第一章(一)「あたしの想像をはるかに超える変わり者だったわ」
商業都市イダラバ。
山麓の村でアーエン師匠、そして彼に預けた愛馬のセキトと別れて二週間ほどの旅路の果てに、ぼくはこの大都市の混沌とした雑踏のただ中にあった。
この街の中心地を行き交う人の数だけで言えば、マラン王都を超えている。ぼくがかつて住んでいた日本の呉武市であれば、駅前辺りでさらに多くの人の流れがあったが──ダーン・ダイマに来て以来の人ごみに圧倒されて、少し気分が悪くなるほどだった。
その雑踏のあわただしさが、夕暮れになってにわかに降り出した強い雨のせいでさらにせわしくなり、ぼくも急いで手近な建物のひさしへと逃げ込んできた。
「いらっしゃい。お客さん、お泊りで?」
不意に背後から声がして振り返ると、三十歳を過ぎたぐらいか、前掛けを着けた女性が建物の入口から身を乗り出していた。よくよく見るとここは宿屋らしく、一階は他のものと同様に居酒屋のようになっている。
「いや──」
単に雨宿りで立ち寄っただけで、それを否定しようとしたものの──ぼくは今晩の宿を必要ともしていた。雨の中をウロウロと探すより、もうここに入ってしまった方がよさそうだ。
「いや?」
「あ、いやいや。一泊お願いします。夕食もつけてください」
「毎度ありー」
女性はにっこり笑って、店の奥へと戻った。そのあとを追って店内に入り、数枚の銀貨と引き換えにカギを受け取って、酒場のテーブルに落ち着いた。
食事を待つ間、ふと出口の方を見やると、先ほどの女性がそこから顔を出して、外を見張っているようだった。
ああ、してやられた。
雨宿りに来る客を捕まえるために、あそこで待ち伏せしていたというわけか──ぼくは苦笑して、それからもう二人ほど彼女の罠にはまるのを、料理を口にしながら眺めていた。
「おい!」
ちょうど食事をとり終えた時に、急に背後から怒号が聞こえて、ぼくは反射的に振り返った。
この宿の主人らしい頭頂部の薄くなった中年男性に、険しい表情の青年が詰め寄っている。激しい怒りからか、青年の顔の周囲には火の精霊が取り巻き、ぐるぐると活発に周囲を巡っていた。
度を超えて強い感情にとらわれた者には、顔や身体の周りに精霊を引き寄せてしまうことが多々ある。例えば、強い怒りや羞恥の感情には火精霊が、深い悲しみや恐怖の感情には水精霊が引き寄せられる。これが見えるおかげで、昔は苦手だった「他人の気持ちをおもんばかる」ことが多少出来るようになって、ほんの少しコミュ下手が改善されたかなとぼく自身は思っている。
「な、何でございましょうか」
「俺の部屋、ひどく雨漏りしてるぞ! 部屋を代えろ!」
クレーマーかと思いきや、至極真っ当なご意見だ。あんなに強い態度ではないにせよ、ぼくだってそう要求するだろう。
「ま、誠に申し訳ありません。先ほど満室となってしまいまして……」
「じゃあ他の宿に行くから、代金を返せ!」
ド正論でぐうの音も出ない。
ただ、この状況を、ぼくなら丸く収めることができるかもしれない。
このイダラバに至るまでの間、ずっと考えていたことがある。
何をすれば「世界を救えるのか」ということだ。
もちろん雲をつかむような話で、はっきりした正解が分かるはずもない。
だからとりあえずは、ぼくにできる範囲内で、どんなに小さなことでも「平和をもたらせる」ような行いをしていこう──と思っていたのだ。
しかし……今までずっと、他人と関わらないようにしてトラブルをやり過ごしてきた人生だった。
いざ実行に移そうと考えても、あそこに割って入ろうと思うだけで、背筋が震えてくる。
怖がることはない。大丈夫。ぼくは、最強の魔術師なんだ──
「あの……」
少し遠目から、二人に声をかける。
しかし言い争いの怒声に紛れてか、こちらに気づこうともしない。
