序章(十三)「活版印刷の発明が望まれる事案に思う」
槍の穂先が、狙いあやまたず、一五〇センチメートルほどの高さの板の中心を突き破って真っ二つにした。
「ハイアート様、完璧です。騎馬突撃はもう会得したと申し上げてよろしいでしょう」
四メートル弱の馬上槍を斜め上に構えながら、アーエン師匠の元へとセキトをゆったりと旋回させて駈歩で戻る。師匠は拍手で迎えてくれた。
馬の乗り方から始めて、馬上での槍術の訓練へと移行した時は、ただ馬に乗るだけの時とは別次元の難しさに辟易したものだが、為せば成るものだ。
「では、次は反撃の対応に移りましょう。突撃で最も警戒すべきは、勢いを逆に利用した──」
「師匠、すみません。訓練を始める前にお願いしてありましたが、今日は早めに切り上げていただければと」
「おっと、そうでした。中途半端になっている魔術の研究があって、その続きをしたいということでしたな。ではここまでにして帰りましょう」
「ありがとうございます。──あの、アーエン師匠。セキトをお願いします」
「えっ、お願いしますとは──おっと! は、ハイアート様──」
ぼくは術式を描き、セキトの背中から空中へと駆け上がる。あわててセキトの手綱をつかみに行くアーエン師匠を尻目に、数十メートルの高さで再び術式を組み、揚力と重力のバランスを取りながらまっすぐ家に向かって滑空を始めた。
魔術の方の修業は、オド老師より多くの基礎術式を学び、今はそれを応用して思いどおりに魔術式を組成したり、工夫して新たな魔術式を創造する段階へと移行していた。この風精霊術で気圧を変化させて空へ上昇する「飛行魔術」も、ぼくが発明したオリジナルの魔術だ。
そしてつい先日も、精霊力の研究の結果とても面白いことを発見し、それを使ってあることをしようと試みていた。
それは──
ランプだけの薄暗い室内を、ぼんやりとした新しい光が照らし出した。
その光の源は、ぼくが召喚された時に手に持っていて、以来六年以上電池切れのままだった、スマートフォンの画面だ。
「で……できた……! 本当にできた!」
ぼくは思わず叫んで、勢いよく立ち上がった拍子に椅子を転がす大きな音を立ててしまった。直後、あわてたようにオド老師が部屋をのぞきに来る。
「どうされました、ハイアート様。何の騒ぎですかな」
「あっ、申し訳ありません。つい大声を出してしまって」
「それは構いませぬが──何ですかな、その光っているものは」
ぼくはぺこりと頭を下げるが、老師の興味は早速、テーブルの上のスマートフォンの方に向いているようだった。
「これは、ぼくが日本から持ってきたものです。電気がないと動かないものでしたが──」
「デンキ? はて、耳慣れぬ言葉ですが」
「『雷』ってありますでしょう。あれの実体を日本では電気と呼んでいて、それを人工的に作ってものを動かす力として利用できる技術があるんです」
「雷を? あのようなものを利用とは──果たしてどんな魔術なのでしょうか」
腕組みをして首をひねるオド老師に、ぼくはふふっと失笑を漏らした。
「それ自体は魔術とは違う業なんですが──ぼくはそれを魔術で実現してしまったんですよ、今」
オド老師が、改めて驚いた様子を見せる。
「それは、ますます興味深い。して、どのように」
「まず、精霊力についてはそれぞれ性質について分析が進められていて、文献も数多くあるわけですが──光の精霊力については、そういった分析がほとんどされていないんです」
「確かにそうですな。光精霊はその染性を持つ者がわずかな上に、強力な制御力を持つ術師がごくまれにしかおらぬからのう」
うなずきを返す老師に、ぼくは右手の人差し指を立てて、その先に光精霊力をまとわせた。精霊力は白色の光の球となって、小さく指先を灯す。
「なのでここ最近、ずっと光精霊力を研究していたんです。基本的な性質から、変成の可能性など……そしたら、見つけちゃったんです。光精霊力には、電気に近い性質があることを」
左手も人差し指を立てて、次第に光精霊力の性質を変化させていく。やがて二つの指先の間で小さな稲妻が走って、バチバチと音を立て始めた。
「なんと、確かに雷を小さくしたようじゃ。この『デンキ』をどう利用するのでしょう」
「うん。実はぼくも、これがどういう理屈で電気で動くのかまでは詳しく知らないんだ。けど、バッテリーっていう部分に電気をたくわえて動くことだけは分かってる。そこで……」
ぼくはスマートフォンをくるりと返して、背面を見せた。そこには魔力で描いた術式がかすかに銀色の光を放っている。
