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26 ノアの過去③

「とりあえず依頼者に連絡だ!」


 男達はメルローズを放り出して逃げていった。


(メル!)


 ノアは急いで彼女に駆け寄る。横たわった彼女は自力で起き上がることもできず、肩に手を当てるのが精一杯のようだ。彼女の下の枯葉がどんどんと赤く染まっていく。


「う……」


 いつもは鮮やかだったメルローズの唇の色味が暗くなり、その隙間から言葉にならない小さな呻き声が漏れる。目は虚ろで、焦点が定まっていない。


「……!」


 ノアは小さな頃から言われていた「人前で変身してはいけない」という禁を破った。熊の手では人間の時のように器用に指を使うことはできないから。

 人間の姿に戻り、軍の訓練で習った事を思い出しながら彼女の切り裂かれた袖を破り取る。


「メル、メル! しっかりして!!」


 彼女の意識を少しでも長く繋ぐため、声掛けを続ける。その間に袖をもう一度破り、縦長の布を作った。


「ごめんメル……君を傷つけるつもりじゃなかったんだ。ごめんなさい……」


 気を抜くと涙が溢れ、視界が歪む。それでは適切な処置ができなってしまう。ノアは必死に涙を堪え、メルローズを抱き起こし、怪我をした肩と脇の下に布を強く巻き付けて圧迫する。

 止血の処置が終わるとノアは彼女の顔を覗き込んだ。メルローズの瞼は細かく震えながら閉じかけている。ノアの両目から、堪えていた涙がついに零れ落ち、彼女の頬や額に雨を降らす。


「ノワー……ル?」


 彼女はそう呟くと、そのまま意識を失ってしまった。


「メル!? メル!!」


 彼は気絶したメルローズを抱き抱え、森の入り口へと走った。

 木々がなくなり伯爵邸が見えるところまで来ると、彼女を柔らかい草の上にそっと降ろし、ノアは再び変身する。


「ガアアアア!」

(誰か、誰か来てくれ! 早く!)


 彼の呼び掛けに応えたのだろうか。遠くからこちらに近寄る足音が聴こえてくる。足音から大人と子供の二人組と思われた。匂いもあの誘拐犯とは別物だ。ただ、熊の叫び声が恐ろしいのか、こちらを警戒するような足取りだった。


(俺がここにいてはまずい)


 本心ではずっとメルローズに付き添っていたかったが、血塗れの熊がいては誰も助けに来られないだろう。


(それに、俺の爪が彼女を傷つけたのだから……)


 ノアは重い自責の苦しみを抱えながらその場を離れる。人間では気づけないほど充分な距離を取って草むらに身を隠すと、耳をそばだてた。


「父さん、あれ!」

「おお、メルローズ嬢だ……血は止まっているな。ダスティン、伯爵邸まで走って人を呼んでこい!」

「えっ」

「いいから早く!」


 ノアはそこまで聴くと、くるりと背を向け保養地へ向かって走り出した。最後の最後に「()()()()()()()()()」という物言いに何か引っ掛かるものを覚えたが、その時既に全力で走り出していたし、彼女を傷つけた自分の右腕が憎いという感情に比べれば、全てが些細なことに思えていた。



 ☆



 ノアの首は鎖で擦り切れ、毛が抜けて血が滲んでいた。血塗れの仔熊が戻ってきたことで保養地の屋敷はちょっとした騒ぎになるが、すぐに親しい侍従がやってきて「心配ない。手当てはこちらでするから」と騒ぎを収め、彼を自室に連れていってくれた。


 信頼できる者だけしかいない部屋に入り、人間の姿に戻ったノアは身体を洗い、服を着て、傷の手当てをしてから全てを正直に話す。森を越境しメルローズと遊んでいたこと、彼女を狙う輩がいたこと、彼女に大きな傷をつけてしまったこと……自分の正体を明かし、できうる限りの償いを彼女にしたいことも。

 だが、侍従は難しい顔をした。


「お気持ちはわかりますが……このことは公にはできませぬ」

「なぜだ!?」


 ノアは珍しく侍従に反発した。しかし口ではそう言っていても皇族として、そして他人とは違う獣人としての過ごした十一年の経験と知識から、彼も本当は侍従が正しいとわかっている。

