第一話脈動するグロック
それには、心臓が生えていた。
角ばったミリタリー仕様のポリマーフレーム。
その一部を侵食するように、赤黒い肉組織と筋繊維が、どくん、どくんと脈動している。
弾丸の一発一発が意思を持ち、肉に飢えた狼のように獲物を貪る。
鉄と、硝煙と、そして生暖かい血の匂い。
誰もが寸分も疑っていなかった退屈な平穏は、
その歪んだ銃声が響いた瞬間に、あっけなく地獄へと裏返る。
十一月、紅葉シーズンの京都駅は、国内外からの観光客でにぎわっていた。
烏丸中央口を包むガラス張りのアトリウムから、傾きかけた午後の光が斜めに差し込んでいた。まばゆい光線は、行き交う人々――大きなスーツケースを転がす旅行者や、足早に歩くスーツ姿の会社員たちの笑顔を容赦なく照らし出す。誰もが、この退屈なほどに平穏な日常が明日も明後日も続くことを、寸分も疑っていなかった。
その幸福な雑踏のただ中で、京都府警捜査一課の九条は、世界から色彩を奪われたような濃い影の中にいた。九条は無意識に、内ポケットの指輪へ指先をやった。この指輪の持ち主はもういない。これが被害者がこの世に残した唯一の証だ。被害者のを覚えているのは、今のところ自分だけだった。被害者が誰なのか、どんな生き様だったのかは分からない。九条は心の中で、被害者を「朝霧」と呼んでいた。発見現場の河原に立ちこめていた霧にちなんだ仮の名だ。名前のない人間を、番号で呼びたくなかった。指輪の硬く冷たい輪郭を確かめると、不思議と呼吸が整う。先週の事件から、もう何度目の癖か分からない。
視線の先にあるのは、黒いスーツケースを引く女の背中だ。
通路を流れる人の波に、その細い輪郭が見え隠れする。九条はわずかに顎を引き、視線を固定したまま足を進めた。ここで見失えば、この巨大なターミナル駅の迷宮へと完全に溶け込まれてしまう。
先週、京都市内で発生した凄惨な殺人事件。有力な手がかりのないまま膠着していた捜査は、今朝もたらされた近隣住民の目撃情報によって急展開を迎えていた。捜査線上に浮かび上がった正体不明の女。それが、いま目の前を歩く人物だった。
細心の注意を払い、歩幅を合わせる。女の靴音だけが、人波の拍から半拍遅れていた。鼓動が早くなるのを自覚しながら、九条は雑踏のざわめきを遮断し、ただ女の足跡だけを追い続けた。
不意に、女の歩みが止まる。通路の真ん中で彫像のように佇んだ女は、値踏みするような視線で怯むことなく周囲を見回す。そして、吸い寄せられるようにJR線の西改札口へと足を向けた。
(――しまった、逃げられる!)
改札の向こう側は、網の目のように広がるプラットホームの迷宮だ。九条は並走する同僚の藤原に、顎で改札の先を示した。回り込め、の合図だ。藤原は走りながら襟元のマイクに短く告げ、応援を呼ぶと、群衆の切れ目へ身体をねじ込んでいく。九条は肩と肩がぶつかる人波を強引に押しのけ、女の背後へと肉薄した。
「警察です。少し、お話よろしいですか」
低く、だが威嚇を込めた声。しかし女は一瞥もくれず、切符を手に自動改札機へと踏み込もうとした。その行く手を、九条の合図で先回りしていた藤原が文字通り身体で塞ぐ。
「署まで、ご同行願えますか」
九条の重ねた問いに、女はぴたりと動きを止め、ただ黙秘を貫いた。
時間が止まったようだった。行き交う人々の好奇の視線が突き刺さる中、十分が過ぎ、十五分が経つ。日は既に落ち、あたりに夜の帳が下り始めていた。ピ、ピ、と改札が人を数える。女だけが、その数に入らなかった。
本来ならこの場で所持品を確かめたい。だが、女性への検査は女性警官の到着を待つほかない。応援は、まだ来ない。紅葉シーズンの人波が、駅前の道路を塞いでいるのだろう。
女は一言も発しなかった。ただ、ときおり視線を落とす。自分の腰のあたりを、確かめるように。
九条は、上着の裾のラインが、先ほどより少し丸く見えることに気づいた。光の加減だ、と自分に言い聞かせて目を逸らす。自動改札の電子音と雑音のなかで、藤原の呼吸が荒くなり、苛立ちが皮膚から伝わってくる。九条自身、じりじりと焼き付くようなもどかしさに胃を締めつけられていた。
その時だった。女の薄い唇が、ふっと綻んだ。待ちわびた瞬間を迎えた者の、ひどく穏やかな顔だった。
「……わかったわ。けど、最後に一本だけ煙草を吸わせて」
九条は、胸の奥に溜まっていた熱い空気を「フゥーッ」と吐き出した。このまま衆人環視の改札前で粘られるよりは、場所を移した方がはるかにマシだ。事態が動き出したことに、わずかな安堵が脳をよぎる。
「……いいだろう。喫煙所まで案内する」
二人がかりで挟み込むようにして、女を歩かせようとした、その瞬間だった。
女の左脇にポジションを取った九条の視線が、彼女の腰元で止まる。網膜に飛び込んできたのは、ひどく奇妙な違和感だった。上着の裾のラインが、腰の後ろあたりで不自然に、丸みを帯びて膨らんでいる。煙草の箱のサイズではない。もっと硬質で、重みのある――。
