることと弁当の中身が消えることは、あまり関係がなさそうな気もするんだが」
仲安にツッコミつつも、この普通ではない事態に、俺も内心わくわくしていた。
この『弁当の魚消失事件』は、俺達のクラスだけではなく、全クラスで発生していたらしい。
「そっちのクラスは?」
「消えたよ! うちのクラスは七人!」
などといった会話が各所で起こり――。放課後は学年を超えて、この話題で持ちきりになるのだった。