27 ノアの過去と現在
とは言え、ノアの身体の回復には長い期間を要した。
一時期は殆どものを食べられなかった為に酷く痩せ細ってしまったのもあったが、ノアがまだ自分を完全には許せていないのが大きかった。
時折ふと、あの時の事を思い出しては後悔し、そして自分を責めてしまう。すると症状がまたぶり返すという繰り返しだった。
それでも侍従やガルベリオ、マスキスたちの献身によって、二年近く過ぎた頃にはだいぶ状況は改善する。ノアは変身をほぼコントロールできるようになったのだ。
マスキスとガルベリオは彼が帝城に戻れると判断する。
だが実際に戻ってみるとその後も一筋縄ではいかなかった。帝国で最も権力の集約する場所である帝城は、すなわち最もドロドロとした悪意と欲望の煮詰められた場所でもある。
長い間静養の為に雲隠れをしていた皇子よりも、家臣の言葉によく耳を傾ける(実情は言いなりなのだが)、心優しき(つまり弱気の)皇弟の方が次の帝位に相応しい……と吹聴する者が増えていた。
ノアは、叔父を担ぎ上げようとする対抗勢力の事は気にも留めなかった。次の帝位が誰のものになるかは、現皇帝陛下があの赤い書物に名前を書き込み授けることによって決まるのであって、周りがとやかく言ったところで何が変わるわけでもないと割り切っていたからだ。
だから自分のやれること、やるべきことに真摯に向き合っていた。軍の訓練に参加したのも、成長期の前には何度か参加していたから、やれることのうちに入ると思っていた。
「ルイス殿下、お覚悟!」
訓練中、兵士の中の一人が突如ノアに真剣を向ける。おそらく皇弟を推す対抗勢力のひとりだったのだろう。だが虚を突かれても問題がない程度にノアの周りは密かな護衛で固められている。刺客は即座に斬り伏せられた。
――――そう、絶命するほどに斬られた結果。
「あ……!」
刺客から流れるおびただしい量の血を見たノアは、メルローズの肩から流れる血と、己の右手の爪が肉に食い込む感触をまざまざと思い出した。
「あ、あ、ア……!」
自分の身体がじわりと膨れ上がり変身の入り口に立っていることがわかる。だが意思の力で変化を抑えることは叶わなかった。ノアはこれ以上の変化を周りに見られないよう、その場から全力で逃げ出すことしかできなかったのだ。
☆
もともと対抗勢力の差し金で起きた暗殺未遂事件だったのだから、事の顛末は彼らの耳にもすぐ届いたのだろう。それからノアの周りでは血にまつわる嫌な事件が頻発した。
引き続き刺客が襲ってくることもあったが、本気でノアを殺すというよりもわざと護衛に斬られて死なない程度に血を流している節があった。かと思えば、怪我をした人物が突如目の前に現れたり、部屋の前に血を流した動物の死骸が置かれていたり……。
そしてノアはそれらを見ると顔を青くして逃げ去るのだ。おまけに逃げ去る時に恐ろしい表情で唸ったり、身体が一回り大きく膨れたりする場合もあった。
そのうちに、彼の事を『血塗られた皇子』だと言う者が出始めた。皇子は呪われているとか、血を見ると啜りたい欲望に抗えないのだとかいう無責任な噂を添えて。噂は城内で、やがて帝城の外にも密やかに伝わり拡がっていく。
この卑怯な手にはノア本人はもちろん、侍従やガルベリオ達も憤慨していたが噂を消し去ることは難しかった。なにせノアが血を見ると変身をコントロールしきれなくなるのだから「全くの出鱈目だ!」と言っても説得力がなかったのだ。
「要は大量の血を見なければ良いのでしょう。では敵を相手にする時は鈍器で殴ればいいのです」
相談を受けた軍団長は間髪を容れずそう答えた。物騒な発言に侍従たちは目を回したが、ノアとガルベリオはなるほどと膝を打つ。そこからノアと彼の警護担当は刃物を使わず棍やフレイル、あるいは徒手空拳で敵を倒す練習を繰り返した。
☆
血を見る機会が減り、ノアはまた徐々に変身をコントロールできるようになってきた。だが対抗勢力はあきらめないようだ。ノアが貴族との交流をあまりせず軍団長と懇意にし、帝国軍の訓練にも積極的に参加しているところに目を付けた。
「辺境で反乱軍が蜂起しました! 帝国軍にて制圧を願います!」
「ルイス殿下自ら軍を率いて行かれるがよろしいかと。あの辺境は殿下も思い入れがございましょう?」
反乱軍とは名ばかりで、大勢の賊が周辺の村を荒らしているそうだ。しかし規模の大きい賊の退治となれば当然血生臭い戦いもあるだろう。
(なるほど……それが狙いか)