 ただでさえ隣国の皇子である自分が令嬢らしき少女に大怪我をさせただけでも国家間の大問題だ。そこへ当の皇子が獣人だという話が明らかになれば混沌を極める。


「何もかも全て諦めろと!? メルローズ嬢の安否の確認と、最大限の補償、それに誘拐犯の逮捕の三つだけでも無理なのか!?」

「かしこまりました……ただ、私どもオソランサ人が表立ってこの国で動けば、詮索されるやもしれませぬ。ここはボーレンヌ王家にお力添えを願いましょう」

「……わかった。皆、出ていってくれ」


 部屋で一人になったノアは己の右手を見つめる。爪の間まで丹念に洗われて、何事もなかったように綺麗な自分の手。だがこの手がメルローズに瀕死の怪我を負わせた罪は洗い流せない。


(この手を切り落としてしまいたい……)


 彼女の傷がなかったことになるなら、手どころか命を捧げてもいいとさえ思った。


(何が獣の力だ。何が俺は充分強いだ……そんなもの、メルを傷つけるだけじゃないか!!)


 再び滂沱がノアの頬を濡らす。彼は己と己の力を責め、憎み、否定し続ける。


 最後に覚えているのは、自分の憎い右手がむくむくと膨れ大きくなっていく様子と、服が内側の質量に耐えられずビリっと裂ける音だった。



 ☆



 ノアは帝国へ戻った。戻らざるを得なかったのだ。せっかく落ち着いていた症状は振出しに戻り、なお悪くなる。彼の身体は自分の意志とは無関係に熊に変身し、暴れるようになった。

 人間の姿に戻っても発熱と痛み、倦怠感が続く。食欲も減退し、無理矢理食べさせても吐いてしまうことの方が多かったのだ。


 あの事件が起きてしまった以上、熊の姿で森に行くことも憚られる。それならば自国のどこかの森で匿った方がマシではないか……と従者たち全員の意見が一致した。


 とある辺境の、もとは砦だった石造りの屋敷でノアは過ごす。しかし状況は思わしくなく、人間の時には食事が殆ど取れないために彼はどんどん痩せ細っていった。

 そんな彼を一人の男が訪ねてくる。宮殿のお抱え医師の兄弟子だというマスキスは変わり者で、地位や名誉よりも未知の病気や薬に強い執着があり、他国の様々な薬草を集めるために長年諸国を漫遊していたのだという。

 マスキスはノアの症状に興味を示し、根気強く彼に向き合い、遂に一つの結論に至った。


「これは体内のバランスと神経の乱れではないでしょうか」

「???」


 ノアも従者たちも何を言っているのか理解できず、マスキスはわかりやすくかみ砕いて説明してくれた。ノアの年頃、つまり成長期の子供には、稀に心身のバランスが乱れて攻撃的になったり、逆にふさぎ込んだりする子がいる。ひどい場合は発熱や頭痛、倦怠感や嘔吐もあるそうだ。

 獣人であるノアはそれらの症状に加えて勝手に変身してしまうのではないか、というのがマスキスの見立てだった。


「殿下は獣の力を嫌悪されているのではありませんか」

「……ああ。こんな力、無くせるものなら無くしたい」

「しかしそれを無くすことはできません。ご自身で嫌悪すればするほど心の負荷が強くなり、ますますバランスが崩れて症状が悪化します」

「ではどうしろと言うのだ!?」

「獣の力を嫌悪し逃げるのではなく、従えて自分のものにするのです」

「従える?」

「ええ、今の殿下は獣の力に負け、変身して暴れておられる。獣の力を意思の力で制御し、完全にご自身の支配下に置けば落ち着かれましょう」

「……」

「もちろん、私もお手伝いをさせていただきます。遠い異国まで旅をして手に入れた薬の数々がありましてね。中には神経を休め、心を落ち着かせる作用のものもあるのです」



 ☆



 マスキスの言ったことは本当だった。薬を飲み、己の中の獣を制御するよう努めるうちに症状は徐々に緩和してきたのだ。

 ボーレンヌ王国から便りがあり、メルローズは命を取り留め「ノワールに会いたい」と言っていると聞いたのも大きかったと思う。


「メルはあんなことがあったのに俺を許してくれるのか……」


 それは、ノアが己を許すきっかけにもなった。もちろん完全に許したわけではないが、背負っていた大きな重荷が下ろされた瞬間だった。

 彼は王家を通じてメルローズにぬいぐるみが贈られるよう手配した。もしもそれを見て彼女がおびえるようなら破棄するようにとの依頼を添えて。だがその依頼は杞憂だったようだ。彼の心の重荷はまた一つ軽くなった。




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