ぼくは大きくひと呼吸してから、一歩踏み出して、精一杯呼びかけた。
「あのー!」
店主の目線がこちらに向き、次いで青年のぶすっとした顔がわずかに傾けられた。声をかけておきながら、いざ注意がぼくに向くと、緊張感で胸が苦しくなる。
「は、はい。お客様、何かご用で……」
「えっと。その、よ、よければなんですけど……ぼくの部屋と交換しませんか?」
「お客さんにこんなこと言っちゃなんだけど、あんた、変な人だねぇ。どうして雨漏りのする部屋と交換なんてしたんだい」
青年とカギを取り換えて客室へと向かったぼくの後に、一応部屋の状況を確認したいということでさっき店先で呼び込みをしていた女性店員がついてきていた。
「それが一番いい解決策だと思ったから……宿屋としてもひとり分の宿泊費を儲け損なってしまうし、客の方も今さら代金を返してもらっても、これから雨の中を、空室があるかどうかも分からない宿探しをしなきゃならなくなるわけで」
「それじゃ、あんたが全部の損をひっかぶるじゃないか。それが変だって言ってるんだよ」
「そうですね。でも、ぼくなら何とかできるんじゃないかなと思って。あ、ここだ」
カギと同じ部屋番号の扉を開けて、そっと中を覗き込む。天井からボトボトと落ちる滴りが、寝台の毛布を直撃しているという、考えうる限り最悪の雨漏りがそこで起きていた。
「あーあ。こりゃひどいねぇ……ここに泊まるのはやめときなよ、代金は返すからさ」
「うーん。ま、直せるか試してみますよ」
「直すって……うわっ?」
女性が頓狂な声を上げた。術式をさっと描き上げた直後に、ぼくの身体がスーッと屋根の近くまで持ち上がったからだ。
左手に光の球を作って、屋根に葺かれた石板のスレートを照らしてみると、大きくひび割れた箇所がある。そこを手のひらでさっとなで付け、土精霊術で接合すると、雨の雫はピタリと止まった。
「驚いた、あんた魔術師なのかい。初めて見たよ」
床に降りてくると、ぼくと修復の終わった屋根を交互に見ながら、感心したように女性が言った。魔術師や精霊術師という存在は往々にして貴族や王侯などの権力層に独占されており、市井でそう目にするものではなく、珍しがられても不思議じゃない。
「ええ、まぁ」
「大したもんだねぇ。でもどうして、そんなお偉いさんがこんな街にひとりで?」
「ぼくはお偉いさんじゃないですよ。たまたま腕の立つ魔術師に師事することができた、ただの一般市民です」
「ふーん……あんた、変わった人だなーとは思ってたけど、あたしの想像をはるかに超える変わり者だったわ」
否定はできない。異世界人だし、救世主(仮)だし。
「それより、とりあえず雨漏りは止まったけど……寝台も毛布もぐっしょりで、これじゃ寝られないねぇ。これも魔術でどうにかできるのかい?」
「もちろん」
水精霊力を手のひらにまとわせて、ベッドの上にかざす。染み込んだ水気が一瞬で水蒸気の白いもやになって、空気中に散っていった。
「うそっ。これでもう乾いてるの? はー……見事なもんだねぇ」
毛布の表面をなでながら、感嘆を漏らす。水を蒸気や氷に変える変成は水精霊術の初歩であって、実はとても容易なのだが──せっかくのお褒めの言葉だし、ありがたく頂戴しよう。
「恐れ入ります。さて、ぼくはもう休みますね。ご主人にこちらはもう大丈夫だとお伝えください」
「あ、うん。ごゆっくり」
女性は部屋をあとにして、ぼくはほっとため息をついてから、ごろりとベッドで横になった。
目指すイダラバには着いたが、これからどうするか。
ここを世界を巡るための足がかりとしたいところだが、当面の問題として、ここに来るまでの旅費で懐が寂しくなっている。
まずは資金だ。仕事を探さないといけない。
この街なら、きっと働き口がすぐに見つかるだろう──