皇子が戦場で青い顔をして逃げ出すか、あるいは血を見て挙動不審になれば、彼の評判は地に落ちる。しかも辺境での戦いが長引けば、皇子不在の間に皇弟派は益々城内での勢力を拡大できると考えたに違いない。
だがノアとガルベリオは敢えて真っ向から相手の罠に飛び込むことにした。まだ対抗勢力はノアの秘密を知らないからだ。
☆
帝国軍は反乱軍を次々と打ち破った。
中でもルイス・ノア皇子は自ら棍を手に、敵を誰よりも多く倒したそうだ。むろん、倒しただけで血はほとんど流していない。
また反乱軍は賊とは思えぬ作戦や罠も度々仕掛けてきていたが、不思議なことに帝国軍はそれらをすべて見抜いているかのように動いた。
種明かしをすれば不思議でも何でもない単純な話である。反乱軍の正体は、対抗勢力に雇われた賊だ。つまり対抗勢力に入れ知恵をされて作戦を決行したのだが、その案がノアに筒抜けだったのだ。
対抗勢力は帝都に居るのだから、彼らの作戦は早馬などを使って辺境の賊に伝えられる。ガルベリオは対抗勢力側に密かにスパイを潜り込ませた。ノアは帝都に居るスパイと定期的に連絡を取り合うだけで良い。
伝説の槍の力を使えば早馬の比ではない。一瞬で帝都に戻り、またすぐに辺境に戻ってこれる。
☆
辺境の反乱軍を制圧して帝都に戻ったノアは、表向きはその功績を、陰ではガルベリオの知略や槍の力を密かに使い、城内で対抗勢力を一つずつ潰していく。思いの外時間がかかったが一年半後には漸く皇帝より次の帝位を約束され、正式に皇太子の地位を得た。
「殿下、ボーレンヌ王国より報告が参りました」
彼が17歳となったある日、ガルベリオから一枚の書面を渡される。ノアはそれまでもメルローズの事を忘れた日はなかった。しかしボーレンヌ王家からはぬいぐるみを喜んだという報告を最後に何の便りもなかったのだ。
彼はひったくるようにして書面を覗き込んだ。そこには「メルローズ・ドレンテ伯爵令嬢は幼馴染のダスティン・シュールレ男爵令息と婚約間近である」という簡単な内容が記されていた。
「……」
「どうやらドレンテ伯爵令嬢は幸せになれるようですね。殿下、申し訳ございませんでした」
放心するノアの前でガルベリオは頭を下げ謝罪をした。実は今までボーレンヌからの報告は来なかったのではなく、全て彼が中身を確認し、握り潰していたのだった。
「今までドレンテ伯爵令嬢が肩の傷にふさぎ込み、家にこもりがちだという報告しかなかったものですから……」
ノアがそれを見ればまた自分を責め、症状が悪化するだけだ。ガルベリオは主君のために報告書を見せなかったのだと言う。ノアはそれを聞いて側近を怒る気にはなれなかった。
「いや、それはいい。……だが待て……この男が幼馴染だと?」
ざわりと音を立てそうなほど、嫌な予感が彼の中で立ち上る。
メルローズは犬だと思っていたノワールにいろんな話をしてくれた。両親の事、弟の事、最近侍女になった六歳上のお姉さんの事……だが幼馴染の話など一度も聞いたことがない。おまけにその幼馴染はファーストネームがダスティンだ。
六年前の事件は今でも彼の記憶にしっかりとこびりついている。だからあの時聞いた声もありありと思い出せた。
”……血は止まっているな。ダスティン、伯爵邸まで走って人を呼んでこい!”
(なぜ、血は止まっているなと言ったのだ。それではまるで……)
まるで、メルローズが血を流していたことを知っていたようではないか。
「……だが、いや……でも……」
ここで彼はひどく悩んだ。あまりの悩みっぷりに、また症状が悪化するのではとガルベリオやマスキスがハラハラしたくらいだ。
ノアは、また自分に甘い選択をしているのではないかと自問自答し続けた。己はメルローズが他の男と結婚するのが気に入らなくて、その男にケチをつけようとしているだけではないか……いや、やはりダスティンは怪しい……そんな堂々巡りの中に入り込み、一週間悩みに悩んだ。
そして彼は一つの結論にたどり着く。いくら悩んでも仕方がないので、自分の目で真実を見極めようと思ったのだ。
「ガルベリオ、今日の予定を全てキャンセルしてくれ。ちょっと出かけてくる」
「は!? 殿下!? ちょっとって……それ、例の槍じゃないですか!!」
ノアはガルベリオに止められる前に、光り輝く伝説の槍を空中に突き立て、裂け目に飛び込む。
その先は思い出の緑深い森だ。彼は服を脱ぎ、槍と共に草むらに隠すと変身する。巨大な熊、ノワールは跳ぶように森の中を走り猟師小屋に到着すると、うずくまって日向ぼっこを始めた。












