第四章(九)「ぼくはただの人間だ」
東の空が白むまで進み続けた。
周囲には敵味方問わず人の影はなく、ぼくとナホイは泥だらけの荒野を越え、ようやく見つけた高木の茂みに身を隠して腰を落ち着けた。
「ああ、クソっ。腹が減ったなぁ」
ナホイは自分の背負い袋をうらめしそうに覗き込んで、ぼやきを口にした。食糧の備えまで考える余裕も、用意できる時間もなかったのだから仕方がない。
「ナホイ、ぼくのカバンにはまだパンが残っている。分けて食べよう」
二つにちぎると三口ぐらいで食べ終わってしまいそうな大きさになったパンをナホイに手渡して、ぼくは手に残った半分を少しずつ食べ始めた。ナホイはすぐに口をつけず、じっとパンの断面を見つめている。
「……二度もパンをもらっちまうなんて、おまえにはでっけえ借りができちまったな。ありがとよ、この恩はいつか必ず返すぜ」
「そんなちっぽけなモノで、貸し借りとか言うのはやめてよ。元はといえば、ぼくの無茶につき合ってくれたせいなんだからさ──それと、水も要るだろう? こっちは飲みたいだけ飲んでいいよ」
ナホイの空いた手の方に、半ば押しつけるように小さくふくらんだ皮の水袋を差し出す。彼は驚いたようにそれを見つめ、それからおもむろに首を横に振った。
「そんなわけにゃいかねえだろ。水は、食い物よりずっと貴重なんだからよ」
「大丈夫。この辺は、水精霊が多いからね」
水袋の口元に手をかざして、手のひらの中に水精霊力を集中させる。大粒の雫が空気中からしたたり落ちて、瞬く間に水袋はパンパンに張りつめた。
「ね?」と言わんばかりの視線を向けて、にこりと微笑む。
「マジかよ……魔術師って、本当は神様なんじゃねえのか? 食い物も魔術で、何にもねえ所から出せたりしねえかなぁ」
「それができたら、本当に神様だよ。残念なことに、ぼくはただの人間だ」
眉尻を下げて苦笑する。火風地水を意のままにできる精霊術にも、侵せない領域がある。
それは「生命」だ。
人間や動物、果ては草木や細菌に至るまで、生命という概念の元に生まれ育つモノは精霊という属性の部外に存在している。それがライ麦から出来たパンや、動物の肉、木造の家の外壁といった、かつて生命だったモノに対しても例外ではない。
試したことはないが、例えば実をつけ始めた植物に治療魔術を応用して、瞬時に実を大きく育たせることならできるかもしれない。しかし果実そのものを発生させることはできないし、それ以前に無理に急激な生育を促せば、動植物の持つ生命エネルギーを即座に使い果たして枯れたり衰弱死してしまうおそれが大きいと考えられる。
治療魔術だって、自然治癒のスピードを超加速させるだけであって、おそらくは体内のタンパク質やらブドウ糖やらを激しく消耗するのだ。もちろん科学的に検証したわけじゃなく、大怪我を魔術で治療した後は、ひどくお腹が空くという現象からの仮説でしかないのだが……。
「さて、と。少し眠ったら先を急ごう。食べ物は今ので最後だから、早いとこ第一隊に合流できないと餓え死にだ」
ごろりと身体を横たえる。その傍らにナホイが寝転がってきて、木々の切れ間から青さの覗く空を見上げながら、大きくため息をついた。
「聖地」に最も近いという野営地は、もぬけの殻だった。
真新しい煮炊きの跡があり、最近まで第一隊がここに滞在していたのは間違いないのだが……。
「ダメだ、食いモンは米一粒残っちゃいねえぜ」
小屋から出てきたナホイが、地面に腰を落として力なくうなだれた。多少の蓄えが残っていることに期待したが、第一隊は糧食その他をすべて抱えて戦場へ向かったようだ。
「そっか。なら、急ぎ出発しないと。ぼくらの腹の虫にはもう、一刻の猶予もないんだ」