「光精霊力を魔術で制御して、適当に流し込んでみたら動いちゃった、というわけ。まさか本当にできるとは思わなくて、こっちがびっくりしてしまいました」
「ふうむ、なるほどなるほど……しかして、これはその、デンキを使って何をするものなのですか? 灯りにはなりそうですが……」
空咳を二度してから、オド老師が訊いた。そう問われて画面をちらりと見ると、分かってはいたが左上には「圏外」と表示され、スマートフォンの主要な機能である通信に使うことはできない。
となると……。
「おお、ハイアート様。まだ夜も明けぬうちに、こりゃ何の騒ぎですかな」
ついにアーエン師匠までが部屋をのぞきに来て、大きなあくびをひとつした。
「起こしちゃいましたか、すみません。でもちょうどよかった、師匠も一緒に入りましょう。こっちに来て並んでください」
いぶかしげにしながらも、アーエン師匠はオド老師の隣に並んで立つ。老師を挟んでぼくも顔を寄せ、スマートフォンのレンズをこちら側に向ける。カシャっと音がして、二人がびくりと身を震わせた。
「ハイアート様、今の音は何でしょうか」
「シャッターを切った音です。はい、きれいに写ってますよ」
ほくそ笑みながら、不安げな表情の老師たちに画面を向ける。彼らは予想以上のリアクションを見せてくれた。
「な! 何ということだ。まるで鏡に映したような絵が一瞬で……こんな魔術、見たことも聞いたこともありませぬ」
「あはは、実際は魔術じゃないんですけどね。この板みたいなものはここに『目』がついてて、これが見たものをそのまま写し取ってくれる、日本の道具なんですよ」
「ほほう、ハイアート様の世界にはこんなにも便利なものがあるのですなぁ……これさえあれば、多くの時間を王宮資料室の蔵書の写本に費やさずに済んだのにのう」
画面をじろじろとのぞき込みながら、残念そうにオド老師がつぶやく。それはスマホより先に、活版印刷の発明が望まれる事案に思う。
「さて、どういうシロモノか分かったところで、もう一回撮りますよ。今度は笑顔で写りましょう」
再びシャッターを切る音が響く。画面の中には、にっこりと微笑んだ三人の姿が映し出された。
小刀の先が、最後のひと筆を刻みつける。
張りつめた緊張の糸をほぐすように、ぼくはふーっと深く長いため息をついてから、目線の高さに腕時計を掲げてにやりと口の端を持ち上げた。そろそろ電池が持たないだろうと思っていたので、六年間表示し続けていた地球時間がここで途絶えずに済んだのは幸いだった。この時の刻みだけが、ぼくと地球をつなぐ唯一の絆だ。
──もしダーン・ダイマに召喚されていなければ、二十一歳のぼくは、今頃日本で何をしていたんだろうか。これといった思い出もない高校生活を終えて、何となく入った大学でぼんやりと過ごす日々だったかもしれない。
もしかしたら、カノジョぐらいは出来て──ないか。
友達のひとりも作れないようなコミュ下手に、それはハードルが高すぎる。異世界で救世主になる方が、まだ現実味がある。
本当に救世主になれるかどうかはさておき、ぼくは魔術と精霊術において、この世のどんな術師にもなし得ないようなことができていた。先月、風精霊術で空を飛んでみせた時にも、古今東西の著名な優れた精霊術師でもこのような大業はできた験しがないと、オド老師は仰天していた。そして微笑みながら、今までに何度も繰り返してきた言葉を口にした。「さすがは、救世主となるお方ですな」と。
その一言が、突然異世界に来させられた、迷い子のようなぼくの心を支えていた。そして確かな自信へとつながっていた。だから、今の今まで魔術に、武術に、厳しい修業を続けてこられたのだ。
そういえば、ぼくはこの腕時計についてオド老師に話をしていなかった。これもまた電気で動き、ぼくの世界で流れている時間を示していることを説明したら、興味を持って聞いてくれることだろう。
ぼくは席を立って、決して広くない家の中を、老師の姿を探して回った。居間のテーブルにも、厨房の方にもその姿は見えない。
「老師。どこですか、老師──」
あと探していない場所は、寝室だけだった。首だけをのぞかせて部屋を見ると、寝台のかけ布団が小さく盛り上がっている。
「何だ、お休みになっていたんですか。どうしたんですか、どこか具合でも──」
何気なく声をかけたその時、オド老師が濁った音を立てて激しく咳き込んだ。力なくごろりと寝返りを打ち、こちらを向いた老師の口元の白い髭が、朱色に染まっていた。