「待て。……腰に、何を隠している」
九条の鋭い声音に、女がゆっくりと顔を巡らせた。
見上げたその瞳の奥には、感情の欠落した不気味な笑みが張り付いている。
女の右手が、躊躇なく腰の後ろへと伸びた。
「動くな!」
九条の怒号が、アトリウムの天井に鋭く弾ける。
女は、ずるり、と湿った音を立てて、それを引き剥がした。
角ばったミリタリー仕様の拳銃――グロックだ。だが、ポリマーフレームの一部が赤黒い肉組織や筋繊維のように、どくん、どくんと脈動していた。銃に心臓が生えていた。
九条がその異常に反応するより先に、乾いた銃声が吹き抜けの天井へ反響した。威嚇のような一発目。続く二発目は、迷いなく九条の反対側に立つ藤原の胸を撃ち抜いた。藤原の身体が不自然に跳ね上がる。口元から鮮血を滴らせ、信じられないというように目を見開いたまま、力なく膝から崩れ落ちた。
「しまっ――!」
叫びよりも早く、女は足元のスーツケースを乱暴に蹴り開けていた。
内側から現れたのは、折りたたみ式の銃床を備えた漆黒のアサルトライフルだ。女は迷いのない、手慣れた動きでそれを構える。
そのとき、九条は見た。ライフルの機関部に走る赤い筋が、女の手の中のグロックと同じ拍で、どくん、と明滅するのを。
放たれたのは、ただの弾丸ではなかった。一発一発が意思を持つ獣のように軌道を曲げ、遮蔽物の陰に逃げた人間の肩を、背を、足を、正確に食い破っていく。近くの店舗の強化ガラスが砕け散り、悲鳴が連鎖した。平穏だった駅構内は、またたく間に地獄絵図へと変貌する。さっきまで笑顔を照らしていた照明が、悲鳴の形に開いた口を、同じ明るさで照らしている。
「何が起こったんだ!」
「嫌だ、死にたくない!」
悲鳴、怒号、持ち主を失って転がるキャリーケース。数千人の群衆が津波のように出口へ殺到する。
九条は倒れた藤原に駆け寄り、その身体を抱え上げた。息はある。だが浅い。
退避しようとしたが、パニックに陥った人間の奔流に押され、膝をついてしまう。
その隙を、女は見逃さなかった。硝煙の向こうから歩み寄り、グロックの銃口を九条の眉間へ突きつける。肉の脈動が、額に伝わるほど近い。
「惜しかったわね。けど、これでおしまいよ」
女の指が、引き金にかかる。
(ここまでか――)
九条は奥歯を噛み、目を閉じた。内ポケットの指輪へ、指先が勝手に伸びる。ここで終われば、朝霧を覚えている者は誰もいなくなる。
その瞬間、視界の端から飛び込んできた影が、ラグビーのタックルのような質量で女の身体を突き飛ばした。
激しい衝突音。女が床へ転がる。誰かが九条の腕を掴み、強引に引きずり起こした。
「誰だ――」
言いかけて、息をのんだ。
自分を引っ張り上げたのは、京都の街にいくらでもいる、修学旅行生風のセーラー服の少女だった。小柄で、髪には砂埃がついている。硝煙の中で、セーラー服の白い襟だけが、場違いに清潔だった。
「君、早く逃げ――」
「立て、旦那。死にたいのか」
可憐な声に似合わない、腹の底から響くドスの利いた声音だった。九条は耳を疑う。
「待ってくれ、藤原が」
「置いていけ」
「断る」
少女は舌打ちした。一拍だけ九条を睨み、次の瞬間には、藤原の反対側の腕を肩に担いでいた。
「……チッ。遅れたら、旦那ごと置いていく」
背後を振り返ると、倒れたはずの女が既に立ち上がり、銃口を向け直している。
「こっちだ!」
少女は『駅ビル管理者用』の鉄扉を蹴り開け、暗がりへ飛び込んだ。九条も藤原を抱えて続く。
扉が閉まる直前、背後で金属音が連続した。銃撃が扉の表面を穿ち、火花が暗闇に散る。重い防音扉が完全に閉まると、耳が痛くなるほどの静寂が訪れた。
だが、それは絶望の始まりにすぎなかった。
床の底から突き上げる、鈍く重い震動。地下街と西改札口の方角から、空気を揺らす爆発音が轟く。遠くで、自動防火シャッターが重々しく閉まっていく。
九条は藤原を壁際に寝かせ、腰の無線機を掴んだ。聞こえてくるのは、ザ、ザザ、という不快なノイズだけだった。
「ジャミングだ。完全に孤立させられたな」
少女は声色ひとつ変えずに告げた。
「応援は呼んである。五分もすれば――」
「来ても外で足止めだ。シャッターが下りた。誰も中には入れやしない」
少女は暗がりで呼吸を整え、言葉を継いだ。
「あれはただの犯罪者じゃない。訓練された兵士だ。見ただろ、ライフルとグロックの脈が同じ拍だった。壊すならグロックだ。あっちが本体だ」
「……お前は、何者だ」
少女はセーラー服の襟元を正し、スカートの粉塵を払った。
「内藤雅成。陸上自衛隊、特務潜入班だ」
「自衛官……? その格好でか」
「あたしだって、好きでこうなったんじゃない」
内藤は、笑いもせずに続けた。
「警察の旦那、挨拶は後だ。あたしたち以外、京都駅にいる全員が人質になったぞ」