「──そうだな。どの道、第一隊に加わる他にねえんだし……あっ?」
立ち上がりかけたナホイの、目を丸くして見つめる先を追って振り返る。
人影だ。
数人のまばらなシルエットが、湿度の高い空気の向こう側ににじんでいる。
何も言わずナホイが走り出し、三歩遅れて、彼の後を追った。
近づくにつれてはっきりと浮かび上がってきたその姿は、軽重様々な傷を受けて、血まみれになった兵士のものだった。
駆け寄ってくるぼくたちに対して、比較的傷の浅い一人が緊迫した面持ちで短剣を携えたが、すぐに何かに気づいたようにその切っ先を下ろした。
「おまえ……『猛槍』か! おまえがここまで来たってことは、第二隊が到着したのか?」
「え! いやー、それがだな……」
「──残念だけど、第二隊は来られない。一つ前の野営地で夜襲に遭って壊滅し、ここに来られたのはぼくたちだけだ」
困惑気に言い淀むナホイにぼくが口添えをすると、兵士らの顔に明らかに暗いかげりが落ちた。
「……第一隊は、戦線を維持するだけで手一杯だった。後詰めが来ないとなれば、撤退する他にない……『猛槍』、俺たちはこのとおり、負傷で戦場には戻れない。おまえが──」
「分かってる、みなまで言うな! 俺らが急ぎ前線に行って連中を撤退させてくっからよ、おまえらはさっさと本国へ帰れ」
「……すまない。おまえも無事に帰ってこいよ、ナホイ」
ナホイは左手で親指と小指を立てる「OKサイン」を示してニヤリと笑うと、ぼくに目くばせをひとつしてから、矢のように走り出した。ぼくは短いため息をつき、疲労と空腹で重い身体に鞭を打って、彼の向かう先をたどった。
「あそこだ。ハイアート、準備はできてるか」
三切れ目の干し肉を噛みしめながら、ナホイは彼方を指差した。彼の人差し指の先では豆つぶのように小さな人の影が集団でうごめいているように見えるだけだが、そこで何が行われているかはじっちゃんの名にかけなくても容易に推理できる。
「ああ、大丈夫だ。早く行こう」
ぼくは腹ごしらえの意味も込めて、コートの下のベルト辺りをポンと叩いて、うなずきを返した。
刻一刻と移り変わる戦場を追うのは簡単だった。野営地を離れて間もなく、いくつかの真新しい死体を発見できたからだ。それを足跡のようにたどれば、自然とそこに行きつく。
決して行儀のよい行いではないけれど、ぼくたちのお腹を多少満たしてくれた食べ物も、イーダ兵らしき亡骸の腰についていた小さな麻袋から頂戴したものだった。火事場泥棒のようで抵抗がないわけではないが、背に腹は代えられぬ。腹が減っては戦はできぬ。
ナホイが先んじて猪のように突進し、敵味方が入り乱れる舞台へと躍り込むや、瞬く間に二人の兵士が地に臥せった。両軍が一時呆気に取られたその間にもう一人、ナホイの振るった槍の石突きに側頭部を殴られ、片方の目玉を飛び出させて絶命した。
「ナンズ第一隊、聞けぇ! 第二隊はもうここに来られねえ! 撤退だ! 俺らが援護すっから、出来るヤツから撤退しろ!」
喧騒の中でも、「撤退」というワードだけはしっかり伝播していったらしい。局地で応戦を続けながらも、自陣が徐々に後ずさりを始めていく。
「よっしゃ! ハイアート、このまま敵兵を減らしながら最前線まで進むぜ!」
「分かっ──」
返事を言い終わる前に、ナンズ兵の退却を見て追撃に来た敵を数人、まとめて冷気の幕で包み込む。血まで凍らされた者たちがバタバタとくずおれると、ナホイがヒュウと口笛を鳴らした。
「やっと本領発揮だな、『魔術師』! もう隠さなくていいのか?」
「ああ。そんな状況じゃなくなっちゃったからね」
ぼくの苦笑いに、ナホイは、満足気な表情で数回うなずいた。




